第3話 

「秋生、聞いたぞ。お前、黒河藩でも有数の剣士だったそうじゃないか」

 修之輔の隣、ともに速足で大手門の方へ向かいながら木村が話しかけてきた。

 弘紀が田崎と加納を従えて二の丸御殿に戻った後、予定より早く荷を積んだ船が港に着いたとの報告が来て、慌てて片づけを他の者に頼んでから、菊部屋の三人は剣道場を出て船番所に向かった。さきほどから姿の見えない原は、きっと先に港に行っているのだろう。

 弘紀の相手をしていた時に、田崎が加納に修之輔の身の上を説明していて、それに聞き耳を立てていたものが木村の他にも何人かいたらしい。だが弘紀が、修之輔が師範代を務めていた道場の門下生であったことについては、田崎は語らなかったようだ。

 始めて間近で見た修之輔の剣術に興奮している様子の木村に、修之輔は話すことのできる範囲を頭の内で確認してから応えた。

「剣術だけでは黒河で仕官もままならず、たまたま縁があって、田崎様の推挙を得てこちらに仕官することになった」

「それは良かったなあ」

 人の好い木村はそれで頷いていて、全くの嘘ではないのだが心が何処か後ろめたい。

「近頃は仕官が難しいだけでなく、仕官先の藩主様が改易されて成すすべなく職を失う者も珍しくないのですよ。秋生殿は運が良いです」

 後ろから三山が声を弾ませる。良かった良かった、と口々に言う木村と三山に気になっていたことを聞いてみた。

「原殿の剣技も見事なものだったが、どういった身の上か知っているか」

 修之輔がそう聞くと、木村が、そうそう、と同意を寄越した。

「確かに原があそこまでとは儂も知らなかった。実は、菊部屋の中でいちばん勤めが長いのが原なんだ」

 それはどこか意外な気がした。

「木村ではなかったのか」

「ああ、儂がこの部屋に配属された時はもう原が先にいた。というか、原一人だった」

 では原が木村に仕事を教えたのか、というと、そういうわけではなく、もともと城の中の別のところで働いていて人手が足りないからと木村の数日前に配属されていたのだという。

「その時からずっとああだし、仕事を教えてくれたのは山崎殿だし、で、今日にいたるまで、原とは肝胆かんたん相照らす仲にはどうしてもなれていない」

 原殿の肝も木村殿の胆も見たくないですねえ、などと減らず口を聞く三山と木村がいつものようにまた言葉のやり合いを始めた。結局、どちらも原の出自について詳しいことは知らないようだ。


 港からの荷運びが終わった後、修之輔は夕食の前に汗と埃を洗い流したくて、井戸水よりは多少温度がある残り湯で汗を流そうと風呂場に行った。そこには同じようなことを考える者達が数名いて、それぞれから日中の剣術試合について声を掛けられた。

 先日の加納の件もあり、何を言われるのかと正直やや身構えたところもあったが、どれも好意的なもので、藩主の剣の相手をしただけでここまで注目されるものかと、当然と言えば当然のその事実に、改めて気づかされる思いだった。

 夕食が済み、菊部屋に戻って木村たちと話をしていると、微かに、りん、と涼やかな音が聞こえた。襖の向こうの人の気配に三山が襖を開けると、二の丸御殿からの伝令が控えていた。

「秋生、弘紀様から御殿に参れとのお召しだ。失礼の無いよう身支度を整え、すぐに参上するように」

 それだけ言って去る伝令を、木村と三山が物珍しげに廊下に顔を出して見送った。

「秋生、弘紀様から声が掛かったか」

「剣術のことについてお尋ねなのでしょうか」

「それとも褒美がもらえるかもしれんぞ」

「いや、名を覚えてもらっただけでも出世の糧になります」

 いずれ名誉な事、と、まるで自分のことのように喜ぶ木村と三山に送り出されて、けれど呼び出されたその理由を修之輔自身がいちばん良く分かっている。

 そう、これは褒美。何にも代えがたい。


 おおやけの呼び出しということだからか、二の丸御殿に着くと案内の者に弘紀の居室の表に連れて行かれた。

 すでに今夜の宿直の者が番に付いている時間で、部屋に続く畳廊下にはこれまで何度か顔を合わせて話したこともある者が詰めていた。弘紀が自分を呼び出した用事を思うと躊躇を覚えたが、相手は修之輔を見てその顔に分かりやすい喜色を浮かべた。

