第4話 

 弘紀の口から漏れた言葉から、血に溢れた乱闘の光景が弘紀の母である環姫が凶刃に殺害された場面の記憶を蘇らせて、より混乱に拍車をかけていることが分かった。弘紀本人も混乱を抑えようとしているのだが、それがかえって呼吸を不規則なものにし、事態を悪化させている。

 修之輔が名を呼んでも、その肩を抱えても、弘紀の恐慌は収まらなかった。本来ならばここでその混乱が収まるまで休ませてやりたいが、状況がそれを許さない。弘紀は速やかに行列の中心に戻り、何事もなかったていで日のあるうちに城下に戻らなければならなかった。弘紀も自分に課せられている藩主としての役割を十分に分かっているからこそ、自分の混乱を強く抑えようとすればするほど制御できなくなる悪循環に陥っていた。

 

 修之輔は手拭を桶の縁にかけた。そして体を震わせて座る弘紀の足の前に膝をつき、弘紀の両膝を持って多少強引な力で左右に開かせた。

「修、之輔様」

 弘紀が狼狽し、震える声で修之輔の名を呼んだ。それを無視して弘紀の単衣の裾を開いて下帯に手を掛けると、予想しない行動に弘紀はさすがに修之輔の手を止めようとした。その抵抗を力で封じ、下帯から引き出した弘紀のものをためらわずに口に咥えた。弘紀が身を捩って逃れようとするので、震えが収まっていないその腿を掴まえ、動かないように固定した。混乱に混乱が重なって、泣き出しそうな弘紀の瞳が修之輔と目を見合わせて、その動揺を止めた。

 修之輔の目に欲情の色は無く、ひどく冷静な目で弘紀を見返す。ゆっくりと、深く咥えて、そして先端までゆっくりと舐め上げる。二、三回、目を合わせながら繰り返すと、弘紀は修之輔の意図を汲んで抵抗を止めた。そして目を閉じ、震えが治まらないままの両手を体の後ろについて、修之輔の行為を自ら受け入れる体勢になった。

 湿って濡れた音が民家の中に響く。修之輔は口だけでなく手も使って弘紀に刺激を与え始めた。


 これは混乱した弘紀の感情を収めるための手段だった。混乱をもたらしている感情を一度、他に逸らすための。そして弘紀に冷静さを取り戻させるための。強張って震える弘紀の体が、強引に呼び起こされる体の内の熱に少しずつ弛んでいくのが分かった。 

 だがこの状況、所々に血や泥の跡がある単衣をはだけて息を荒くする弘紀の姿に、修之輔は自分を抑える必要があった。鼻は先ほどから何度も弘紀の足の付け根に触れて、鼻腔が弘紀の匂いで満たされる。

 弘紀に混乱をもたらした流血の乱闘は、修之輔に淫靡な興奮を呼び起こしていた。このままこの古い民家の板の間で強引に、与えられる刺激に思わず漏れる弘紀の悲鳴のような喘ぎを聞きながら、強く深くその身を貫くことができたのなら。

 行為が必要以上に執拗になったかもしれない。弘紀の手が修之輔の髪を掴んだ。軽く歯を立てたまま先端を強めに吸うと、弘紀は体を震わせて修之輔の口の中に放出し、修之輔はそれをそのまま嚥下した。

 その様子を涙の滲む目で見ていた弘紀の呼吸は急速に落ち着いてきて、一度ゆっくりと深呼吸した後、その黒曜の瞳の中、先ほどまでの混乱はいったん影を潜めた。修之輔は口の端を手で拭ってから、膝をついたままで弘紀に尋ねた。

「城まで、もちそうか」

 その短い問いに弘紀が頷いた。

 手拭で足の付け根を拭ってやり、新しい小袖と袴に着替えさせた。弘紀が袴帯を自分で締めて襟を整える仕草にひとまずは安心し、まず最初に修之輔が外の様子をうかがってから戸を開けて、異常がないことを確認して弘紀に外に出るよう促した。躊躇いなく外に足を踏み出す弘紀の歩様に、先ほどまでの危うさはなかった。

