サーカス 四


 大杉高史は出番ですよと、スタッフに告げられた時とても困った。彼は自分の素顔がばれないように入念なお化粧をしていたけれども、まさかステージに立つ事など考えてもいなかったからだ。

 しかし事態は高史にとってとてもまずい事になっていた。仕方なく仮病でも使おうかと思っていたが、なんとそこに華麗に着飾ったユリが来て驚くべきことを告げるのだった。


「ねえ、幸次さん。用意はできて? あなたはこのステージが初めてだけれど、必要以上に緊張しなくたっていいのよ。あなたは何もせずに立っていればいい。ピエロのあなたをナイフ投げの標的にするのは父の思いつきだけど、とてもいいアイデアだとわたしは思うのよ。これであなたの名も上がるだろうし、わたしたちの事、父も祝福してくれるでしょう」

 

 清水幸次と言うのは二年前にこのサーカスに入った、パントマイムの得意な好青年で、以前は大道芸としてその洗練された演技を披露していたが、あるとき鹿島がそれを見とめ、サーカスの一員に迎え入れた。そしてユリと幸次は忽ちのうちに恋に落ち、好き合うようになっていた。

 

 ああ、それなのに哀れな幸次は今や心臓の鼓動さえなく、血まみれになって衣装戸棚の中の押し込まれているのだった。

 

 大杉高史はユリの呼びかけにちょっと頷いてすぐ横を向いてしまった。面と向かう勇気はさすがにない。しばし途方に暮れた高史だったが、その図太い神経はステージに立つことを選択させた。いきなり仮病を使うのも妙だし、だいいち団長が承知しないだろう。

 それにナイフ投げのことだってニュースなどで薄々知っていたから、何もそれほど難しい事はない。ちょっと失敗しそうになったって俺はピエロなんだ。みんな演技のうちだと思うに決まっている。そんな風に考えて大杉高史は度胸を決めてしまった。

 

 そしてちょうどそこにヒナが現れた。ヒナは早足でユリの傍によってきてこう言った。


「ねえユリ、いい飲み物があるのよ。これを飲んでステージに上がるといいわ。神経を集中させるジュース。とても気分がしゃきっとするの。頑張ってね。あたしも飲んだけど気分爽快!」

 

 ユリはもうステージの方に向かいかけていたけれども、とても素直に


「まあ、姉さん。ありがとう」と言ってそのグラスに注がれてある、薄いオレンジ色の冷たいジュースを一気に飲み干した。


 


 最初にユリはサーカスのカラフルなステージに立つと約一分ほどの新体操のようなアクロバティックな演技をこなして客をおおいにわかせた。

 大勢の観客、沢山の子供たちが彼女にまるで天使か女神でも見るような熱い視線を送っていた。

 

 そして深紅のレオタードと腰に着いた孔雀の羽がとても美しく調和していた。やがてそれが済むとあたりの照明がいきなり消えて、つぎにステージの上を四方から眩しくスポットライトが照らした出した時には、舞台上に黄色の四角い化粧ボードがワイヤーで立てられていて、光線の真ん中にピエロが立っていた。

 

 両手両足を広げてボードを背にした高史はとても緊張して身じろぎもしないのだった。そして可愛い男の子が舞台のそでから出てきて、高史と三メーターあまりの真正面に立ったユリに八本のナイフを渡した。そのたびに鼓笛隊がドラマチックな音楽を奏でだ。

 

 この時の高史の心臓はもう張り裂けそうだった。それはとても怖いのだった。まかり間違えばナイフは高史の肉体に容赦なく喰いこむに違いないのだ。しかし今となっては高史には歯を食いしばり、目を閉じる事しかできなかった。

 

 ここさえ無事にやり過ごせば、なんとか逃げられるという頭が彼にはあった。が、その時、あろうことかユリの足元が不意に揺らいだ。

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