17 絵描き

 イヴァンが船を出て行ってから、私は何を考えていれば良いかすっかり分からなくなってしまって、ふらり、と船を下りることにした。


 彼の奥さんが生きているなら、この先、彼と一緒に旅を続けられる保証もない。私も身の振り方を考えなければいけないのかもしれない。

 だけど、どうやったら、ひとりで生きていけるのだろう。


 あのウィリアム街に戻るのだけは嫌だった。私の家族が、のうのうと帰ってきた自分にどう接するか、考えるだけでも怖かったし、また同じ「夜」の仕事を強制されるのは目に見えていた。

 とはいえ、私がひとりで生きていく術は、もはや、身体を売り続けることしかないのかもしれない。


 でも、どうせそうなるなら、せめて、自分の意志で「堕ちて」いきたい。誰かに汚されるにしろ、自分の意志で。

 そんなことを考えるほどに、そのとき、私は自暴自棄になっていたのだ。


 船室を出るとき、イヴァンに何か、書き残していこうかと思ったが、結局は何も残さずに私は部屋を後にした。

 口紅でそれらしく鏡に「さよならグッド・バイ」とでも書き殴っても良かったのだけれど、イヴァンに伝えたいことは、どちらかというと「ありがとうサンキュー」という気持ちのほうが、こんな目に遭ってでも、私には大きい。


 もし、書き殴れるとしたら、本当は「あなたが好きアイ・ラヴ・ユー」と書き残したかった。


 つまり、私は今でもイヴァンを嫌いになれなくて、好きでたまらなくて。だからこそ、苦しくてたまらない。

 私はその心を切り離すかのように、アクアマリンの指輪を指から外し、テーブルにそっと置くと、フリルの付いた白いブラウスに水色のスカートという、いかにも良家の子女っぽい格好に身を整え、下船口に向かった。



 下船した私は、宇宙港の観光案内所に直行した。

 若い男性の案内員が、にこやかに応答する。年端もいかない少女が、こんな終戦直後に観光なんて、身の程知らずだな、という視線ではあったが。


「こんにちは、パパが仕事で下船してしまったから、帰ってくるのを待っている間、暇つぶしがしたいの。どこか市街で面白いところはあるかしら?」


 そうぬけぬけと嘘をつく私に騙されて、案内員はテーブルに地図を広げては、ティーンエイジャーに人気の一角や、レストランなどを懇切丁寧に解説してくれた。私は頷きながらそれを聞き、そして、その最後に、さりげなく大事な質問を口にする。


「ありがとう。よく分かったわ。じゃあ、私のような娘が、近づかない方が良いところも念のために教えてくれるかしら。気を付けるにこしたことはないから」

「そうですね、それは大事なことです。敢えて言うなら、セントラル・パークの付近は治安が非常に悪いので、近づかない方が良いでしょうね。どうぞお気を付けていってらっしゃいませ」


 私はそこまで聞くと満足げに一礼し、もらった地図を手に案内所を出る。

 そしてトラムの駅にその足で向かうと、迷わず「セントラル・パーク駅」までの片道切符を買った。


 戻れない道に行くのか、いや、本来の道に戻っていくのか。

 いったいどっちなんだろう。


 ゆっくり動き出したトラムのなかで、ひとりそんな事を考えながら、私は車窓に映る自分の顔をぼんやり眺めていた。


 イヴァン、助けて。イヴァン、ここに来て。

 イヴァン、私を、あの闇の中に戻さないで。


 そんな気持ちを、無理矢理、胸に押し込めて。



 セントラル・パーク駅に着いたのは、丁度良く、夕暮れの時刻だった。たしかに、その周辺は、見るからにいかがわしい雰囲気のネオンが光るビルや、バー、ホテルが目立ち、街全体が薄汚れた印象だ。道ばたに座り込んだ路上生活者の表情は暗く、そして、ちらほらと街角に見受ける派手な格好の女たちは、明らかに私の同業者だ。


