第8話 いざ、文芸部へ

「あった……」俺は思わず声を出した。

 清峰高校は商業、工業、普通科の三校が合併してできた総合高校だ。生活の中心は普通科高校の跡地に立てられた新設の校舎だけれど、体育の授業や部活動では近くにある旧商業高校の設備が使われていた。徒歩三分程の距離があるのがネックだが、校庭は広いし、部室棟もかつての校舎を丸々利用しているのでかなり充実している。ゆえに環境に満足している生徒がほとんどであった。

 文芸部の部室はそんな部室棟の奥まった場所にあった。看板は埃がかかっているし、他の部室に比べると一際古さが目立つ。これではせっかく入部希望者がやって来たとしても隣の軽音楽部に人を奪われてしまう気がする。明かり窓の類いもなくなかの様子は窺えない。果たして本当に人がいるのだろうか。

 放課後。物は試しと、ここに来た。怖い物見たさも正直、ある。引き返すなら今だが、引き返してもよりよい案があるわけではなかった。

 緊張していた。唾液が失われて口が渇く。

 だけど、ここにいても埒が明かない。ゆっくりと手を上げ、俺は戸を叩いた。

「はぁい」

 丸っこい声が聞こえた。俺は滑りの悪い戸を開く。

 目に飛び込んできたのは三人だった。男子一人と女子二人が長机を挟んで向かい合っている。机の上にはトランプがあった。ババ抜きか? 見るとテーブルゲームが長机の端に積み重ねられていた。放課後のお遊びを俺の乱入で止めてしまったらしい。

 背の低い女子が一人、向かってきた。ぴょこぴょこという擬音がマッチしそうな女の子だ。失礼ながら上級生には見えなかった。たぶんタメ。いや絶対タメ。

「もしかして新入部員さんですか?」

 声のイメージを裏切らない幼っぽい容姿をしたその女子は、驚きと期待を込めて俺に問いかけた。が、意味が分からず、俺は疑問文を疑問文で返した。

「新入部員?」

「はい。えっと……違うんですか」

 女子は申し訳なさそうにいった。女子とは頭一つ分以上の身長差があった。目がうるうると濡れている。必然的に上目遣いになるものだから、俺は目線を逸らした。

「えっ? 俺ですか。そうではないんですが……用事があって来たんです。……悪いですが」

「そうですか……早合点してしまいすみません」

 女子は悲しげな声を出してとぼとぼと席に戻った。正直に伝えただけなのに、いじめたみたいな雰囲気が漂う。

 他の二人はただ俺を見てくるばかりで何をいうでもなかった。

 なんだかとても気まずい。俺はしきりに立ち位置を気にした。

 二人は未だ俺の出方を探っている様子だ。しかも男子の方はえらく不機嫌な様子でこちらから話しかけづらい。どうしてだろう。さてはトランプで負けたとか。

 俺はやむを得ず背の高い方の女子に話しかけた。

「あのー」

「はい? ……私?」

 はっきりとした声だった。

 霜門文彩は俺の抱いていたイメージを良い意味で裏切った。

 なんだ、話しやすそうじゃないか。

 劉がいっていたのはこの人のことだろう。じゃなければさっきの気弱そうな女子しかいないが、望みは薄いだろう。

 それにしても霜門文彩。うーん。聞いていた噂とはどうも印象が結びつかない。制服を着崩さずキチンと着ているのはイメージ通りだけど、新入部員の女の子を拒むような冷徹な人となりは見受けられない。髪は肩までのショートカット。身長は女子にしては高く、俺と同じくらいだ。背中に定規を差しこまれたみたいに背筋がいい。溢れ出る品行方正感。

 要するに微妙にイメージと違うのだ。でも部長っぽいのはこの人しかいないし……。ひょっとして劉は俺を脅かすために冗談をいったのか。

 気を取り直して俺は訊ねた。「部長さんですか。急に押しかけてすみませんが、頼みがあってここに来ました」

「いや、私はただの部員。霜門先輩ならもう少しで」

「私がどうかしたの」

 背後からひんやりとした声が聞こえて、俺は振り返らされた。

 一人の女子が廊下に立っていた。瞬間、俺の視線は彼女一人に集約された。そして、目が合って彼女の長い睫毛からたった一度のまばたきが発せられると、冷たい風が起きて少しだけ時間が凍結した。――気がした。

