第14話

 サイゼを出てから佐竹さんとはすぐに別れて、俺は再び帰路を辿るのを再開したのだが、そこで予想外の事態が起こった。


 俺の前方に、ジャージ姿の水無瀬さんを発見した。


「にゃー。にゃー。ふふふっ」


 俺がついぞ見たこともない穏やかで優しげな笑みで、水無瀬さんはしゃがみこんで野良猫にエサをあげていた。魚肉ソーセージを小さくちぎって猫の前に放っている。それを猫は嬉しそうにくちゃくちゃ食べていた。


 その水無瀬さんの聖母のように慈愛に満ちた笑みは、やはりなにものよりも美しいとしか言えなかった。水無瀬さんはジャージ姿であっても、夕方に野良猫にエサをやっていても、いつなんどきでもいかなる状況でも、やはり美しいのだった。


「にゃらにゃらにゃかにゃかにゃんにゃかにゃー。ふふふっ」


 いったいどこの国にそんな鳴き方をする猫が生息しているのだろうと水無瀬さんの鳴きまねに疑問を禁じ得なかったけど、俺にはひとつ、考えなければならない重要な問題がある。


 どのような言葉で水無瀬さんに話しかけるのか、ということを考えなければならない。


 これは一旦時を止めてまで考えなければならない問題だろう。


 その水無瀬さんの、いつになく穏やかな表情を眺めながら考える。


 今日の水無瀬さんの姿は全身青いジャージ姿。口元あたりまでチャックが閉まっており、サイズが若干合ってないのか袖から手が半分しか出ていない。つまり萌え袖。


 道の脇にしゃがみ込んで、片手で魚肉ソーセージをぷらぷらさせて、もう片方の手でそれをちぎっている。そのちぎられたソーセージに、野良猫がむしゃぶりつく。


 見ているこっちまで穏やかな笑みになってしまうほど、その構図は平和的で微笑ましかった。


 だけどそれを、俺は自分の手で終わらせなければならない運命にある。


 こんなに悲しいことが果たして他にあるだろうかと心は悲痛に伏しつつも、水無瀬さんへと近づく足は止まらない。


 水無瀬さんの傍まできて、未だ俺の存在に気付いていない水無瀬さんを見下ろして、俺は口から言葉を出さずに空気を吐き出して、一度深呼吸。


 水無瀬さんは俺と会うのが気まずいと思っているのかもしれないけど、俺だってそれは同じことだ。俺だって気まずい。どこまでも空気詠み人知らずなわけじゃない。


 でも、その気まずさから逃げ出して水無瀬さんとの関係を手放すのは、なによりも嫌だ。


「ごきげんようお嬢さん。元気かい……?」


 約三分間ほど考えて捻りだした一言がこれだった。言い終わった後で自分のとち狂い具合に気が付く。


 ごきげんようってなんだ。お嬢さんってなんだ。佐竹さんに影響されたのか?


 水無瀬さんはびくっと大げさなくらいに肩を震わせて、さび付いたロボットのようにぎこちない動作で俺を見上げた。その瞳は少しだけ、いつもよりも潤っているように見えた。


 そんな、地球破壊爆弾を目の当たりにしたかのような瞳で俺を見つめないでくれ。


「ひぇ……あ…………」


 なぜか野良猫はもうどこかへ走り去ってしまったようだった。水無瀬さんの異常なまでの雰囲気の変化が怖かったのか。


 水無瀬さんはゆっくりと視線を逸らし、口元をわななかせていた。


「えーっと、こんなところでなにしてるの?」

「あぇ…………ご、ごめんなさいっ!」


 また、不格好なクラウチングスタートのように、水無瀬さんが立ち上がりながら走りだそうとする。


 初めて会ったときと、同じ。だけど。


 今度は逃がさない。


「ちょ、ちょっと待ってくれよ」


 ぱしっと、俺は水無瀬さんの手首をつかんだ。


 瞬間、水無瀬さんの動きは停止した。いや、機能停止といったほうが適切かもしれないほど、水無瀬さんの身体の全ての運動が、隅から隅まで静止した。心臓まで止まっていたんじゃないかと思う。


「ご、ごめん。えーっと、いや、違うんだ。その、とにかく……」


 水無瀬さんの背中に向かってしどろもどろになりつつ言う。だがこの次に何を言えばいいのかわからない。


 初対面のときは、俺は今よりもはっきりとした明快な話し方で水無瀬さんと話せていたはずなのに、それに比べて今の俺はこんなに曖昧でもごもごした話し方になっている。俺が情けなくなっただけのようにも見えるけど、これもひとつの変化、進歩なのだろう。


