ジェミニ村の老夫婦ー02(003)


 * * * * * * * * *




 パトラッシュが再び1匹だけ部屋に残されて数時間後。今日の仕事を全て終えた召使いのマーシャが戻って来た。


 パトラッシュは眠っていたが、水は半分程に減り、魚の身は綺麗になくなっている。マーシャは微笑むと皿を持って部屋を出ていき、数分もせずに戻って来た。


「これだけ食欲があるなら大丈夫ね。奥様によくお礼を言うんだよ」


 マーシャはランプの灯りを消してからエプロンを外し、制服を脱いで寝間着に着替える。


「あんたは、奥様を悲しませないでおくれよ。心優しい奥様のためにも、はやく元気になっておくれ」


 マーシャがそっとパトラッシュの首から背中までを撫でて呟く。しばらくは窓を開けて月明かりを室内に取り込んでいたが、やがて扉を閉め、カーテンをしっかり閉めるとベッドに入った。


 パトラッシュは目が覚め、マーシャの呟きも耳に入っていた。だが、ここでその意味を尋ねる事はできない。


 悲しませるとはどういう事なのか。


 せっかく動物を助けようとしたのに、手当の甲斐なく死んでしまう事だろうか。


 パトラッシュは返事の代わりに起き上がると、マーシャの頬を1度だけ舐め、用意された寝床に戻った。


 5時間程経った頃、パトラッシュは再び起き上がっていた。少し元気も戻っているようだ。


 少しだけ部屋の中を確認して歩きまわった後、出窓で立ち上がって、両開きの扉の中央にあるレバーを上げて押し開く。そこから1メータほど飛び降りると、パトラッシュは庭で用を足した。


「わたくしも若かりし頃は月の光を浴びながら、ご主人様の目を盗んでは走り回ったもので……ああ、語弊がありました。ご主人様の目をくりぬいた訳ではありません。盗みは悪しき行いですからね」


 誰に聞かれた訳でもないのに、パトラッシュは自分の呟きを自分で訂正した。訂正の理由が随分と頓珍漢だが、誰も聞いていないのだからどうしようもない。


 パトラッシュはそれからずいぶんと調子が良くなった足腰で、屋敷を一周散策し始めた。手入れの行き届いた芝生の庭は広く、花壇には黄や赤の花が溢れんばかりに咲いている。夜風も心地よい。


「とても素敵なお屋敷です。ご婦人はさぞ立派な方なのでしょう。旦那様はどうやら猫嫌いなようですが」


 しばらく散策した後、パトラッシュがそろそろ部屋に戻らなければと踵を返した時、ふと何者かの気配を感じた。黒づくめで黒い手袋をしているが、男性のようだ。


 パトラッシュに気付いていないのか、男はそっと家の裏側に回っていく。


「物取り……ですね、まずいです。わたくし窓を開けたまま出てきてしまいました」


 パトラッシュは茂みに隠れながら、男より先に部屋に戻ろうと急いで走る。老齢のパトラッシュの「走る」はそれ程速くないものの、物音を立てずに動く事には長けている。


 窓まで1メータ跳び上がるのには1度失敗したものの、2度目には成功し、パトラッシュは急いで窓を閉め、レバーを押し下げた。


 パトラッシュが出窓からそっと外の様子を見ていると、男はマーシャの部屋の隣まで来ていた。パトラッシュが睨みを利かせて座っていたせいか、男は驚いた顔をしたものの、何もせず去って行った。


「どうしましょう。怪しい奴がいる事をお伝えしなくては」


 時計を見ると、まだ夜中の3時。人族が起きる時間ではない。パトラッシュは助けて貰った恩を返さねばと、2本足で立ち上がって部屋の扉を開け、廊下へと出た。


 耳を澄まし、目を凝らしていると、ふいに廊下の空気が動く。


 どこかの部屋の窓が開いたのだ。


「まずいです、何者かが入って来たようですね」


 その部屋が何処かを探っていると、それは廊下の突き当りを右に曲がった場所にある部屋だった。中からはヒソヒソと声が聞こえる。


 この家の主である「旦那様」の書斎なのだが、パトラッシュはそれを知らない。それどころか「旦那様」の顔も声も知らないのだ。


「困りました……マーシャ様を起こした方がいいのでしょうか。いや、他人様のご家庭の事情にあまり深入りしては……ああ、でも本当に物取りだった時、褒美として猫嫌いの旦那様もわたくしを受け入れてくれる可能性が」


