サーカス

松長良樹

序章


 回転して飛んできたナイフが顔の五センチ横に二回も刺さった時、高史は縮みあがった。その衝撃が板を通して伝わったから恐怖は自乗倍になった。


 高史はまさか自分がサーカスのステージでナイフ投げの標的になるなんて夢にも思っていなかった。冷や汗が流れて、逃げ出したい心境だったが、ここで逃げだしたらかえって怪しまれるし、もし警察が来ていたらお仕舞いだ。

 

 高史は泣きそうだったが、ピエロ顔の頬に涙の絵が描いてあったから、もう泣いているともいえた。全身に何度も小刻みに震えがくる。


 観客からの拍手が一旦治まると、艶やかなレオタード衣装のユリが観客席に一礼した。


 そして今度は黒布で目隠しをする。ユリはナイフ投げの名手であり、サーカスの花形だから、観客から大歓声が上がった。


 サーカスドラムが緊張を高めるように打ち鳴らされる。

 

 ――高史の頭の中が真っ白になった。




 高史と言う男はかなりの悪人だったが、なぜ彼がナイフ投げの標的となって生命の危険に晒されたのか、その事について述べていこうと思う。

 

 大杉高史は歳の頃なら三十過ぎで、新しい街に流れて来た時には大抵の者が彼の本性を見抜けなかった。見た目が明るくひょうきんで良くしゃべるし、気の利いた事もできる。顔立ちだって決して悪くはなかったから彼の評判はむしろ良いほうだったろう。だが高史には前科二犯の暗い過去があった。

 

 昔から続いた仕事など一つとしてなく、近頃は不動産ブローカーをやったり、詐欺まがいの商法で法外に儲けたりした。その金と口八丁でうまく女を騙し、紙屑のように捨ててしまうのも一度や二度ではなかった。

 

 あるとき高史はとんだドジをふんだ。最近になって悪仲間と始めた、あこぎな闇金で荒稼ぎをしたのはいいが、仲間の一人、周二と言う男と金の取り分を巡って揉め、逆上した高史はその男を刺してしまったのだ。

 すぐに兇行は発覚し、警察に追われる身となった。逃げて逃げて、辿り着いた先にサーカスがあった。

 

 夕暮れの中にその白いサーカスの円形天幕の輪郭がぼーっと浮かび上がっていた。

 

 その時の高史は手負いの獣のように苛立ち、凶暴になっていた。そして町中に私服警官が張りこんでいるかような強迫観念にかられていた。事実、背後には警官と刑事たちが迫っているのだった。だから高史は彼の得意な逆転の発想をもってサーカスの中に身を隠そうと思った。

 人のいない閑散とした場所に逃げるよりも、人ごみの中に紛れ込んだ方が安全と考えたのだ。

 近年、鹿島サーカスは盛況で大勢の観客が詰めかけ、活気にあふれていた。猛獣の火の輪くぐりや、空中ブランコはもとより、数々の魅力的な演目が用意されていたからだ。高史はとにかく野球帽を深くかぶり、顔を隠すようにして客を装ってサーカスの観客席に入った。

 

 そして綱渡りやトランポリンなどの華やかな出し物に魅了されたふりまでして、大声で応援したり手を叩いたりして客になり切ろうとした。が、高史は背後に嫌な視線を感じた。私服刑事が彼を睨んでいるような気がしたのだ。

 

 これは高史の錯覚のような物であったのかも知れないが、どうしても高史は気が落ち着かず、今度はステージの裏側、つまり楽屋の方にやってきて衣装箱か何かに隠れてしまおうとした。だが、なかなかいい隠れ場所が見つからない。

 

 うろうろしているうちにドアが少し開きかけている部屋があり、高史は追われるものの緊迫感から、その中にまで入ってしまった。そこは畳の上に薄での絨毯が敷いてあり、ベニヤの安っぽい衣装戸棚や三方開きの鏡台やらが乱雑に配置されている、なにかムーッと白粉の臭いのする狭い部屋であった。

 そこに置かれた鏡台に向かって一人のピエロが座ってメイクアップをしているところだった。そのピエロは侵入者に気づくと、ちょっと迷惑そうに言った。


「あれっ、お客さん。ここは私の楽屋でして客は入れません。困ります。どうか客席の方にお戻り願います。お願いします」

 

 そう言ってそのピエロはぺこりと頭を下げた。


「へへへっ、こりゃあどうも、トイレを探しているうちに楽屋に入ってしまったようで」


 そこで高史は苦笑いをしながら頭をかいた。そして続けた。


「こりゃ、どうもすいませんねえ。失礼しました。ところで厚かましいのですが少しだけ、ほんの少しだけ私をここにおいてくださいませんか」

 

 ピエロが分厚い化粧の中の目で一瞬じろりと高史を睨んだ。だが高史はそこに立ったまま、後ろ手にドアを静かに閉めた。ピエロが不満そうな顔をしたが、この瞬間にはもう高史の胸中に破れかぶれの恐ろしい衝動が突き上げていた。

 彼は懐から財布でも取り出す素振りをして、周二を刺した小ぶりのナイフを抜き出すと、間髪入れずにピエロの横腹に突き立てた。そして口を傍にあった布でおさえ、声と返り血とに細心の注意を払いながら、ピエロの上から覆いかぶさるような格好で彼がなんの抵抗もできなくなるまでナイフを執拗に振り下ろした。

 

 高史の脳髄に狂気が迸っていた。だがその狂気は悪辣だが冷酷な考察力をも持ち合わせていた。高史は動けないピエロを奥にあった毛布で何重にもくるむと、衣装戸棚を開け中の衣装を数枚引っ張り出し、その衣装戸棚の中に凄い力で押し込んで、さらに自分の上着を重ねて入れて扉をばたりと閉めた。

 

 そして高史はピエロと自分との体型が似ているのをいいことに、ピエロの衣装を着込み、自分がそのピエロになりすます事に決めたのだ。

 目に焼き付いたピエロの顔を思い浮かべ、鏡を見ながら白いドーランを顔一面に塗りたくり、サクランボのような赤い鼻をつけ、黒いアイシャドウをほどこす。そして高史は腹を決めたように、落ち着いて煙草をふかすのだった。


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