第35話 君は残り香すらもなく

 部屋に差し込んできた朝日でチーニは目を覚ました。いつもより窮屈だったからか、体が筋張っていて痛い。伸びと欠伸をしながら、体を起こして──チーニの思考が止まる。


 ディアの奥に居るはずの、栗色の髪が居なかった。眠そうな顔で笑ってくれるはずの、彼女が居ない。


「ルーナ?」


 呼びかけに答える声もない。チーニは布団を跳ね上げて、ディアの体をゆする。


「ディア、ディア、起きて!」


 眉を寄せてうっすらと目を開けたディアが、チーニの焦った顔を見て上半身を起こす。


「どうした?」

「ルーナが、ルーナが居ないんだ」

「え?」


 ディアはゆっくりと視線を動かして部屋の中を見回し、チーニと目を合わせて小さく息を吐いた。チーニの頬を両手で挟んで、幼子に言い聞かせるように強く、優しく言葉を紡ぐ。


「チーニ。落ち着け。部屋に戻ったのかもしれないだろ? 居なくなったとは限らない。な?」

「あ、あぁ、うん。そうだね」


 チーニは頷いて、深く息を吐き出す。目を閉じて、頭の中を空っぽにして、肺の中に新鮮な空気を詰め込んで、目を開く。ディアの赤くてまっすぐな瞳と視線が絡んだ。


「ごめん、もう大丈夫」

「うん。とりあえず、部屋に行ってみるか」

「そうだね」


 上着を羽織って、二人はチーニの部屋を後にした。一つ上の階にあるルーナの部屋をノックする。中から返事はなく、チーニはディアと目を見合わせた。頷きあって、合鍵でロックを外す。鍵を貰ってから一度も踏み込んだことのなかった彼女の内側に、足を踏み入れる。


 ルーナの部屋は物が少なく、生活感のない場所だった。僅かなものが整然と置かれている。その中に部屋の主の姿はない。チーニは深く息を吐き出した。


「居ないな」

「うん」

「出かけたのかもしれないな」

「うん」


 ディアの言葉に頷きながら、入り口の方に体を向けたチーニの視界の端がきらりと光る。引き寄せられるように、チーニは光った物に近づく。入り口近くの床に落ちていたのは、ルーナがいつも使っている財布だった。


「どうした?」


 しゃがみ込んでいるチーニの頭の上から、ディアが顔を出す。チーニの手元にある財布を見て、ディアは眉を寄せた。


「財布忘れてったのか」

「うん。そうみたいだね」


 チーニは財布を拾い上げて、今度こそ部屋を出る。


「外出届が出てるか、確認しに行こう。財布が無きゃ、困るだろうから」

「そうだな」


 寮監室を目指して階段を降りながら、チーニの頭では嫌な想像がぐるぐると回っていた。


(君は、大人になるまで、待ってくれるんじゃなかったの)




 寮監室にチーニが顔を出すと、寮母は露骨に顔をしかめる。ディアは戸惑ったような顔でチーニに視線を向け、チーニは愛想よく微笑みを浮かべた。


「あの、ルーナが居なくて。外出届が出てるかってわかりますか?」


 寮母はディアの言葉に無言で頷いて、外出届の綴りを確認する。何枚かめくって、戻って、まためくって、と同じ動作を繰り返してから、寮母は顔を上げた。


「出てないわね。本当に学院のどこにも居ないの?」

「あ、いえ。まだ全部を探したわけじゃないので、もう少しよく探してみます」

「そう。先生にも協力してもらったらどう?」

「そうですね、そうしてみます」


 ディアはチーニの背中を押しながら寮監室から出る。


「チーニ、寮母さんに何かしたのか?」

「……外出届の綴りを見せてくださいってお願いした」


 ディアは驚いたように目を見開き、小さくため息を吐いてからチーニの頭を撫でた。


「ごめんな」


 チーニは突然の謝罪に首を傾げる。


「俺のせいで無茶な事させて、ごめん」


 ぱちくり、と瞬きを繰り返したチーニはディアの言葉を理解してその腹に緩く拳を放った。


「イッ」


 短く声を上げてディアが腹を抑える。体を半分に折って視線を上げたディアを見下ろして、チーニは低い声を吐き出した。


「次、同じような理由で謝ったら、二発殴るから」


 ディアはその言葉で小さく吹きだして、肩を震わせる。


「うん。ごめん」


 落とされた謝罪の言葉がまるくて、チーニは顔を逸らした。くるりとディアに背中を向けて、靴箱の方に足を向ける。小走りでチーニに追いついてきたディアはまだ小さく笑っていた。