 

 弘紀の後ろについて民家を出る前、修之輔は戸口に置かれた水瓶から柄杓で水を一杯汲んで飲んだ。流れた血液の分、体が水を欲していた。そして弘紀がこちらを見ているのに気が付いて、ようやく思い至った。

「すまない、弘紀も飲みたかったか」

 返事の代わりに、弘紀が修之輔の首に抱きついてそのまま唇を重ねてきた。

「飲まなくても、良かったのに」

 生け垣はあっても茂る葉は疎らで屋外、人目がどこにあるかもわからなかったが、修之輔は弘紀が望むそのままに、舌を絡めた。それは欲望というよりも互いの無事を確かめる親しい動物の仕草にも似ていた。

 だが、修之輔の背中に回しかけた手を弘紀がふいに止めた。弘紀の手は着物越しに修之輔の腰の傷に触れて、まだ滲み出続ける血がその手の平に赤くこびり付いた。先ほどの乱闘で修之輔が刀傷を負っていたことを思い出した弘紀が険しい顔になる。

「その傷、深いのではないのですか。城に戻ったらすぐに手当てをさせます。すぐに出立しましょう」

 そういって足を早めようとする弘紀を引き留めた。

「弘紀、この姿では、一緒には戻れない。せめて宵闇に紛れて城下を過ぎないと」

 でもその傷は、と言い募る弘紀の手を取り、柄杓で汲んだ水で血を流させた。今はまだ乱闘の余韻が勝って麻痺しているが、痛みが出てくるのが時間の問題であることは自らの体の感覚が告げていた。平静を保つ修之輔の表情と血に濡れたその姿を、弘紀はまるで自分の痛みのように苦しそうな顔で眺めてから目線を下に落とした。

「医者を手配しておきます。貴方が戻り次第治療できるように。なるべく早く戻ってください。待っていますから」

「分かった。弘紀の心配にならぬよう、できるだけ早く戻る」

 弘紀は迷いも揺るぎもない歩様で、隊列を編成し直している現場にそのまま向かった。藩主の無事な姿に、他の者達の安堵する嘆息が聞こえてくるようだった。


「秋生」

 家臣が集まっている一画に弘紀が近づいていくのを遠目に眺めていると、背後から急に声を掛けられた。

「なんだ、そんなに驚くなよ」

 そこにいたのは寅丸で、おどけたように眉を上げた。

「いつからそこに」

「藩主様も秋生も、二人とも屋内に入ってしまったら誰かが見張りに立たないとまずいだろう。皆、あちらの始末に頭がいっぱいのようで人手が無いようだったから、儂が見張りに立ってたのだ」

「ああ、それは済まなかった。そこまで頭が回っていなかった」

「で、いつからだ」

 なにがと問い返そうとして、藩主様と、寅丸が何食わぬ口調で云う。

「見ていたのか、寅丸」

「言っただろう、見張りは仕事だ」

 先ほどの弘紀とのやり取りを見られていたと気付いて、だが焦りも感慨もなかった。寅丸が軽く顎を上げて先ほどの質問への答えを促してくる。好奇心で聞いているのではないことは分かっている。事実の確認をしたいというだけだと理解できた。

「黒河に弘紀がいた時から。あの時はまだ弘紀が羽代藩主の血筋とは知らなかった」

 修之輔は、敢えて弘紀、と、名前だけで呼んだ。

「そうか」

 それ以上、寅丸はその件には触れない。

「しかし走ったな。一里は全力で駆けたぞ」

 唐突に、場違いに明るい声で寅丸がそんなことを言い出した。話題を変えよう、という合図だった。こちらへの気配りなのか、そこまで知れば後は興味はないということなのか、分からなかったが、少なくともこれ以上詮索をするつもりはない、というそれは寅丸の意思表示だった。修之輔も寅丸に同調する。

