銀色の距離

まゆし

銀色の距離

 私は、手の中で弄んでいた銀色に少しだけ鈍く光る指輪を、彼の手に落とした。


 雲が過り、満月から欠け始めた少し頼りない月明かりの下、海が見える公園でベンチに並んで座る。昼間はまだ暖かいのに、夜になると寒さを感じる季節になった。空を見上げると、三つ並んだ星があり、オリオン座が見える。銀製の指輪は彼へのプレゼントではないし、彼から貰ったものでもなく、幸運を引き寄せると人気があったから自分で買った。ただ何となくつけていた。けれど、幸運が引き寄せられたからはわからない。


 数ヵ月後、私が手に入れた幸福は半分に割れていた。


 夜の公園は人がいるかいないかで、真っ暗で人工的な海は波音もない。時折、見知らぬ人の笑い声がどこかで聞こえる。私は、バッグに入っていた棒付きのキャンディを出してみたけれど、味が違っていたから美味しそうな方を彼に手渡した。私はちょっと苦手な、甘ったるそうな味の方を舐めてみた。


「こんな、大事なものもらえませんよ」


 手のひらに乗せられた指輪を見て、キャンディを口から離して焦りながら彼が言う。


 彼はいつも「すみません」と口癖のように言うほど、いつも私の前では恐縮しきっていた。背が高いのにちょっと猫背で、「面白い話が思いつかなくて……」とか「楽しめる話が出来ればいいんですけど」とか、困ってる姿が微笑ましかった。私に対して何かしてあげたいのに、何もできない気持ちが何故か伝わってきて、そのもどかしさを包み込んであげたかった。だから、黙って手を握るのはいつも私からだった。彼の手はあたたかい。


「怪我させたくない」と言いながらも不慣れな様子で、ちゃんとエスコートをしてくれた。私の歩く速度を気にしたり段差があるところではよろけないようにしてくれたり。私は「過保護だなぁ」と言いながら笑った。そして、いつも彼が返すのは「俺にはそれぐらいしかできませんから」だった。


 でも、その言葉を言われる度に、私はうまく笑えていたのかわからない。


「別に高価なものでは無いし、お守り代わりに持っててほしいの」


 私は準備していた笑顔を彼に向けた。指輪を弄びながら笑顔を向ける準備をしていた。今だけでいいから、二人だけで過ごす時間が止まってしまって欲しかった。けれど、二人で食べている棒付きのキャンディが小さくなってくる。時間が流れていることがわかる。

 涙なんて流したくなかった。一瞬でも彼が見えなくなるようなことはしたくない。時間が止まってくれないなら、絶対に泣いてはいけない。その為に、私は笑顔を準備した。


 指輪のもたらした幸福の半分は、彼と出会えたことで、足りない半分は私には時間が無いことだった。


 もう時間が無い。


 一年ほど前に、何もかもに諦めた私は周りの勧められるままの流れに乗ってしまった。長年過ごした地から逃げてしまうようなことだった。突然、知人から紹介されて、彼と出会ったのは旅立つ二週間前だった。彼と付き合ったところで、遠距離恋愛になるのが明らかなのに、彼は気にしないらしい。

 遊びかなと疑ってみたところで、この口下手が遊び上手には到底見えない。


「趣味とかないの?」

「ないっすね……うーん……仕事くらいしか」


 仕事は仕事で、趣味というよりは好きなことを仕事にするまではわかるけれど。趣味が仕事と、一生懸命考えながら言葉を選んで答える彼は、自然と私を笑顔にさせる。


 自己評価が低くて「俺なんて」と何度も口にする彼をいつまでも抱き締めてあげたかった。「そんなことない」そう言って、抱き締めてあげたかった。それなのに、無情にも時間は止まってくれなくて、刻一刻と彼を一人にさせてしまう。軽率に選んだ道は、真っ直ぐなのに、細くて狭く両脇にある棘が私を一歩進むごとに引っかき傷を作って血が滲み始める。彼を一人にさせたくない。涙の代わりに血が滴ることを覚悟した。

 ドラマなどでは離れてしまう二人は、ヒロインがきれいなきれいな涙を落とすだろう。私が涙を見せないのは可愛げがないと思われるだろうけれど、過去の自分が決めたことは、これ以上なく軽率で自分のことなのにどこか他人事で無責任だった。だから、もう無責任なことはしたくなくて、自分自身で視界を歪めてしまうようなことはしたくなかった。

 そして、私が涙を見せようが見せまいが、彼は私への想いを変えないだろう。


 私が涙を見せても今更「愛しい」と思わないだろう。


 出会って二週間とは何とも短いなと思ったけれど、彼の仕草や話し方に好感を持ったし、見た目が好みというわけではなくて一目惚れとも違った。お互い知人に食事の席で紹介された立場で、おまけに当日は、とりあえず食事会に参加した。第一印象で心に何か感じたわけでもなかったと思う。身体に電流のようなものが走る惹かれ方はしなかった。特別、話が盛り上がって意気投合したわけでもないのに、私は一緒にいたいと感じた。ただ、その気持ちは口にしてはいけない気がして、何も言わなかった。彼も、何も言わなかった。おそらく、私と同じような心模様になったものの、でも違った理由で口にしなかったのだろう。

