14 妻の消息 

 アンナ・モノトヴァ。

 その名と姿は、忘れようがない、俺の青春時代の一部。


 とはいえ、彼女がスノウと共に船室に現れたとき、一瞬夢を見ているのかと思うほど、俺はびっくりした。華やかな金髪と菫色の瞳、それにはきはきとした物言いは士官学校時代から変わっていない。それだけに、俺は若い頃の夢を見ているのではないだろうかと勘ぐったわけだ。

 だが、あれから二十年近く刻は経っている。彼女の顔にも年齢と、そしておそらく軍での労苦が皺となって刻まれているのを見やって、俺はようやく夢ではないことを確信した。これは、現実だ。


 そんな呆然とする俺にかまわず、アンナは、ずかずかと船室内に入ると、ソファーに腰を勝手に下ろし、俺に改めて正面から向き合った。


「さあ、吐いてもらいましょうか」

「ちょっと待て、待て。アンナ、なんの軍事裁判だ、これは」

「何言っているのよ、イヴァン、こんなところで何、若いと、よろしくやっているわけ? んん?」


 そう言いながらアンナは俺の左足を軍用ブーツで踏みつけやがった。まったく変わっていない。その勝ち気なところ、偉そうな口調。

 そして俺が何度も口づけた、茶色いほくろのある色っぽい首筋。


「何、人をじろじろ見てんのよ」

「あたた、とりあえずその足を離せ! 俺にも色々事情があるんだ!」

「そうらしいわね」


 そう言ってようやくアンナは俺の足を踏みつけるのを止める。俺は溜息をつくと、軍を退役してからのこれまでのいきさつを、腹を括って彼女に話すことを決め、アンナを船室から引っ張り出した。


 ドアが閉まる瞬間、部屋に取り残されたスノウの心細そうな瞳がちらり、と視界を掠めた。



「そういうわけなのね」


 俺たちは、船のリラックスゾーンの一角にあるバーにいた。

 宇宙空間が見える大きな窓に洒落た間接照明。女を口説く為にあるような場所だが、全くもって俺の話には色気はなく、アンナはマティーニを何杯か飲み干しながらも、真剣な顔で話に耳を傾けていた。


「そういうわけなんだよ」


 粗方の話を終えると、俺も何杯目かのキングスバレイを飲み干した。アンナは腕を組んで、仄暗い天井を見上げ、しばらく何か考え込んでいたが、やがて、ぽん、と俺の肩を叩いた。


「まあ、あんたがなぜ、若い娘を連れてこんなところにいるのかの訳は分かったわ。船内で昨日見かけたとき、誘拐で通報しなきゃいけないかと思ったわよ。でも、疑惑は晴れた、うん、それはよかった、よかった」

「そうだよ。俺がそんな奴じゃないってことは、お前が一番よく知っているだろうが。見損なうな」

「うんうん、確かに話も聞かずに足を踏みつけたのは悪かった。謝るわ。それにしても、哀れね、スノウ、だっけ? あんたが連れている娘。彼女のような子こそ、真の戦争の犠牲者って言うんだわ」

「そうだな。なんとか幸せにしてやりたい」


 それは俺の本心だったが、アンナはグラスを手にしたまま俺を、ぎらり、と睨む。


「どうやって幸せにするつもりよ」

「どうやってって」


 俺は痛いところを突かれ、眉をひそめた。それを見てアンナは溜息をつきながらこう呟いた。


「あんた、本当に家族のことを覚えてないのね。ターニャのことすらも」

「ターニャ?」

「あんたの奥さんよ」

「ターニャ。あいつのことは覚えているさ。だが、彼女は死んだだろ、本星への最後の攻撃で」


 俺は妻の記憶をゆっくりと胸の中から探り出した。おぼろげだが、そのことだけは思い出せる。

 ところがアンナは思いもしないことを言いだした。


「何言っているのよ」

「え?」

「ターニャは生きているわよ。今、バレンシアの病院に入院しているけれど、命に別状はないわ」


 俺は絶句した。妻が、生きているだと?

 しかも、バレンシアといったらこの船の次の、寄港地じゃないか。

 そして、唖然としている俺に、アンナは決定的な一撃を食らわせた。


「死んだのはあなたの、妻、じゃない。子どもよ」

「俺の、子ども?」


 視界が、ぐらり、と揺れた。

 酔いのせいでは、ない。こめかみが疼き出す。狂ったヴァイオリンの音色が耳の奥に響き出す。汗が背中を流れ、悪寒と頭痛がする。俺は記憶のなかから必死で我が子の情報を探したが、脳内は混乱するばかりで、手がかりがもう一歩のところで掴めない。


「イヴァン、大丈夫?」

「大丈夫だ、いつもの発作だ」

「顔色が真っ青よ。大丈夫じゃないわ、私の船室はすぐ近くだから、とりあえずそこで休みなさい。これは軍医としての命令よ」


 アンナはそう言うと、俺の肩に腕を回した。密着した彼女の身体の、懐かしい匂いが、さらに俺の記憶を混沌とさせた。



「すまない」


 俺はアンナの船室のベッドにひっくり返って呟いた。どうも、俺はここ最近、女の前で、情けない有様ばかり見せつけているような気がする。アンナは俺の腕を手にしながら俺を見下ろしている。


「脈に異常はないわね。気分は良くなった? 大丈夫なら、自分の部屋に帰りなさいな。きっと、スノウが心配しているわよ」

「いや……」


 俺の脳裏をスノウの頼りなげな黒い瞳が過ぎったが、俺は、今夜はスノウの顔をまともに見られないような気がして、船室に帰るのを渋った。そして、俺の腕を掴んでいるアンナの手を強く引いて、彼女を身体ごと俺の上に倒す。

 アンナの菫色の瞳と、首筋のほくろが目の前に迫り、俺は衝動的に、彼女の首筋に唇を寄せた。


「くっ!」

「アンナ」


 俺のなかの欲望に急激に火が付きつつあった。俺は不自由な手を必死にアンナの胸元に伸ばして、力のままに荒々しく軍服のボタンを外し、下着の隙間から露わになったアンナの乳首を口に含み、きつく噛んだ。


「っ! ……イヴァン、酔って、るの? だっ……たら……」

「酔ってないさ。……ただ、大丈夫じゃないんだ……今の俺は」


 そうだ、今夜の俺はどうかしている。逃れたい、記憶の謎から逃れたい、そんな激情が身体の中で渦を巻いて、俺の劣情を刺激する。

 アンナが呟いた。


「……しかたないわね、イヴァン……あんたって人は」

 

 アンナの乳房からその下の方へと、ゆっくり唇を滑らせる。アンナの口から吐息が漏れる。そうだ、ここが感じやすい部分だったよな、アンナ。


 なんでこんなことばっかり覚えてるんだ? 肝心なことは忘れやがって、畜生。


 俺は力を込めて、アンナのその湿った箇所に指を差し込むと、無遠慮になぞった。


 俺の愛撫に、アンナは悩ましげな声を上げながら、その肢体をベッドに崩れ落とした。


 

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