第33話 赦しと名前
少女が語るかみさまの話は、驚きに満ちていた。
「聖書が手もとにないから、こまかなところまで正しく伝えられないけれど」と彼女は前置きをして、洞のなかで魔物と向かい合い、
天地創造。使徒と呼ばれるはじまりのものたち。人間の始祖アダムとエバ。エデンの園。知恵の果実。失楽園。ノアの方舟。バベルの塔──それは少女の小さな頭に収まっていたとは思えないほど、壮大な物語だった。一昼夜で語りきれるはずがなく、少女は夜を挟んで、かみさまと人間の話を魔物に聞かせた。
悦楽。失望。諦念。憤怒。悲哀。歓喜……。物語のなかでありとあらゆる感情が行き交い、めくるめく
「これがおおまかな聖書の内容よ。わたしたちはかみさまに創られ、かみさまに導いて頂いて、長い時を共に歩んできた……」
最後に長い吐息をついて、少女は物語をしめくくる。
洞の景色が視界に戻ってきて、魔物はやっと我に返った。まるで、長い旅に出ていたような心地がした。
──自分たちがどこから来たのかなど、考えたこともなかった。
これを人間たちが勝手に創った話だと笑うのはたやすかったが、そうするにはあまりにも
「でもね」
聖書の物語に浸る魔物に、少女はおずおずと声を掛けた。
「たしかに聖書には、わたしたちが犯しがちな罪や、おごり高ぶった気持ちが
「かみさまを信じ、清い心を持つ……」
「そう。そのことを忘れないために、祈りが……ロザリオがあるの」
そうつぶやいて、少女は自身の前に十字を切った。そのしぐさとロザリオの十字架は、人間の罪を身代わった御子が、人間たちに処された十字架刑──十字架に両手両足を釘で打ちつけられ、
「信じるものは救われる。世界が終末を迎えたとき、かみさまが死者をよみがえらせて、最後の審判を行なう。信心深い者と清らな者には永遠の命をあたえ、不信心な者と悪魔は地獄に堕ちる……」
少女の語った話に、魔物はしばらく沈黙して、ためらいがちに
「──俺はきっと、地獄に堕ちる」
声が洞のなかに響いて消える。
少女は「なぜ?」と問いかけた。たまらず目を逸らして、吐き捨てるように答える。
「俺は……魔物狩りをする人間を殺した。三人も」
神の代行人──
「なぜ殺したの」と少女が聞いた。その物言いが批難や嫌悪を含んだものではなく、純粋な疑問を差し出した、透き通る水のようなものだったから、魔物は問われるままに答えた。「俺が魔物だからだ」と。
「……洞の前で倒れていたときの傷は、その人間たちに?」
少女の問いかけに、魔物は何も言わなかった。
確かに
長い沈黙が落ちた。
魔物の
少女にこの
「……あなたは」
少女がかぼそい声を漏らす。
「……あなたはきっと、
少女は微笑んでいた。無垢な笑顔ではなく、心に
彼女は静かに十字を切った。
「主の慈しみは絶えることがなく、その憐れみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。主は己を待ち望む者と、己を尋ね求める者にむかって、恵み深い……」
彼女はまつげを伏せて、物語の一片のようなものを
すでに魔物は知っていた。それが長年少女が親しんできた、聖書から寄りぬかれた言葉だということを。
「かみさまの
だから、と少女はつぶやいて、白くほそい手を魔物に伸ばした。
指先が魔物の硬い体毛に触れる。魔物はびくりと身体を硬くしたが、その緊張すらほどくように、少女は魔物の毛並みをゆっくりとやさしく撫でた。
「だから、あなたも自分を
触れ合ったところからぬくもりが伝わる。
夢に見た、幼いころと同じ安らぎが、
……どうしてこの少女は、魔物が己を嫌っていることを知っているのだろう。少女の同族を殺した魔物にも、やさしくあれるのだろう。
魔物に触れる少女の白い手はひんやりと冷たく、わずかに震えていた。
恐れを覚えないはずがない。それでも彼女は恐怖に従うよりも、魔物の後悔に寄り添うことを選んでくれた──
「……俺に、名前を与えてくれ」
たまらなくなって、魔物は少女に懇願した。
「さきほどお前が教えてくれた洗礼名を、どうか俺にも与えてくれ」
洗礼──それは、神を信じる者が受ける、罪を洗い清める
魔物には名前がなかった。誰も呼ぶものがおらず、唯一のものとして認識されることがなかったから、必要なかった。それでも少女が魔物に名前を与えてくれて、呼んでくれたなら……わずかでも清い存在に近づける気がした。
少女は大きな瞳を見開いて「でも、わたしは神父さまじゃないわ」とかぶりを振る。
「それに……わたしは、ロザリオをなくしてしまった」
少女の村では、洗礼とともにロザリオが授けられるのだという。生涯大切にするべき十字架を、いつの間にかなくしてしまったのだと彼女は言った。
少女は口にしなかったが、きっと森に連れ去った時に落としてしまったのだろう。恥じ入るような表情を見て、魔物は首を横に振る。
「かまわない。お前に名前をつけてほしい」
祈りのしるしを持たなくても、少女以上に清らなものなど存在しないのだから。
〇
数日経って、傷が完全に癒えたころ、魔物は森の湖に浸かって、少女の手から洗礼を受けた。身体を水に浸して、これまでの罪を
少女の儀式に関する知識は
全身を水に浸けて、黒い体毛を濡らした魔物の身体から、水滴が落ちる。湖に銀の波紋が広がって、名残の輪を描く。
魔物と同じように腰まで水に浸かった少女は、魔物にかみさまへの信仰を尋ねた。魔物は少女に信仰を誓う。
「……ラウレンツ」
少女の唇から紡がれた五音に、魔物は耳をそばだてる。
「あなたの洗礼名。ラウレンツ。わたしたちの言葉で〝打ち勝つ者〟の意味を持つの」
打ち勝つ者。その名が、少女から送られた励ましでもあるのだと分かる。
どうか魔物が──ラウレンツが、欲望に打ち勝てるようにと。
(俺はもう二度と、人間を傷つけない。どんなに飢餓を覚えても、人間を食べない)
ラウレンツは心のなかで誓いを立てた。それはかみさまとの約束でもあり、少女への密かな盟約でもあった。
湖から上がり、身体を振るって水を払う。ラウレンツと同じように、白い長衣と白金の長い髪から水を絞る少女のすがたを見て、ふと疑問が浮かんだ。
「そういえば……俺はお前の名前を知らない」
少女はこの森で唯一の少女だったから、名前を知らなくても不自由だと思わなかった。しかし魔物がラウレンツという名を貰った今、彼女の名を知りたいという思いが湧く。
名前には意味がある。そして名づけたものの思いも、きっとそこに。
「わたしは……リィリエ」
少女ははにかむように名乗った。リィリエ、とラウレンツが繰り返す。
「百合の意よ。百合は、天使が聖母に授けた花なの。百合のように清い子に育つようにって、お父さんが」
ラウレンツは穏やかな心持ちで「良い名だ」と言った。
彼女に似合う名前だと思った。これからきっと純白の百合を見るたびに、彼女を思い出すに違いない。
リィリエは照れ笑いを、しかし誇らしさをあわせ持つ笑顔を、彼に返した。
魔物は胸にぬくもりを感じながらも、彼女は両親に愛された娘なのだと知る。
──ああ。やはり彼女は、もといた場所に帰さなければ。
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