#4 逃げる獲物を追うはずがいつの間にやら追われる身

4-1

 すっかり夜も更けたエンデラ唯一の都市『フロート市』の片隅で、ようやく賑わい始めたベープ・バー『龍追い人ドラゴン・チェイサー亭』では、カウンター席に極めて不穏な空気が漂っていた。

「なあ、そろそろ機嫌直してくれよ、トビー」

 カウンターテーブルに肘を突いた右手に尖った顎を乗せながら、ソリオが隣に座るトビーの顔色を窺っている。

「猫撫で声出すんじゃねえ。気色悪い」

 右手にベープ管を、左手にコーヒーカップを手にしながら、トビーはソリオに顔を向けようともしない。黙々とコーヒーを喉に流し込みつつ、時折りベープの白い煙を吐き出す彼が、赤毛の青年と目も合わせる気がないのは一目瞭然であった。

 不機嫌を露わにしたトビーの周りには殺気すら漂って、彼と付き合いの長い常連客たちも迂闊に声をかけようとはしない。だからそんな彼に頓着せず喋りかけるソリオは、周囲からある種畏敬ともいえる視線を集めていた。

「そりゃ、勝手に現場を離れたのは悪かったと思うよ。でもさ、俺があの場で出来ることっていったら、チュールリーを安全な場所に逃がすことぐらいだと思わないか?」

「……てめえが勝手に女を連れ出して、俺があの後ゲンプシーをなだめるのにどんだけ苦労したか、わかってほざいてるのか」

 ようやく振り返ったトビーのグレーの瞳には、まるでソリオを睨み殺そうとでもいうような怒気が充満している。だが凶悪な視線に晒されても、ソリオは小さく肩をすくめるだけであった。

「そいつは悪かったけどさ。チュールリーは今もちゃんと出勤してるんだから、大目に見てくれよ。どこをねぐらにしているかわかんない方が、彼女も安全だろう? ちゃんと弾代も弁償したんだし、事件は無事に解決、万々歳ってことで――」

「いい加減黙れ。これ以上喋りかけるなら、そのよく回る舌を引き千切るぞ」

 長口上を乱暴に打ち切られて、ソリオは乾いた笑いを漏らしながら、さすがにそれ以上の釈明を諦めた。それでもカウンターの中に向かって「俺にもコーヒーを一杯頼むよ」と頼む姿に、デミルが何度目かわからない呆れ顔を見せる。

「こいつの神経逆撫でし続けられるって、どういう頭してんの、あんた」

 そう言ってデミルが、今度はトビーの横顔に視線を注ぐ。相変わらず眉間に皺を刻んだままのトビーは、すると手にしていたベープ管の先でゆっくりと二度、カウンターテーブルを叩いてみせた。何気ないその仕草を目にして、デミルの右目の義眼の奥で微かな光が閃く。

 やがて差し出されたカップをぐいと呷ってから、ソリオはデミルに苦言を呈した。

「なんかこのコーヒー、前よりも苦くないか?」

「文句を垂れるなら飲まなくてもいいんだよ。ちゃんとお代はもらうけどね」

 デミルからもつれなくされて、ついにおとなしくなったソリオが黙ってコーヒーを啜る。カウンター席の空気がやや落ち着いたのを見計らったかのように、『龍追い人ドラゴン・チェイサー亭』のほかの客たちはようやくざわめき始めた。

 今夜はソリオとトビー以外に、ふたつのボックス席が埋まっている。店主の無愛想さを考えれば十分な入りだが、この店を訪れる客はむしろこれから増えていくのが常だ。

 案の定、それから間もなくしてまた店の扉が押し開けられる。入口に現れたのは薄汚れたフード付きコートに身を包んだ少年、ヤンコであった。

「また龍爪草タツメグサの二十倍かい」

 注文を先読みしようとするデミルに対して、ヤンコ少年がにやりと笑い返す。

「いや、三倍の、上龍爪草タツメグサを頼むよ」

 龍爪草タツメグサの上、それも三倍希釈ともなれば、ヤンコがいつも頼むリキッドの十倍以上の値が張る高級品だ。デミルの右目が光を放ったのは、彼女が驚いた証拠であった。

「姐さん、約束だぜ。エールとランチ……はこの時間じゃなんだから、なんかスナックでも見繕ってくれよ」

 ヤンコは三白眼に得意気な表情が浮かべてそう言うと、デミルから受け取ったリキッド筒を片手に、空いたボックス席に勢いよく腰掛けた。腫れ物を扱うようにリキッドをセットしたベープ管をおそるおそる咥え、滅多に味わうことの出来ないベープの香りを堪能する。