 確実に俺と水無瀬さんの関係は進んでいると、たとえ牛歩であっても進んでいると、俺はそう信じている。


 だから、せっかくここまで進んできたのだから、こんなところで終幕するわけにはいかない。


「…………」

「……一旦、話をしよう。このままじゃ駄目だと思うから、その、なんだろう、うん。とにかく、話がしたい」


 言うと、水無瀬さんはやっと呼吸を再開したようで、えほえほと軽くせき込んでからゆっくりと深呼吸をした。


 そして、またぎこちなく首を動かして、俺に顔を向ける。


 少し遠慮がちに目を逸らしてから、言った。


「…………その、奢って、くれますか……?」


 その、完全に予想の範疇外だった質問が急に脳内に飛び込んできて、俺は頭が真っ白になった。頭を横からぶん殴られたかのような衝撃が襲う。


 精神的余裕がないから、それだけ受ける衝撃もいつもの数倍大きくなる。


「……え、っと、奢る?」

「その……財布を、持ってないので……」


 水無瀬さんはいっそやりすぎなくらいに顔を伏せているから、俺の視点からだと水無瀬さんのつむじしか見えない。つまり俺が水無瀬さんの表情を確認するのは不可能だった。


 水無瀬さんはつむじまで美しかった、とか異常性癖の持ち主のようなことを考える。


「ああ……、まあ、そういうことなら……」


 確かに水無瀬さんの、全身ジャージ姿という気の抜けきった軽装ならば、財布を持っていなくとも不思議はない。


 いや、そうじゃなくて。


 一旦話をすると言ったのは俺だけど、その話をする場所をそういうお金が発生する場所に限定したわけではない。話をするだけなら、そこら辺の公園のベンチでも構わない。


 だけど、水無瀬さんは当然のように奢れと言ってきた。


「えっと、水無瀬さんはどこに行きたいとか、そういうのある?」


 俺は水無瀬さんの手首を掴んだまま、つむじに向かって問いかける。


「じゃ、じゃあ、ジャージで入っても恥ずかしくないところ、とか」


 と、次の瞬間。


 どこからともなく現れた野良猫が、目にも止まらぬ素早い動きで水無瀬さんの手元の魚肉ソーセージを咥えて、そしてしゅたたっとどこかへ走り去っていった。


「あ……」


 水無瀬さんは顔を上げて、その走り去っていく猫を呆然と見つめて、やがて猫が誰かの庭の藪の中に入って行くのを見届けて、そして俺に向き直った。


 今日になってから初めて、水無瀬さんとしっかり向き合った。対面した。


 水無瀬さんは、俺に助けを請うような、潤いに満ち満ちた目をしていた。水無瀬さんには残念だけど、俺は魚肉ソーセージ一本のためだけに人様の家の庭まで入っていける甲斐性の持ち主ではないので、その目は無視する。


「そうかわかった。それなら俺に考えがある。つまり目立たなければいいんだろ?」

「あ、えっと……そうですね」


 今の出来事をなかったことにされたのが不服だったのか、水無瀬さんは困惑したようにまた目を伏せた。


「大丈夫。俺についてきて」


 俺は慎重に、水無瀬さんの方を向いたままで歩き始めた。つまり後ろ歩きである。水無瀬さんの手を引いて、俺は背中方向に歩いている。俺が歩き始めると水無瀬さんはより一層目を伏せて、ジャージの襟で口元を隠した。


 しばらく歩いたところで道を通りかかった男子小学生集団が「うわバカップルが変な歩き方してるー!」とか俺たちを不躾に指を差しながら叫んでいたが、「人様に指を差すんじゃない。その指へし折ってやろうかクソガキがぶっ殺すぞ」と俺が言ったら、男子小学生は「う、うわぁ……」と言ってさっきの猫と同様走り去っていった。水無瀬さんはそこで顔を上げて、怯えたような表情で俺の腕をばしばし叩き始めたけど、俺はそんなことには構わなかった。いやでもさすがに痛くなってきたので、「今のは知り合いの男の子だから、あれは冗談だよ。本気で小学生の指をへし折ろうなんて思ってない」という嘘を言ったら、水無瀬さんの腕の動きは停止した。それから小さい声で「前を向いて歩いてください」というとんでもなく常識的な指摘を受けたので、俺は前を向いて、後ろ手に水無瀬さんを引っ張る形で歩き始めた。


 もし水無瀬さんと二人だけで歩いていたらどんな地獄が展開されるんだろうとか昨日の俺は考えていたけど、実際にそこにあったのは地獄ではなくただ沈黙のみだった。


 いやだがしかし、俺のテンションだけは確かに地獄だった。

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