 パトラッシュは廊下の突き当りから顔だけ出して、扉の様子を伺う。まだ声がしているという事は、窓から逃げてはいないという事だ。


「……お外で待ち構えて、ひと鳴きするのもいいかもしれませんね」


 パトラッシュは我ながら良い案が浮かんだと思い、そっとマーシャの部屋へと引き返そうとする。その時、パトラッシュの耳にはハッキリと会話の内容が聞こえてきた。


『傷んでない1匹丸ごとの熊の毛皮だぜ? 魔物ならともかく、この国じゃ熊狩りは密猟扱いなんだ。こっちも危ない橋渡ってんだよ旦那、値切りはお断りだね』


『しかし、頭部の剥製付きとはいえ、1頭分で40万ゴールド(大陸通貨の単位。表記:G)とは』


『嫌ならいいんだ。俺はあんたに売らなくても困らない』


『分かった。しかし本当なのだな? 捕らえた姿の写真だけ立派でも、実際に届くものが子熊やキツネでは困る。捕えてあるのなら見せてくれ。こちらとしても、40万Gは決して安い金ではない』


『用心深い爺さんだ。仕方ねえ、町の外の森の中に檻がある。来るのはあんた1人だ』


 パトラッシュは会話の内容から、先ほどの男がこの家の主人と話しているのだと理解した。つまり扉の向こうは密猟した動物の毛皮の、密売の現場という事だ。


「この事をご婦人はご存じなのでしょうか。やはりマーシャ様を起こし、お伝えしなければ。使い魔よ正しくあれと言うではありませんか。ああ、でもわたくし今は使われていないので……いや、正しくありましょう」


 パトラッシュは意を決し、マーシャの部屋に戻るとベッドにギリギリ飛び乗った。その衝撃でマーシャは小さく唸ると、目をこすって上半身を起こす。


「あら、猫ちゃん。どうしたのこんな夜中に」


 小声で話しかけるマーシャの頬を1回舐め、パトラッシュはベッドから降りる。そしてマーシャがその動きを見守る先で、少しだけ開いた部屋の扉から出ていった。


「何で扉が? まさか、自分で開けたのかしら! あーどうしましょう、旦那様に見つかりでもしたら……!」


 マーシャは部屋着のまま飛び起き、靴もスリッパも履かずに慌ててパトラッシュを追いかける。パトラッシュは主人の部屋へと曲がる突き当りに座り、じっとマーシャを見つめていた。


「そっちは駄目よ、いい子だからこっちに!」


 マーシャはそう口の動きだけでパトラッシュに伝える。そしてパトラッシュにそっと近づいた時、主人の部屋から聞こえる話し声に気付いた。


『分かった、40万Gでいい。金は明日の昼に、流石に今この場では持ち合わせがない』


『10万Gか……これは前金として受け取る。あんたの家庭の事なんか知ったこっちゃないが、客が減るのは困る。奥さんへの上手い言い訳でも考えといてくれ』


『金の管理は俺がしている、周辺の町の権力者からの贈り物と言えば信じる女だ。あいつには気づかれていないさ』


『そうかい。それはそうと、いつの間に猫を飼い始めたんだ?』


 男の声がした瞬間、マーシャがパトラッシュを抱く腕に力が入った。物取りと勘違いしたパトラッシュが部屋に入れさせまいと威嚇していたため、男に知られたのだ。


『猫、だと?』


『大きくて白い毛のふさふさした灰色交じりの猫だよ。どこの部屋で見たんだっけか……毛皮にするなら見栄えしそうだ』


『あいつ、俺に黙って猫を拾ったか。まあいい、適当に毒でも食わせて剥製にしてやる。そうすればいつでも一緒にいられて喜ぶだろう』


『ははっ、悪いお人だ』


『生き物に興味はない。俺は善意で言っているつもりだ』


 マーシャはパトラッシュをしっかりと抱え、お願い鳴かないでと呟きながら、自室ではなく別の部屋に向かった。廊下に響かない程度の小さいノックをした後、マーシャはそっと扉を押し開ける。


「奥様、奥様」


 マーシャはそっとベッドに寝ている女性を揺り起こす。ゆっくり起きた女性は、マーシャのただ事ではない様子にすぐ覚醒し、ランプの灯りを付けた。

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