27 くちづけ

 イヴァンの奥さんが亡くなった。

 正直、いなくなってくれれば良いと思ったことはあった。


 奥さんがいなければ、イヴァンも私の気持ちを受け入れてくれるかもしれないという一縷の望みがあったから。


 だけど、死んでしまえ、と思ったことはなかった。矛盾しているようだが「いなくなれ」と「死んでしまえ」の間には大きな気持ちの落差があるのだ。それが人間ってものだろう。


 アンナからの電報が届いたその夜、イヴァンはベッドにも入らず、リビングの椅子に腰掛け、悲痛な面持ちで、じっと何かを思い詰めたように考え込んでいた。

 村人に無理矢理連れ出された掃討戦の後だから、相当身体が疲弊しているだろうと、私は気になって仕方なかったけれど、とても声を掛けられる雰囲気ではなく、私はひとり無言のままベッドに潜った。

 イヴァンに触れられないベッドはいつも以上に広く、そして寒々しくて、私も眠ることができなかった。


 明け方、イヴァンが誰かと話す気配があった。どうやら、部屋のモニターを使って誰かと通話をしているようだ。私は盗み聞きをしてはいけないと思い、そっとドアから離れ、再びベッドに潜り込んだが、唐突にドアが開いてイヴァンが姿を現した。


「スノウ、起こしてしまってすまない」

「いいえ、起きていたから、気にしないで」


 私はベッドから起き出し、乱れた髪を整えながらイヴァンの顔を見る。すると、イヴァンは思いがけないことを口にした。


「今、バレンシアにいるアンナと通話しているんだが、彼女が君にも話を聞いてもらったほうがいいと言っている。こんな時間に申し訳ないが、同席してくれないか」


 

「スノウ、久しぶりね。そちらはまだ明け方よね。でも、あなたにも聞いて欲しい話だから、勘弁してちょうだい」

「お久しぶりです」


 遠距離の通話は多少タイム・ラグがあり、また電磁波の乱れもあって、その表情は読み取りにくいものがあったが、モニターに映る、タートルネックの黒いセーターを着た私服姿のアンナの声には厳しいものがあった。私は寝間着姿のままだったが、緊張してイヴァンとともに画面に向かう。私が頷くと、アンナはそれじゃあ早速とばかりに、単刀直入に尋ねてきた。


「まず聞いておきたいんだけれど、あなたはこれからもイヴァンと一緒に旅を続けるつもりはある?」

「はい」

「そうよね。それで、あなたはイヴァンのことを愛しているの?」


 私は戸惑った。

 そのとき、私はどんな顔をしたんだろう。アンナになんと答えればいいか分からず、咄嗟に口をつぐんでしまった私に、彼女が苦笑混じりの声で言う。


「スノウ。正直な気持ちを話して良いのよ。私とイヴァンは「女友達」にすぎないんだから。それに、その場の勢いとはいえイヴァンと寝たことは、あなたに悪かったと思っているわ」

「おい、アンナ」


 イヴァンがばつの悪そうな顔で慌てて口を挟む。だがアンナは平然としたものだ。


「何よ、私は本心を言っているのよ。だいたい、私と寝たことを、あんた、スノウに隠せなかったんでしょ」


 そのふたりの遠慮のないやりとりに、私は思わず嫉妬を覚えた。そしてその感情に突き動かされるように私は叫んだ。


「私はイヴァンのことを、愛しています、心から!」


 イヴァンが私の顔を見る。心なしか気恥ずかしそうに。その顔は赤かった。

 アンナはそれを見て画面越しに笑っている。

 私はその余裕に満ちた顔が少々恨めしかったけれど、それからのアンナの話は、言葉を失わせるものだった。


「なら良いわ。じゃあ、これから話すことを真剣に聞いてほしいの。イヴァンの運命共同体としてね。まず、最初に結論から言えば、これからの旅の過程で、イヴァンは命を狙われる可能性があるわ」

「え? また麻薬商人にですか?」

「違うわ。相手が何者かは、まだ私にもはっきりとは分からない。でも、誰かに、彼はたぶん命を狙われている」


 私はあまりに意外な話の展開に息をのんだ。なんと答えれば良いか分からず呆然とする私の前で、アンナは冷静に語を継いでいく。


「というのも、ターニャ……イヴァンの妻が亡くなったのはあなたも知っているわよね。で、私は軍医だから、少しターニャが入院していた軍用病院には顔が利くの。それを利用してちょっと内情を探ったんだけれど、どうものよ、その死因が。病院内の火災で、ということになっているけど、どうもそれは放火みたいでね。でもそういう報道は皆無なの。だからまず私は、彼女が殺されたのではないかと、疑念を持ったの」


