十、緋魚姫

 ひらひらと赤いものが棚引いていた。

 帯であろうか。

 帯であろう。

 いつの間に解けたものか、自身の腰の辺りから、赤い帯が棚引いている。

 水面みなもへ向け、ゆうるりと波打ちながら伸びている。


 水面。


 揺らぐ帯の流れを追った目線の先に、うらうらと銀色に輝く湖面がある。

 月光であろうか。

 月光であろう。


 湖面を仰ぐのはつらくはなかった。

 首をもたげる必要もない。

 ただ目線を先へと投げれば見ゆる。

 自身は腹を上にして、頭から先に水底みずぞこへと沈んでいっているのだった。

 さながら死んだ魚のよう。


 赤く棚引く帯が、美しい鰭に思われた。

 緋色をした金魚のようだ。


 もしや自身は金魚であっただろうか。

 そうかもしれない。

 そうなのだろう。

 でなくて如何して、こうも穏やかに居られよう。


 銀に輝く湖面は遠く、辺りは澄んだ藍色に満ちている。

 水の中だ。

 水の中に居るにもかかわらず、少しも息苦しさを覚えない。

 ならばきっと、自身は魚で違いない。

 赤い鰭を持つ魚なら、それは金魚に違いなかろう。


 たゆたう帯は長かった。

 着物に描かれる流水紋に似て、ところどころ透き通りながら棚引いている。

 美しい。

 なんと優美で、典雅であろうか。


 徐々に水面が遠ざかるにつれ、湖中は闇を深くして、藍色の度合いも濃くなってゆく。

 溶けるように黒く細い絹糸も棚引いて、時折、自身の頬をくすぐる。

 髪だ。

 長い髪が湖面の向こうの地上を名残惜しむように尾を引いている。

 これはあまり金魚に相応しくない。

 だが、澄んだ濃紺に溶ける黒髪と赤い鰭とは美しく絡み合う。

 ならば、それはそれでいいのだろう。


 ほうとひとつ、息を吐くと、小さな泡が銀の光を纏いながら、

 湖面を目指して遠のいていった。

 ほんの僅か、追いかけて伸びた指。

 白く、細い、五本の指。


 これもやはり、魚らしくない。

 鱗も水かきも生えていないのだから。

 そっと袂に隠した。


 いよいよ月明かりは遠退いて、藍も紺も黒に染まる。

 髪も、肌の白さも、着物の色ももう見えぬ。

 ただ、遠く湖面が光って見える。

 そこへ棚引く一条の、ゆうらゆうらと頼りない、美しい金魚の緋鰭ひれが見える。

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