 霜門文彩。名乗らなくても分かってしまった。

 緑の黒髪が風もないのに揺れた。雪を欺く白い肌が首筋から零れた。わずかに乱れた髪の毛を、その人は優雅に整える。

 間違いない。どれもが俺の持っている文芸部の魔物のイメージと合致していた。

 この人こそ霜門文彩だと確信した。

「私に何かご用かしら」

 夢うつつのような時間を過ごし、しばし、何をいうつもりだったか忘れてしまった。

「どうかしたの」

「あ、いや、えーと」

 戸惑う俺を置いて、霜門文彩の背後から助け船が現れた。

「あれっ、高階じゃん。どうしたのこんなところで」

 黄色くて明るい声。こんなところに俺を知っている奴が? 誰かと思えば、クラスメイトの神楽月璃がいた。神楽とはクラスメイト以上の接点はないが、男女分け隔てなく接する姿勢には好感を持っていた。でも、どうして神楽が?

「ああ、神楽。どうしてここに」

「やだなぁ。どうしてって、アタシ文芸部じゃん。同じクラスなんだから覚えといてよね。てか、むしろ高階がここにいる理由の方が、どうして? だよね」

「それは……ちょっと相談事があって」

「相談? みぞれ、なんか聞いてる?」

 神楽は俺の横をすり抜け、みぞれと呼ばれた女子の向かいに豪快に座る。ちょうど気難しそうな男子の隣である。

「この方は待望の新入部員さんです!」

「だから違うんですって」

 と、俺が否定したにもかかわらず、

「へぇー意外。高階ってそういう柄じゃないって顔してるのに」

 神楽は軽口を叩く。ていうか、柄じゃない顔ってどんな顔だよ。

「神楽さん、知り合いなの」

 掛け合いをしていると、いつの間にか霜門文彩は部室のなかに移動していた。長机の短辺に接するようにした小さな机の前に陣取っていた。

「はい。クラスメイトです」

「そう。名前は?」霜門文彩は俺に向き直る。

 来た――。ここからが勝負だ。

 俺は軽く息を吸って、「高階泰河です。一年八組の」

「高階くん、初めまして。文芸部部長の霜門文彩です。――ようこそ」

 霜門文彩の号令でようやく部室に入ることが許された。俺はおずおずと足を進める。教室を転用しているので部室はかなり広かった。壁に設えてある棚に書籍が並んでいる。パソコンが一台。あとは文房具や紙類がちらほら見えた。

 そうやってジロジロしていると、

「何か面白いものはあった?」

「いえ、すみません……」

「それで、この部にどんなご用」

 霜門文彩はすらりとした足を、小さな机の空間で窮屈そうに遊ばせる。黒タイツがやけに大人っぽくて目に毒々しい。

 世間話もなし。社交辞令もなし。霜門文彩は単刀直入に聞いてきた。

 何から話せばいいだろうか。俺は思考を巡らせた。スピーチの発表者に選ばれたことからか? それともその原稿を考えてほしいという本題? あるいは原稿の助力を頼むほどのトラウマを負った話だろうか。

「えーと、霜門先輩」

「文彩でいいわ」

「へ?」

「下の名前がいいの。名字の字面が仰々しくて苦手だから。あなたも自分の名前に疑問を持ったことはない?」

 霜門文彩もとい文彩先輩はさっそくジャブをかましてきた。初対面の相手に名前呼びを要求するだけに留まらず、文字トークを振るなんて油断ならない。これはたぶん曲者だ。この瞬間、劉のいっていた噂は八割方真実かもしれないと認識を改めた。

「俺はないです……。こだわりもとくに。つまんない回答ですみません」

「そう」文彩先輩は音なく笑った。「そういう人もいるわね」

 そういう人が多数だとは口が裂けてもいえない。

「し……じゃなくて。文彩先輩、実は頼みがあって来ました」

「頼み? それはどんな」

「急に押しかけてしまって、しかも会ったこともない先輩に頼むのもおかしな話なんですけど――俺のスピーチ原稿作成を助けて欲しいんです」

 文彩先輩は答えなかった。そんなところに俺はいないのに、部屋の隅の天井なんか見ている。空気が死んでいた。俺は視線を泳がした。しかし、部員もうんともすんともいわなかった。一人を除いて。視界の端で神楽がいかにも分かっているふうな顔つきをしているのが見えた。