 さて、来てしまったけれど、どうしよう。


 だがそう考える間もなく、この街に到着して五分も経たぬうちに、所在なく街を漂う私に目を留めた、数人の男が声を掛けてきた。


「よお。見知らぬお姉さん。よかったら俺らと飲みに行かないか」


 下心たっぷりのその猥雑な男たちの表情と口調は、懐かしくさえあった。あっという間だ。堕ちるときには、簡単に泥のなかに堕ちていける。


 そのときだ、誰かが私の腕を引っ張った。見ると栗色の髪を長く伸ばした男性が私の腕を掴んでいた。

 いかにも自由人といったラフな格好で、歳は二十五、六だろうか。彼は何事かと驚く私にかまわず、私の身体を自分の脇に引きつけると、こう男たちに言ってのけたのだ。


「あんたたち、悪いね、こいつは俺のモデルに呼んだ子だ。手ぇ出さないでくれるか」

「なんだよ、ショーン、お前の訳の分からねぇ絵の相手かよ。そりゃ残念だな」


 男たちは舌打ちをしながら三三五五に散ってゆく。

 それを見届けると、ショーンと呼ばれた男性は、私の手を掴んだまま、無言で近くの古いアパートメントに私を引き込んだ。


「ちょ、ちょっと」

「いいから」


 ショーンは私の手を離さずエレベーターに乗り込み、ふたりきりになると、ようやく私に向き合ってこう言った。


「どこの家出少女か知らないけど、あんな奴らに付いていくなよな、あいつら、お前さんを酔わせたら頃合いを見て、酒場の奥のベッドでお前さんを輪姦まわす算段だぞ」

「分かっているわよ」

「分かっていて、あの場にいたのか。度胸の良い奴だな」


 ショーンは呆れたように私を見やる。私はそんなショーンとやらの真意が分からなかった。結局は、こうやって私を自分のアパートメントに連れ込んだからには、あの男たちと同類なのではないか。

 何を偉そうに、と私は思ったが、逆らう手段もない。そうこうするうちに、エレベーターはアパートメントの最上階に着いた。私はショーンに手を引かれるまま、エレベーターから出、成されるままに黴臭い廊下を歩かされ、そして一番奥の部屋に押し込まれた。


「わぁ」


 灯が点された部屋の中を見て、私は驚いた。

 そこには色彩の渦が躍っていた。壁と窓に立てかけられた無数のキャンバスや紙。そこに無数の赤、青、黄……あらゆる色の絵の具の筆跡があり、部屋全体からは油絵の具だろうか、独特の匂いが漂っている。

 私はショーンを見上げた。


「あなた、画家なの?」

「ああ、一応な。ここは俺のアトリエだ」


 ショーンは私に、これまた絵の具で汚れてボロボロのソファーを指さし、腰かけるよう無言で促すと、こう言った。


「明日までそこで寝ていろ。朝になったら家に帰れよ」


 そしてショーンは私に背を向けて、乱雑な部屋のなかに立てかけられた描きかけの絵のもとで、何やら絵筆を振るいだした。


 そうか、この人は、私を自分の「モデル」と称して助けてくれたんだ。

 私はようやくそれを理解した。


 私は「絵描き」という人種をまじまじと見るのは初めてだったので、しばらく黙って好奇心のままにショーンが絵を描く姿を見ていた。

 ときに素早くなめらかに、ときに間を置いて長考しながら、絵筆を振るうその姿は、なんだか、この世の全てから解き放された「自由」そのもののようにさえ見えて、私はしばし見惚れた。