「寅丸が来てくれた本当に助かった。あそこで間に合わなかったらやられていた。寅丸に状況を知らせたのは」

 烏か、と問えずに言葉が途中で切れたが、質問の意を察した寅丸は引っ掛かることなくそのまま答えてきた。

「ああ、今、羽代の家老に加納様という方がおられるだろう。その加納様に仕えている者を見知っていてな。そやつが畑の脇を泡を食って走っているから何かと思ったらこの有様だ。儂らに助けを頼んだ後、そやつはそのまま城まで走って行ったわ」

 加納が試行してみると言った伝令の工夫が思いがけない場面で役に立ったらしい。寅丸が、秋生は持久力も鍛える必要がありそうだな、と道場にいるときのような軽い口調で言う。

「確かに」

 そう答えながら、修之輔はようやく自分の体に注意が向いた。切られた脇の傷は浅くはない。袴帯をきつく締め直したが血は滲み続けている。寅丸がそれを見とがめた。

「お前、切られたのか。止血は、手当は」

「城に戻ってからだ」

 それどころじゃないだろう、と虎丸が気遣いを通り越して怪訝な顔で聞いてくる。

「それより寅丸、行列の人数が足りない。一緒に来てくれた者達と、行列に加わってくれ。行きの時と多少は人数を合わせないと。城下の者達に気づかれないように」

 藩主が領地内で襲われたという事件は、領地外は勿論のこと、領内の民には絶対に知られてはならないことだった。

「それから弘紀様の護衛も頼む」

「わかった。大丈夫か、ほんとうに」

「大丈夫だ。だから弘紀様を」

 強く重ねて頼む修之輔の常にない様子に肩をすくめ、寅丸は皆が集まる一角に向かってくれた。寅丸の姿に気づいて、あいさつ代わりに手を上げる者がいる。顔が広い寅丸の事だからあれも見知った者なのだろう。手助けをしようという寅丸の申し出が聞き入れられたらしい様子を確認し、次に修之輔は原を探した。

 番所から駆け付けた味方、怪我人の救護やあたりの警戒に当たっている中、原は襲撃してきた浪人たちの死体を数人の役人に混じって検分していた。協力しているというより単独で何か情報を集めている様子で、修之輔はその原の傍らに近付いた。

 

 原がかなりの手練れであることは前の手合わせ以上、先程の乱闘で明らかだった。地に伏す敵方の死体の半数は修之輔が倒した者だが、もう半数は原が倒していた。修之輔のいる行列後方との連絡を分断されながら、防戦一方の味方と重臣の西川を守りつつ、弘紀と修之輔の方にこれ以上敵が向かわないよう、確実に敵を屠っていった様子は、死体に残る無駄のない刺し傷から見て取れた。

 修之輔が声を掛ける前に、死体に目を向けたままの原が訊いてきた。

「弘紀様の着替えに時間がかかったようだが、何かあったか」

「少し混乱をしていた。落ち着かれるまで宥めていた」

「そうか、仕方ないな。何人か、やはり初めて人を斬ったもの、あるいは浅くても傷を負った者達は精神がかなりまいっているようだ。死んだ者はどうしようもないが、太平の世が続くとこうまで心弱くなるものだな」

 他者への共感が乏しい、乾いた原の言葉に修之輔は思わず眉を顰めた。藩主への批判とも取れる言葉で、その修之輔の気配を感じたらしく原はようやく死体から目を離して修之輔の方を見た。

「おっと、こっちの話だ。弘紀様のことを言ったんじゃない。それから田崎様からの伝言だ。秋生はここにしばらく残れ」

「確かにこの姿ではすぐには城下に戻れないから、暗くなってから戻れということなら、元よりそのつもりだ」

 修之輔の上半身は返り血を浴びて、袴の半分も自分の血で濡れている。このような姿を晒して城下町を歩くわけにはいかない。

「いや、仕事を頼みたいということだ」

「この状況でか」

 その前に、どうやって原は田崎の伝言を知りえたのか。そしてこの状態で田崎が伝令を直接寄越すという不審に思いいたって、足が一歩、下がった。原が唇を軽く歪めた。それは初めてみる原の笑みの表情だった。

「我々は周りに知られずに情報をやり取りする術に長けている。俺は田崎様の配下の、烏だ」

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