「あー……えーと、横入りしてすみません、文彩先輩」神楽は遠慮がちに挙手する。

「どうしたの神楽さん」

「高階はスピーチのクラス代表に選ばれちゃったんです。ほら学校の、あるじゃないですか。それに選ばれて」

 ああ、と文彩先輩はいった。「六月末の」

「はい。そうなんです。不本意ながら」俺は頬を掻いた。

 特に打ち合わせはしていないし、よく話すような間柄でもないのに、神楽は補足してくれた。そういうところが神楽が色んな人に好かれる理由なのだと思う。

 文彩先輩は黙考する。表情が読めないから覚悟も決められない。顔全体にニュートラルなオーブを纏っているようだ。

 やがて文彩先輩は口を開く。唇から上品な破裂音がした。

「心苦しいけどお断りさせていただくわ」

 予期していたが、いざ言われると心にくる。ビビっているのを悟られないように、俺は自らを奮い立たせながら聞いた。

「どうしてですか」

「ここは文芸部よ。主に小説やそれに準ずるものを創りあげる部活動。スピーチ原稿は受けてないわ」

「そんな……。文章を作成することに関しては同じじゃないですか」

「百歩譲ってあなたのいう通りそうだとしても、あなたの文章はあなたが作るものよ。そこに私達の出る幕はない」

 文彩先輩は頑なだった。しかし諦めるわけにはいかなかった。スピーチの失敗で劣等生の烙印を押されるかもしれないのだ。たった一回、されど一回。小学校の時の詩の失敗、読書感想文の失敗、それがどれだけ尾を引くか身をもって知っている。

「あとがないんです。お願いです!」

「無理よ」

「お願いです」

「いくらお願いされても、ない袖は振れないわ」

 文彩先輩は折れない。俺は文彩先輩の近くへ寄った。怖かったけれどこっちだって瀬戸際だった。文彩先輩は一歩も引かなかった。後じさりとは無縁の強い人だった。

 土下座しようかと思った。でも止めた。そういうのはこの人には効かないと感じた。なら、別の角度から攻めるまでだ。俺はプランBを発動した。

「ここに来れば文章のプロがいて、必ず助けてくれるって聞きました。それを頼りにしたんです」

「誰から聞いたの?」

 文彩先輩の声色が少しだけ揺らいだ気がした。

「か、風の便りで」

「そんな便りは出していないけれど」

「でも俺は聞いたんです! 先輩……。俺は文章が全然書けないんです。普通の人よりもかなり苦手です。先輩たちは慣れてますよね。だから少しだけでも力をお借りしたいんです。迷惑はかけません。隅っこの方で作業します。それから雑用だってします。人一倍努力します。だから――」

 文彩先輩は指を唇に当て考える。

 できることはすべてした。あとは結果を待つだけだ。

「お願いします!!」

 俺は頭を下げた。他の部員がどんな反応をしているかなんて眼中になかった。

 頼む……。俺は先輩の答えを今か今かと待ち続けた。そのときは突然訪れた。

「いいわ」

「本当ですかっ!? じゃあ」

 俺は下げていた頭を思い切り振り上げた。きっと第三者視点で見たら、俺は馬鹿みたいに喜んだ顔をしていたのだろう。

「その代わり条件があるのだけれど」

「はい! 俺ができることならなんでもいうことを聞きます」

 スピーチの原稿作成を助けてくれるならなんでもよかった。

「よかった。――じゃあカリニュウブしてくれる」

「カリニュウブ?」

 思ってもみないことを言われて、俺は聞き返す。

「ええ、仮入部。高階くんがスピーチ原稿を作れるように私達が力になってあげる。その代わり、ウチに仮入部するのはどうかしら」

「どうしてまたそんなことを」

「この高校の生徒会規則知ってる?」

「いいえ……勉強不足で」

「実は卒業なり、諸々の事情で上級生が全員辞めてしまったの。それで今この文芸部には見ての通り五人。一年生が四人と二年生の私しかいない。でも生徒会規則では部活の最低人数は六人と書いてある。この意味が分かる?」

「部活存続の危機、ですか」

「ご明察。今はまだ猶予してもらってるけど、そのうちこの部活は廃部になる。そうならないようにあなたにその穴を埋めてもらいたくて」

 そういうことか。要するに俺がピンチなのと同時にこの部活もピンチだったというわけだ。俺は二つ返事で了解しようと思った。前述の通り、喫緊の課題はスピーチ原稿だ。どんな形であれ、それが解決するなら構わない。期間が終わったら辞めればいいのだ。