 ルーナの靴箱には、いつも使っている赤い靴が綺麗に収められている。チーニとディアの靴に両隣を挟まれて、普段通りにそこにあった。ディアが小さく呟く。


「靴、あるな」

「うん」

「すれ違ってるだけで、学院のどこかに居るかもな」

「そうだね」


 チーニは深く息を吐き出して、頭の中に浮かんでいた嫌な想像を追い出した。




 ディアとチーニは、二人で学院をぐるぐると歩き回っていた。図書室、化学実験室、工作室、空き教室──どこを探しても、ルーナの姿はない。朝の点呼の時間になってしまって、教室棟にいたチーニたちは寮に戻った。階ごとにまとまって先生の点呼を受ける。


「お、チーニもう体調は大丈夫なのか?」


 チーニたちの階を担当している剣術の教師に問いかけられて、反射的にチーニは微笑みを浮かべた。


「はい。お陰様で」

「そうか、よかったよかった」


 先生は人数と全員の体調を確認しながら、大きく頷く。点呼を終え、先生や級友と分かれたチーニは微笑みを収めてディアの方に視線を向けた。


「ありがとうね」

「ん?」

「僕が勝手に外出したこと黙っててくれて」

「あぁ、うん」


 頷いたディアの隣に並び、点呼を受けているだろうルーナを探して、チーニは階段を上る。


「あ、そうだ」

「なに?」

「もう、勝手にどこか行くなよ。言いたくないことは言わなくていいけど、どこか行くってことは先に言ってくれないと……結構、心配する」


 チーニは目を見開いて、伝えられた言葉が心臓の奥深くに浸み込む温かさを堪能する。ゆるく目を細めて、口角を上げた。


「次は気を付ける」

「うん」


 階段の最後の一段を上り切って、廊下の角を曲がる。先生の奥に居る集団に目を滑らせて、チーニは栗色の髪を探した。ルーナは人より少し背が低いから、人ごみの奥も見えるように、踵を上げて。見落とさないように、端から丁寧に一人ずつ、確認していく。


(黒、こげ茶、金、黒、金、薄茶……)


 反対側の端までたどり着いて、もう一度指さしで確かめているチーニの鼓膜を、先生の言葉が揺らす。


「あれ、グルナ? グルナ・ラクリア?」


 何度も呼ばれるルーナの名前に、チーニの頭でまた嫌な想像が再生される。


「いないのか?」


「点呼にも来てないみたいだな」


 ディアがチーニの耳元に顔を寄せた。ふわり、と石鹸の香りが鼻を掠めて──チーニの目が見開かれる。


(甘い、匂い)


 昨日、目が覚めた時にルーナから香った甘い匂い。ルーナの好む柑橘系の香りとは違って、鼻の奥に残るような、粘り気のある匂い。


「チーニ?」


 急に黙ったチーニにディアが首をひねる。


(なんの匂いだっけ、どこかで、誰かに教えて貰った匂い。誰だっけ、どこだっけ)


 チーニは目を閉じて、記憶の中に沈む。


『ディアと同じ色だよ』『大丈夫、私が保証する』『これとこれを混ぜるの、分かる?』


 記憶が浮かぶ水の中を泳ぎながら、目当ての情報を探る。もっと、昔。もっと深く。懐かしく温かい記憶をすり抜けて、チーニは更に奥へと潜る。


『これはダメな匂いよ。アシュリルの樹液と、ジエラの蜜を混ぜるとこういう匂いになるの』


 記憶の中でサザンカが続ける。


『一時的にすごく幸せな気持ちになれる薬よ。でも、効果が切れれば夢は終わる。幸せを煮詰めすぎた毒なの。だから、この匂いがする奴とは関わっちゃだめよ』


 サザンカはそう言ってチーニの頭を撫でた。


(そうだ。初めて僕を地下街に連れて行った時に、サザンカが話してくれたんだ)


 チーニは目を開いて、意識の照準を現実に合わせる。


「ディア、やっぱりルーナはどこかに行ってしまったかもしれない」

「え?」

「昨日、ルーナの服から麻薬の匂いがしたんだ」

「麻薬? あの甘い匂いか?」


 チーニは階段を駆け下りながら、ディアの問いかけに頷く。


「でも、あれは新しく買った香水の匂いだって」


(言い訳が出てくるってことは、偶然じゃないんだね、ルーナ)


 心の中で呟いた言葉に、返事はない。


「チーニ。ルーナが行きそうな場所に心当たりはあるか?」


 玄関ではなく教室棟の職員室に向かうチーニの背中にディアの声がかかる。


「分からない。でも、探す当てならある」


 廊下を走りながら、チーニは奥歯を強く噛んだ。傷ついたときに彼女がどこに行きたくなるのか、チーニは知らない。自分の幸福な未来と、友達の命を天秤にかけた時、彼女がどんな行動を取るのか、チーニは知らない。


 優しさの皮をかぶった恐怖の言いなりになって、ルーナの内側に踏み込まなかったことを、今更になってチーニは深く悔いていた。

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