「随分と羽振りがいいなあ、ヤンコ」

 上機嫌に浸っていた少年は、不意に頭の上から降りかかった低い声に顔を上げた。

「……龍追い人ドラゴン・チェイサーのおっさん」

「その名で呼ぶんじゃねえと言ってるだろうが」

 いつの間にかボックス席の傍に立っていたトビーが、そのまま少年の目の前の席にどしりと腰を下ろす。疑いに満ちたグレーの瞳に睨まれて、ヤンコは表情を一変させた。

「そんなことよりヤンコ、まさか俺に黙って、勝手にでかい商いしたんじゃねえだろうな」

「黙ってなんかねえよ、ちゃんとあいつに……あれ?」

 抗議の声と共にヤンコがカウンターを指差す。だが彼の指先が示す先にあるのは、空席のカウンター席だけであった。

「姐さん、あいつは? あの赤毛の、薄ら笑いののっぽ」

「ソリオなら便所だよ」

 壁に凭れかかったまま、デミルが店の奥を顎で示す。つられて店の奥に目を向けるヤンコを見る、トビーのこめかみに青筋が浮かび始めていた。

「あの薄ら馬鹿が、なんだって?」

 その表情を目の当たりにして、何かしら彼の逆鱗に触れてしまったらしいことに気づいたのだろう。ヤンコは青ざめて震え上がり、ほかの客たちもまた会話をひそめて息を呑む。店内に俄に満ちる緊張感は、だが空気を読まない新たな客によって吹き飛ばされた。

「トビアス・キャブラギーはいるか?」

 狭い店内には十分すぎるほどよく通る声を上げながら無遠慮に踏み込んできたのは、黒いコートに全身を包んだ若い女であった。

 誰にも初見の彼女に対して、客たちが無遠慮な視線を浴びせかける。だが女はデミルの無愛想をも上回る無表情で、再び同じ台詞を口にした。

「トビアス・キャブラギー保安官、いないのか?」

「……何度もうるせえな。こっちは取り込み中だ」

 全身から苛立ちを立ち昇らせながら、彼女に背を向けていたトビーが振り返る。だが彼と視線を合わせても、女の黒目がちの瞳には一片の動揺もない。

「なってないな。保安官なら通信端末は常時オンにしろ」

「そう言うてめえはいったい何様だ」

「私はアイリン・ヂュー。バララトの司法捜査官だ。お前にはこれから宇宙港爆発事件の捜査を手伝ってもらう」

「なんだと」

 アイリンの放った言葉は、トビーにも容易に聞き流すことの出来ないものであった。ボックス席からゆらりと立ち上がったトビーが、店内を一歩二歩と歩いて彼女と対峙する。

「何を手伝えって? 司法捜査官だかなんだか知らねえが、いったいなんの権限があって……」

「本部長には既に許可を得ている。お前には私のエンデラ滞在中、指揮下に入ってもらう」

 有無を言わせぬアイリンに、トビーの鋭いまなじりが急激に吊り上がる。その太い手がコートの襟首を乱暴に引き寄せても、アイリンは鉄面皮を保ったままトビーの顔を仰ぎ見た。

「航宙省所有の衛星砲を詐取した疑いがあるそうだな。管理本部じゃ手出し出来ないだろうと高を括っているんだろうが、司法省うちの捜査案件に格上げしてもいいんだぞ」

 アイリンの薄い唇の間から叩きつけられた言葉に、トビーの切れ長の目が一瞬見開かれた。それはつまり、不正を見逃す代わりに従えという、どう取り繕っても脅迫以外の何ものでもない。

 しばしの沈黙の後、コートを握り締めるトビーの手がおもむろに放された。姿勢を正したアイリンが、彼につかまれていた襟首をわざとらしくはたく。

「わかってくれれば結構だ。今から早速捜査に向かう。ついて来い」

 そう言うや否やアイリンはさっさと踵を返して、あっという間に店を出てしまう。彼女の背中を充血した目で凝視していたトビーは、周囲にも聞こえそうなほど歯を軋らせていたが、それも束の間のこと。やがて空いたスツールに投げ出されていたフライトジャケットを引ったくると、無言でアイリンの後を追う。

 嵐のように通り過ぎていったアイリンの振る舞いを、店内の全員が呆気にとられながらただ眺めているほかない。トビーが店を出てからもしばらく誰も口を開こうとしない中、沈黙を破ったのは間延びした暢気な口調の声であった。

「いやあ、トビーとはまた違う方向でおっかない女だったなあ。素材はいいのにもったいない」

「あっ、てめえ!」

 店の奥から発せられたその声の主を、振り返ったヤンコの三白眼が睨みつける。

「こそこそ隠れてやがって! 設計図レシピの件、おっさんに言ってなかったのかよ!」

「悪い、悪い。そういえば言いそびれてた。リキッドを奢るから許してくれ」

 いつの間にかひょっこりと顔を出したソリオの表情には、そう言いながら悪びれたところが欠片もない。

「司法捜査官が、宇宙港爆発事件・・の捜査でエンデラ入りか。こいつはちょっと不味いかなあ」

 扉に目を向けたソリオが低い声で呟いた台詞は、なおも抗議を続けるヤンコの声に掻き消されて、誰の耳にも届くことはなかった。

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