「分かりました。文芸部に仮入部します。仮入部させてください」

「交渉成立ね」

 文彩先輩が事務的にいう。もちろん握手はなかった。先輩の最後の音と被るように、近くから控えめな歓声が聞こえた。あの背の低い女子だった。

「これで……これで部活は続けられます! 高階さん、ありがとうございます」

「お役に立てたようでよかったです。でもそんなに喜ぶことなんですか」

「はい! とっても嬉しいです。高階さんには感謝してもしきれません」

 女子はお礼をいった。あまりに喜ぶものだから少しだけ罪悪感が芽生えた。それにどうしてそんなに目が潤んでいるのか。小動物感が空恐ろしい。

「あ、自己紹介がまだでした。姫乃樹みぞれです。分からないことがあったらなんでも聞いてくださいね。いっても、私で頼りになるかってところですが……。とにかくとにかく、よろしく、です」

 姫乃樹はちょこんとおじぎをした。

「こちらこそよろしくお願いします」

「はいっ」

 ああ、癒やされる。と、緩みそうになった頬をピシャりと叩く。

 姫乃樹のおかげで自己紹介の流れができあがった。次は隣にいた長身の女子の番だ。

「美竹星來です。よろしく」

 簡素にして簡潔。必要最低限の挨拶をして美竹はまたパイプ椅子に座った。朴訥というわけではなさそうだった。恐らくどういう人物か見定めるために距離を測られている。しかし、簡単な自己紹介でも不快な感じはない。誠実な人柄が口調に表れていたからだ。

「んじゃ、同じクラスだし、私はいいわね。でも研一郎は初対面だから」

 神楽は隣の男子を見る。

 研一郎と呼ばれた男子は「ふん」と鼻を鳴らし、「部外者に自己紹介なんて必要ないね」

 訳が分からない。ようやく口を開いたかと思うとあからさまな敵意をむき出しにした。開口一番の言葉としてその選択は確実に誤っていた。

 吉報がある。どうやらそう思ったのは俺だけじゃなかったようだ。

「研一郎、それはないんじゃない」神楽がいった。

「鏡くん、最低限の敬意は持つべきよ」文彩先輩が追随した。

 よかった。おかしいのは俺じゃなかった。もしも新入部員をいじめるという部内ローカルルールがあったらどうしようかと思った。

 旗色が悪いと、鏡は観念したのか、

「鏡研一郎」

 よそ見して、ぶっきらぼうにいった。最後に舌打ちの余韻を残して。

 感じ悪いな。俺がなにしたってんだよ。

 俺はコイツの名前だけは覚えまいと心に強く誓うのだった。


 それから世間話をした。カラーボックスを組み合わせて作られた簡易ロッカーのなかからどこからともなくお菓子が出てきた。まるで魔法だった。教師が来てもすぐ隠せるように工夫されていた。マスキングテープに「るり」、「みぞれ」と書いてある。神楽と姫乃樹の所有物だった。美竹と文彩先輩は加わらなかったけれど、こうして華やかなお茶会が始まった。

 そこで聞いた話は、神楽と鏡は幼馴染みだということ、美竹は台湾と日本のハーフだということ等々。まあ、他愛もない話だった。

 俺は安堵した。最初こそ身構えたが拍子抜けだった。和気藹々としていて、かなりいい雰囲気といっていい。これでなんとかなりそうだ。文彩先輩は確かに癖は強いけど、噂に聞いていたほどではないと思った。上手く応対していれば大丈夫だろう。となると厄介なのは鏡研一郎だけだ。まあコイツとは話す予定はないから、無視すればいいのだけれど。

 ともあれ、これでひとまず安心できた。助っ人がいないという最悪の事態だけは避けられたからな。俺は姫乃樹が入れてくれたお茶を飲み、胸をなで下ろすのだった。

 流れが変わったのは文彩先輩の鶴の一声だった。

「じゃあ早速だけど、アレをしようかしら」

「そうですね。動かしますか」美竹がいった。

「アレってなんですか」

 ポテトチップスをくわえながら楽しそうにいった俺は華麗に無視された。邪魔だといわんばかりに、俺はどかされた。部員たちは統制が取れたかのように机をトランスフォームさせる。あっという間に長机が一列になった。

 表情が強ばる。なんだ……なにが起きているんだ。

 全てが終わったのを確認して、文彩先輩が向きなおった。

「なにって、面接よ。高階くんの面接。あなたの文章レベルを測るための」

 後じさりした俺は机に強かにぶつけた。ガタンと揺れた机から小さな紙片が落ちた。片付けられずに残っていたトランプだった。ジョーカーの絵柄が表になって、笑っていた。

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