 といってもその紙に描かれる絵は、ひたすら色を塗り重ねた抽象画で、何を描いているのかはさっぱり理解できなかったけど。

 私は思い切って尋ねてみた。


「ねぇ、何を描いているの?」


 するとショーンは絵筆を止めることなく、私に背を向けたまま答えた。


「俺だ」

「え? それが、あなたなの?」


 その紙の上はただの色の洪水にしか見えず、人影らしきものは、私には何も見いだせない。だけどショーンの答えはこうだった。


「ああ、俺だ、今の俺の心を描いている」

「心?」

「そうだ、だからこれは俺そのものなんだ」


 私は感嘆した。自分を描くにしろ、こんな表現の方法があるなんて。いったい、どの辺が彼の心なのだろう。一体どんな心情を描いているのだろう。それを想像しながら、彼が絵筆を振るう様を見ているのは、なかなか楽しいものだった。

 そうこうしているうちに、私はあることを思いついた。


「ねぇ」

「何だ?」

「せっかくだから、私のことも描いてほしい」

「お前さんを?」

「うん、私がどんな風にあなたに見えているのか、見てみたい」


 ショーンは図々しい奴だな、とばかりに私を見る。だが、少しの間を置いてこう私に尋ねた。


「お前さんを描いてやったら、明日の朝には大人しく家に帰るか?」

「ええ」


 ショーンは、なら仕方ない、という表情で、絵の具が飛び散った顔を私に向け、イーゼルの向こうの椅子を指さした。そこに座れという意味らしい。

 私はソファーを飛び降り、椅子に駆け上った。そして服を脱ごうとブラウスとスカートのボタンに手をかけた。


「ああ、脱がなくて良いから」

「え? モデルってそういうものじゃないの? 私はかまわないわよ」

「いや、俺が描きたいのは、そういう絵じゃないんだ」


 私は意外に思いながらも、ボタンを元に戻した。

 正直、変わった男の人だと思った。絵描きってのは、みんな、そういうものなのだろうか。

 私は椅子に座り直してショーンを見つめる。栗色の長髪は、顔同様、ところどころ絵の具に汚れている。そして薄茶色の瞳は、真剣に私をじっと見据えている。しばし彼はそのまま固まったように身動きひとつせずいたが、やがて、弾かれたように絵筆を動かし始めた。


 ぐんぐんと彼のなかで私のイメージが広がり、それを絵の具で心のまま表現していく様子を、私は今までに味わったことのない興奮を感じながら、見つめていた。


 色が躍る。

 線が躍る。

 飛び散る絵の具の飛沫も、中途半端にかすれた筆跡も、すべてが溶け合い、すべてが私になる。

 ああ、なんだか、気持ちが良い。

 何か、夢のなかにいるような心地良さだ。



 気が付けば本当に私は椅子の上で眠ってしまっていて、目覚めれば既に明け方だった。ショーンは先ほど私が座っていたソファーの上で寝ていた。体中に付いた絵の具もそのままに。

 私はイーゼルに置かれたままの「私」をそっと見た。


 そこに描かれた「私」は赤でも青でもなく、ましてや、白でも黒でもなかった。ただ、あらゆる色彩が混在した世界が、そこには存在していた。


 これが私なんだ。

 汚れてもなく清らかでもなく、ただただ雑然とした色の交わり。


「起きたか?」


 その声に振り返れば、ショーンが私を見つめていた。ソファーに寝っ転がったまま。


「もうトラムの始発が出る時刻だ。約束通り、家に帰れ」


 そう言うと、ショーンはソファーから立ち上がった。そして、イーゼルから「私」の絵を手に取ると、くるくると丸め、傍にあった紐で留めると、ぽーん、と私の方に投げて寄こした。


「いいの?」

「家出の記念だ。持ってけ」


 私は絵を受け取ると、彼のアトリエを後にした。

 アパートメントを出れば、みすぼらしい街にも朝が来ていた。バレンシア特有の垂れ込めたオレンジ色の雲とぬるい風が私を包み込む。私は足早にセントラル・パーク駅に駆け込むと、宇宙港への切符を買い、改札をくぐった。


 ホームにたどり着いたとき、ちょうどトラムが駅に到着していた。私はトラムに飛び乗る。


 宝物のように「私」を抱えて、抱きしめて。

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