 そこまで一気に話すと、アンナは傍らのグラスから水を口に含んだ。私はイヴァンの顔を見上げる。イヴァンは腕組みをしながら厳しい面持ちでモニターを食い入るように見つめている。


「そこでターニャのカルテを追ってみたんだけどね、彼女は最後まで自分の娘、ナターシャ……つまりイヴァンと彼女の子どもよ……は、「イヴァンに殺された」と執拗に主張していた。でも、そんなはず、ないのよ。ナターシャはたしかに、終戦直前の学童疎開船の事件で亡くなっている。そう、イヴァンがあなたに頼んで調べたあの撃墜事件で。けど、ターニャの言っていたことは妄想ではなく、真実で、そのため、殺されたのかもしれない……」

「ちょっと待って下さい。ターニャさんが言っていたことが本当だとしたら、イヴァンが自分の子どもを殺した、ということが、事実だということですか?」


 私はここまで言って、自分がとてつもなく恐ろしいことを口にしてしまったことに気付く。私は震えた。

 やがて、今にも凍り付きそうな空気のなかで、イヴァンが苦しそうに呻く。


「そうだ、そうかもしれないんだ、スノウ」

「……そんな」


 イヴァンの苦しげな顔といったら、なかった。それでも、彼は絞り出すように言葉を連ねていく。


「そう、しかし、俺にはその記憶がない。だが、俺がいつ記憶を取り戻すかも知れないとしたら、そして、ナターシャが撃墜事件で死んだのではなく、俺がナターシャを殺したことを、誰かが必死に不都合な事実として、隠そうとしているとしたら……」


 しばしの沈黙ののち、アンナが冷徹に言い放った。


「ターニャの次に消されるのは、イヴァンだわ。キースがイヴァンに伝えたかったのは、そういうことね」


 

 アンナとの通話が終わってから、私たちはリビングのモニター前で、どれくらい黙りこくっていたのだろう。

 重く冷たい空気がアパートメントの部屋を支配している。世界はちょうど朝を迎えていて、眩しい陽が部屋に差し込みつつあったが、そのひかりも部屋の空気を、そして私たちの心を明るいものにできないでいる。

 アンナは通信の最後で言った。


「いい? スノウ。ここまで詳しい話を聞かせたのは、あなたがイヴァンと本当に旅を続けたいというなら、知っておかないといけないことだからよ。もし、今の話を聞いて、彼との旅路が恐ろしくなったら、悪いことは言わない、イヴァンと今すぐ別れなさい。または、それでも彼と旅を続けたいと思うなら、覚悟をして付いていきなさい。その判断はあなたに任せるわ」


 その言葉を私は何度も胸のなかで反芻させていた。イヴァンが命を狙われているかも知れないこと、そして、イヴァンが我が子を手に掛けたかもしれないこと。その両方が恐ろしい事実として私の感情をかき乱す。


「別れるか」


 唐突にイヴァンが言った。

 私は、はっ、として終わらぬ心の逡巡から意識を離し、イヴァンの顔を見た。


「俺が恐ろしくなっただろう」


 ああ、たしか、これに似た台詞を、まだこの旅の始まりのときに言われたような気がする。あのとき、私はその言葉を否定した。それは、あのとき、すでに、彼のことが好きだったから。

 でも、今はそのとき以上に、いや、そのときと比べものにならないほど、私はイヴァンのことが好きだ。

 だから、私は、頭を横に振った。


「無理をしなくていいんだ、スノウ。この旅をここで終わらせた方が、君にも安全だしな」


 彼は哀しげな笑顔でそう呟いた。あの綺麗な薄いブルーの左目に、朝のひかりが跳ねる。その目はどこまでも暗く深い影が窺えて、私はその瞳に、そっと手を携えた。


「無理なんかしていない。イヴァン、私はあなたを愛している。その気持ちに嘘偽りなんてない」


 私は一言一言を噛みしめるように言った。


「私の過去を、受け入れてくれているあなたを、恐ろしいなんて思わない」


 そして私は彼の頬に手を添えたまま、少し背伸びすると、彼の唇に自分のそれを重ねた。それから、ゆっくりと唇を離すと、驚きの色を隠せないでいる彼の左目を、まっすぐ見つめて私は囁く。


「それに、まだ私、雪を見ていないわ。イヴァン」

「……そうだったな、スノウ」


 そう言うと、今度は彼の方から唇を重ねてきた。最初は、遠慮がちに、それから、激しく。

 冷たいけど、柔らかいその感触。不器用で、無骨で、でも優しい、イヴァン、あなたそのものの、感触。


 手放すものか。私はこの幸せを。この大切な存在を。愛すべき人を。


 たとえ、何があっても。

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