二十三話 思索

 青年は自室で悶々と考えた。その殆どが彼女のことである。今でもあの女性ひとを想うと、奇妙な感覚に陥ったいた。あの柔肌も、黒髪も、手に携えている杖でさえ、この世のものとは思えぬ佇まいだった。

 あれは夢だったのではないか。次第に青年はそう捉えるようになった。しかし、彼の見る夢にしては鮮やかで美しすぎた。彼の夢はより歪で、より汚らしく、厭に現実味をもったものでなければならなかった。もしあれが夢だとするのならば、彼女は青年に気づかず、しかし無意識に、彼の方面に唾の吐くような芸当が必要である。

 青年は破れかけたズボンから一本煙草をとって口に咥え、火をつけ燻らせながら、あの女性ひとが云った「美しい」という言葉を彼は何度も反芻した。反芻し、前後の文脈まで噛み砕き、要素に分け、そのひとつひとつを飲み込むように解した。けれども解しても解しても「解する」以上のものはなかった。真空を詰めたボトルを観察するように、そこに込めた事実というものを彼は信じられずにいた。

 青年は鏡を見た。久方ぶりのことだった。伊達と出会い、死に焦がれた頃はそうする必要がなかったし、病院にいる頃は鏡を見る気さえ起こらなかった。相変わらずの霞具合の鏡面に、細いシルエットが写る。

 彼の顔は、相も変わらず酷いものだった。曇天のようなくすんだ肌色、歯の黄ばんだ汚れ、薄平べったい鼻筋、脂を纏った黒髪が粗悪な皮膚から群生している、前と変わらぬ醜さだった。強いて言えばニキビが一つ増えていた。全てが歪み、すべからくアンバランスで、やはり青年は馴染んだ嫌悪を感じた。

 無論、顔を眺めたところで、おそらく彼女の放った言い放った「美しさ」はわからない。盲目である彼女は青年の風貌以外の何らかを嗅ぎとって、そしてそれは恐らく存在論に近い神秘的な因子を以って、「美しい」と評したのである。だが、それこそ青年の納得の及ばぬことだった。

 青年における観念では、肉体と精神は全く密接したものだった。醜悪な肉体には醜悪な精神がつきものであり、いわば人間の二足の様相で、片足が如何に早く鋭く歩こうがもう片足の鈍重さによってそのキレは失われて、沼に突っ込んだように悪平等的な結果を及ぼすものだった。全くの秀麗な肉体には秀麗な魂が宿り、その逆も然るべきものである(しかし一方で青年は、その「全くの秀麗な肉体」というものには殆ど出会していない、先の女性以外に)。

 ということはやはり青年において、彼女の発言は不可解極まりないものだった。彼は醜い。それは極論、主観ではあるが、彼の経験全てを賭けて証した主観である。さらに受けた蔑視が魂を歪め、彼の精神も嫉妬、侮蔑、憤怒に塗れた、目も当てられぬほど小心で、卑しく、腐ったものであるはずだった。

 では何故。青年は再び思索に潜った。それは深い泥の沼から一粒の砂金を探すような作業に相違なかった。

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