「弘紀様から、秋生が来たら控え部屋に下がって良いと言われている。お前がいれば護衛は充分ということだろう」

 出来れば子の刻までいてくれよ、そうすれば今夜の俺の当番はお役目ご免も同然だ、と気楽な言葉を残して、今夜の宿直は控え部屋へと足取り軽く戻って行った。

 その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、修之輔は襖の前に跪礼し、中に声を掛けた。

「お呼びに応じて参りました。秋生です」

「中へ」

 直ぐに応答があった。逸る気持ちを抑えて襖をあける。

 部屋に灯る灯明は一つだけ、その傍ら、枕に掛けた肘で上体を支え、薄手の襦袢一枚で寝具に横たわる弘紀の姿が薄明かりに浮かぶ。合わせた視線に促されるまま跪礼なく弘紀に近づいてその前に膝を付くと、直ぐ、修之輔の首に弘紀の腕が絡みついた。

 弘紀の肩から真白な絹の襦袢が流れて落ちる。帯をせず肩に掛けていただけのようだった。その襦袢の裾を手繰って手に触れる感触に気づいた。弘紀は下帯を身に着けていなかった。

「ようやく貴方に触れられる」

 そう囁く弘紀の体をそのまま床に押し倒し、自分の着物を取ろうとして弘紀の手に阻まれた。

「弘紀、手を少し緩めてくれ。これでは着物を脱げない」

「脱がなくていいのです。このまま、着たままで私を抱いてください」

 弘紀の指が修之輔の腰に伸びて袴帯を器用に緩めた。膝まで落ちるお仕着せの袴をそのままに、弘紀の手が修之輔の足の間を彷徨ってすぐ、目当ての物を見つけて下帯の上からそれを握り締めた。握って、緩めて、撫でさすり。動作を繰り返すたびに、修之輔よりも弘紀の呼吸が早くなる。

 修之輔は自分の下帯を緩めて弘紀の手を取り、直接自分のものに押し当てて握らせた。弘紀の指が熱をもったそれに絡んで擦り始め、修之輔はその指の動きに合わせ弘紀の首筋に舌を這わせた。互いの吐息は既に熱く、だが着物を脱ぐことを阻まれて、これまで十分焦らされているのに弘紀の素肌を目の当たりにして全身で感じられないもどかしさに、名を呼んで懇願する。

「弘紀」

「この着物を着た貴方に抱かれたい。私が貴方のために誂えた着物。羽代のこの城の者にしか許されないこの着物」

 弘紀の手が修之輔の背を撫で上げる衣擦れの音を皮膚で感じる。

「貴方が私のものであることを確かめたい。貴方は私のもの」

 すでに弘紀の声には熱がこもって、出される言葉はうわごとのように覚束ない。

「けれど弘紀、このままでは少し」

 脇の下に手を入れて弘紀の体を返してうつ伏せの状態にし、腰を抱えていつもより少々強引な力で自分の体に引き付けた。

 体の内、いつもとは異なる場所を刺激された弘紀の口から洩れる喘ぎは、修之輔の指に胸の突起を刺激されて、声になる前、吐息に混じって溶けていく。この体勢で弘紀を抱くのはこれが初めてで、昼間に交わした剣の高揚と、この藩の統治者を動物の仕方で犯すことの背徳感が淫靡な甘い蜜のように修之輔の心を浸した。