 それでも、早々に自然と付き合うようになった。


「でも……」


 月が雲で隠れて、ただの小さな輪を手のひらに乗せたまま、彼は懸命に言葉を探しながら、私に何かしてあげられないかを考えているようだった。


「何もいらないよ。私が、ただあげたかっただけ」

「そうすか……すいません、俺、ホント気がきかなくて」


 たまに目を逸らしながら彼が私を見る。「愛しい」と伝えようとしている瞳で。


 瞳の中に映り込んでいる私は、彼に甘えた笑顔を向けていて、心が泥沼のような色をした感情に侵食されていることなど微塵も感じさせない。感情の原因は、その姿をどこか冷静に見ている自分がいるからだった。その自分は「そんな指輪捨ててしまえばいいのよ」と彼に伝えようとしている。間違いではない。いつ会えるかも、もうわからない。もっと優しくてしっかりしている女性がいるはず。その人と一緒になればいい。私の存在を道端にある建物のひとつにして、立ち寄った後、立ち去ればいいと思う。私は、そのまま彼の瞳に映る私を無視するようにすれ違い、彼の首元に抱きついて目を閉じた。キャンディの甘い香り。抱き締め返す彼の手は、あたたかい。


「見送りに行きます」


 出発の朝、出掛ける準備をしていた時に、メッセージがポンと表示された。何時にどの辺に着くかを返信した。仕事は大丈夫なのだろうかと思ったけれど、彼は自分自身で決めたことは責任を持って遂行するだろう。私自身の無責任な行動に、呆れもせず否定もせず苦言もせず、ただ大切にしてくれる。それをわかっていたから、素直に返信をした。キャリーケースをガラガラと引きながら、伝えた場所に着くと仕事着の彼が立っている。


「職場の人が、見送りに行ってもいいって言ってくれて。やっぱり顔見たくて」

「……ありがと!」


 私は、今にも泣きたい気持ちを抑え込んだ。彼の隣に立って手を繋ぎ、溢れそうな潤み始めた目で空を見た。空の太陽は、身体の中にいる私を透かして見せるような熱量で照らす。彼を一人にしてしまう。私は棘でできた傷から血が止まらなくてうずくまる。


 彼は下を向いて、照れながら言った。


「実は、昨日泣いちゃって……」


 私は、それを聞いた瞬間、勢いよく彼に抱きついた。鎖骨に彼のネックレスが当たる。首元に顔を埋めて、「ごめんね」と囁いて、自分の腕でそっと涙を拭いた。驚く彼が私を抱き締めて支えたとき、ネックレスに通されていた銀色の指輪が揺れた。


「何でもワガママ言ってください」


 何度も彼は言っていた。


 今。


「行かないでって、私を引き留めて」と言ったら、引き留めてくれるのだろうか。棘に傷付けられた痛みに耐えきれず「離れたくない」と私が泣いたら、彼は引き留めてくれるのだろうか……




 雪が降り出して、私は空を見上げた。距離があっても連絡には不自由のない時代になったものの、傍に居ることができないことで寂しくて悲しい感情が私を襲う。

 スマホをコートのポケットから取り出して、来ていたメッセージの返事を打ち込んでから、何度も見た彼からのメッセージを遡って見る。


「大切な人です。出会えて幸せです」


 彼は離れてからも気持ちを伝えてくれる。スマホに打ち込むにしても、文字化すると気恥しさが増すだろうに。一生懸命スマホを見ながら打つ文字を考える姿が浮かぶようだった。

 スマホをまたポケットに押し込んで、傘もささずにふわりふわりと鳥の羽のように降ってくる雪をじっと見た。まつ毛にそっと落ちてきた雪はすぐに溶けてじわっと肌に溶けていくようで、それを繰り返すうちに涙のようにポツリと頬に落ちた。私はコートの袖口で拭った。冷たい……


「ダメですよ、風邪ひいちゃいます」


 彼の声が聴こえた。いるはずもないのに。私は「過保護だなぁ」と言いそうになる。今なら心から笑える。離れてしまっても大切にされていることはもう充分過ぎる程、感じていた。でもきっと幻聴だろうと思って、寂しさで凍えそうになってしまう。


 そう思ったのに。


 いるはずがないのに、振り返ると傘をこちらに差し出す彼がいる。先程、「家の近くの公園まで散歩に来た」とメッセージは送った。

 私は寒さから感覚が麻痺して幻でも見えてきたのかと思った。でも、氷点下にはなってないし、雪もチラつく程度で凍死する程この場所にいたわけではない。これは、どういうことなんだろう。頭が働いてくれなくて、言葉も発することができずに、じっと彼を見る。彼の瞳にいる私も呆然としている。


 すると彼は申し訳なさそうに、恥ずかしそうに笑った。


「すいません、迷惑でしたかね。どうしても会いたくて、驚かせたくて連絡しないで来ちゃいました」


 こんな時もまずは謝ってしまうのかという考えと、ずっと会いたかったという気持ちが交差する。けれど何よりも優先されたのは頭よりも身体だった。勢いよく彼に抱きついて目を閉じた。コートにじんわりと涙が染みていく。キャンディの甘い香りが蘇る。抱き締め返す彼の手は、こんな寒いところでも、あたたかい……


 私は手に入れた幸福の半分を、やっと手に入れた。もしかしたら、最初から半分に割れてなどいなかったのかもしれない。

 いつの間にか雪が止んだ。雲の絶え間から光がさして積もった雪に反射した。それは彼の首元にちらりと見えた指輪を強く輝かせる。

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