マンホールの向こう

 マンホールの蓋が開いていた。買い物に行く途中だったが、つい足を止めてしまう。ここの蓋が開いているのは久しぶりに見た。最近は蓋が開いていることなどめっきりなかったし、ここの蓋は特に開くことは少ない。前に一度開いた時はどうだっただろうか。確かマンホールの蓋が緩んでいて、斜めの日の、一番斜めになった拍子に外れてしまったのだった。その後、危ないからと蓋にはきつく鍵がかけられていたはずだ。この世界で一番開くことのない蓋。それがどうして開いているのかは分からない。穴を見ながら考えていると、口に出ていたらしい。突然話しかけられた。

「確かに不思議ですよね」

 驚いて辺りを見渡すが人影は見当たらない。まさかと思いマンホールの穴の中を見た。当たりだった。穴の向こうにこちらを見ている人がいた。向こうの人を見るのは初めてだ。向こうにも人がいるのは知っていたが、交流会には参加したことが無かったので見たことは無かったのだ。

「あっ、そうですよね凄いですよね」

 緊張しすぎて訳の分からない返事をしてしまった。変な汗が出る。取り敢えず誤魔化すように笑みを浮かべた。

「いやぁ、こんな偶然もあるもんですねぇ」

 向こうの人は優しかった。

「まさかマンホールの蓋が開いてるなんて、ロバの空中浮遊ですねぇ」

 向こう語を習っておけば良かったとこれほど後悔したことは無い。意味はよく分からないが適当に話を合わせることにする。

「そうですね、私なんて歩いてる途中でしたからびっくりしましたよ」

「でもこんな危ないことそうないですよねぇ、なまはげ危機一髪とはこのことをいうんでしょうねぇ」

 聞いたことのある単語が聞いたことのない組み合わせで登場した。これ以上向こう語が出てくると頭が混乱しそうだが、向こうの人と話せる機会は少ない。ことわざが出てこなさそうな話題を振ることにする。

「そうだ、あなたの名前は?」

「そういえば名乗っていませんでしたね。私は、:;@といいます。あなたは?」

 まさか名前が全く発音できない名前だとは思わなかった。名前を聞いた以上呼ばなければならないが、発音できる気がしない。何とか呼ばずに切り抜けよう。

「私はミサキといいます。良かったら連絡先交換しませんか。こんな機会滅多に無いでしょう」

「いいですねぇ。確かにこんなキリンが前転するようなこと滅多に無いですから」

 また訳の分からない慣用句のような物が出てきてしまった。取り敢えず電話番号とメールアドレス、それからテレパス通信のIDを交換する。まだ少ししか話していないが、立って話すのも疲れてきた。近くの壁にもたれかかり、向こう人に話しかける。

「そちらは何をされていたところですか」

「あ、私はことわざ教習所に行くところだったんです。まだ仮免で」

「でしょうね!」

「は?」

「あ、いや何でもないです」

 思わず突っ込んでしまった。道理でやたらとことわざが出てくる訳だ。キョトンとした相手に慌てて誤魔化しを入れる。向こう人と話すのがこんなにも大変だったとは思わなかった。もう帰りたい。適当な理由を付けてこの場を立ち去ろう。

「あ、あー、すみません。私、実はこれから会社に行かなければならないんですよ」

「そうなんですか。引き留めてしまってすみませんねぇ。よろしければ会社の方に私から一本電話入れときますよ。会社名は?」

 優しすぎるのが完全に裏目に出ている。だが嘘だとバレても困る。適当な会社名でも言っておこう。会社名……会社名……そうだ、前に見た舞台に出て来た会社名でも使おう。向こうでは恐らく上演されてないはずだ。

「株式会社企業商事です。連絡は大丈夫ですよ、フレキシブル制なので」

「フレキシブル制なら問題ないんじゃないですか?」

「あ」

 しまった。適当についたせいでまだ大丈夫なことになってしまった。何か違う理由を作らなければならない。

「いやぁ実は社長の妹の息子の嫁の親友のはとこが結婚式でして」

「それ最早他人じゃないですか。最早っていうか最初から他人じゃないですか!」

「は!」

 なんだか楽しくなってきてしまっている。違う。私は早くこの場を立ち去りたいのだ。

「すみません、ちょっとこの辺叩いてもらっていいですか」

「まあいいですけど……」

 差し出した手を軽く叩いてもらう。

「痛い! 何をするんですか、もう帰ります!」

「いや何を急に怒り出して帰ろうとしてるんですか!」

「そういえば洗濯物が干しっぱなしだったなー! 帰らないとなー!」

「そっち雨降らないでしょ」

「そうだよ! こっちは雨が降らないよ! 地下だもん! はい、暗転!」

 私がそう叫ぶと、向こう人はマンホールの蓋を勢いよく閉めた。よし、馬鹿で助かった。何とか上手く会話を終わらせることが出来た。早く買い物に行こう。そう思って歩き出した途端、もう一度蓋が開かれた。

「いや閉めたら話せなくなっちゃうじゃないですか!」

「もう終わったんだから閉めろ! 帰れ!」

 不服そうな向こう人の顔を最後に、ようやくマンホールの蓋がきちんと閉じられる。なんだかどっと疲れた。買い物リストに栄養ドリンクを付け足しておこう。何がいいだろうか。

『あ、栄養ドリンクなら海月製薬のスッポマムシがよく効きますよ』

『勝手にテレパス通信するな!』

 今度こそ、暗転。

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