「思った以上に貴方が羽代に馴染んでいて喜ばしいことなのですが、本音を言うとおもしろくないのです」

 いつものように、互いに一度果ててから交わす言葉は日頃の会話より己の心に正直だ。

 修之輔様に問題があるというわけではなくて、と弘紀は言葉をつづけたが、弘紀がそんなことを云うとは意外だった。着物を着たまま弘紀の寝床に横になるのも躊躇われて、部屋の柱に背を預けて片膝を立てて座り、反対側、前に伸ばした足に絡むように襦袢一枚をまとっただけの弘紀が横たわる。

「なんか、皆、修之輔様に馴れ馴れしくないですか」

 修之輔の腿を枕にこちらを見上げながら弘紀が云う。息が着物の布地越しに皮膚に届いて、少し、くすぐったかった。

「羽代の者達が人を受け入れやすい性質なのではないか」

 そうなのかな、そうなのかもしれませんね、と弘紀は修之輔の言葉を吟味して頷いた。

「それでもやっぱり」

 弘紀の髪を撫でる。艶やかに真っ直ぐな黒い髪。弘紀が軽く目を閉じる。髪を撫で、耳朶に触れ、唇をなぞると顎が上がり、唇の合間から漏れる息の熱さを感じたと思った途端、ふいに弘紀が目を開けて起き上がった。

「そうだ、貴方に今度、臨時で護衛の任に就いてもらうことになったのです。明日、辞令を出します」

 まだどういった場面での任用かについては詳細にできないのですが重要な場での任務になります、と弘紀が云う。甘やかな声音から、急に明瞭な口調で弘紀が任務について語るのは別段驚くことではなく、いつもどおりのふるまいだった。

「分かった。そのつもりでいる。公式な任命なら弘紀から直接辞令を受けることになるのか」

 そうです、と弘紀がくすぐったそうな顔で云う。

「ちゃんと、しますから」

「もちろんだ、藩主様」

 弘紀が楽しそうに、それでも声を押し殺してくっく、と喉で笑う。いたずらに唇を重ねて声をふさぐと弘紀の方から舌を絡めてきた。

 もういいだろう、と修之輔は着物を脱いで単衣になり、再び弘紀の体を床の上に押し倒した。単衣一枚の布地越し、弘紀の肌の温度は間近で、足も、腕も、全身で肌を直接感じるのが心地良い。

 さっきは弘紀の言うことをきいたのだから今度は自分の番だと耳打ちすると、弘紀は何をどうされてもいいのです、と掠れる声で訴える。その片足を持ち上げ引き寄せて弘紀のものを握ると、先ほどの手順を思わせるその動作に、弘紀がそれから、と誘う目つきで微笑して、けれどその口から快楽に抑えきれない喘ぎが漏れ始めたのはそれからすぐ後のことだった。

 

 二人して二度目に果てたその後に、そのまま弘紀の背に自分の体を重ねて、気が付くと、短い間だが熟睡してしまっていたらしい。 

 昨夜はほとんど徹夜で、今日も日中は竹刀を存分に振るった。これまで眠ってないほうが不思議なくらいだった。見れば弘紀もうたた寝をしているようだ。

 そろそろ部屋に戻らなければと修之輔が身を起こすと、戻りますか、と察して起き上がる弘紀の肩を引き寄せて、もう少しだけ、とその温もりの名残を惜しむが、弘紀がとても眠そうで、そう無理を強いるわけにもいかない。


「同じ城に寝起きしているのに、なんだか黒河にいた時より会うのが難しい」

 衣服を整える修之輔の姿を今にも寝入ってしまいそうな目で眺めながら弘紀が呟いた。今夜は正面の襖から部屋を出る。部屋に几帳が立てられているのはいつものこと、何冊もの書物が豪奢な調度のそこかしこに積まれたこの部屋に、弘紀一人を置いて去るのがひどく心残りで後ろ髪を引かれる思いだった。


 いつかまた、弘紀を朝までこの腕の中に抱いていることはできるのだろうかと、どこに答えを求めたらいいのか分からないその疑問は、やり場のない寂しさを伴って修之輔の胸の内に残った。

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