第24話 彷徨う心

 晴れ渡っていた空に夕暮れの気配が歩み寄り始め、秋の風が谷に優しく吹いている。


 ここ、静寂の谷と呼び習わされているこの谷は、その名の通り常日頃は自然が織りなす柔らかく優しい音が静かに聴こえる、そんな谷だった。


 そんな静寂の谷も、つい今しがたまでは激しい剣戟や烈風がくうを切り裂き、炎が燃え盛りいかずちが弾ける音が鳴り響いていた。


 だが、今はそれらの音も止み、いつもどおりの優しげな音が聴こえている。

 ただ、いつもと違うのは、風が谷の草木を揺らす音に混じって、声が……一人の女性の声が聴こえていることだ。


 その女性、月の賢者ミリエルがむせび泣く声が、風に乗って谷をゆっくりと渡っている。


 その声は、まるで胸が張り裂け心をえぐり取られ、この世の哀しみと苦しみを全てその身に受けざるを得なかった者が、全世界を恨み糾弾しているかのような、そんな印象を聴く者に与える声だった。


「ミリエル……」

 草地に座り込み、両手を地に着けて泣き続けるミリエルの背に腕をまわして、ユラが呼びかけた。

「あぁぁぁ――――――」 

 なおも泣き続けるミリエル。

「ミリエルさん……」

「……」

 リビもミリエルに寄り添い呼びかけ、シエルは無言でミリエルの背を優しく、そっと撫でた。

「あぁぁぁ――――――」

 ミリエルの泣き声は止まない。


「ミリエル……そろそろ日も暮れるわ。小屋に入りましょう……ね?」

 ユラが限りなく優しい声でミリエルに言った。

「…………………ない」

 ミリエルは首を左右に振りながら、ほとんど聞き取れない声で何かをつぶやいた。


「……なぁに?」

 聞き返すユラ。

「…………かもしれない」

「……?」

「リトが……帰って来るかもしれない……」

「ミリエル……」

「だから……私は待っています……ここで……」

「ミリエル……リトはもう……」

 さすがにユラもその先を続けることができなかった。


「……そうだ……きっとリトはお腹を空かせているはず……何かを作っておかなきゃ……」

 と、急に言い出してミリエルは立ち上がろうとした。

「ミリエルさん……」

 側にいたリビが声をかけ、シエルと共に立ち上がろうとするミリエルを支えようと彼女に手をかけた。


「リビさん、シエルさん……何か簡単なものでも作れないかしら……?私、料理は苦手だったんだけど、リトが作るのを手伝って少しは料理ができるようになったし……うん、きっとリトも喜んでくれる」

 そう言うミリエルの顔は涙で濡れたままだったが、つい今しがたまで慟哭していたとは思えないほど不自然に饒舌で、その目にはどことなく危うい光が宿っていた。


「ミリエル……」

「ユラ様も手伝ってくださいね」

「ミリエル……!」

「スープはユラ様に作ってもらって……私はパンに燻製肉と野菜を挟んで、あ、チーズも入れなきゃ……!」

「ミリエル!」

 ユラはミリエルを正面から見据え、両肩をギュッと握り、いつにない強い口調で言った。


「……!」

 ユラの強い声に反応してビクッと震えたミリエルの目は、なにかに怯える幼い少女のそれだった。

「早く……早くしないと……リトが帰って来る前に……」

 そう言うミリエルの目は焦点が定まっておらず、ユラを見ているようで見えていない、全く別のものを見ているかのようだった。


「ミリエル」

「早く……」

「リトは帰ってこないのよ」

「準備しなきゃ……リトが……」

「ミリエル!」

「帰って……こない……?」

「そうよ」

「それじゃ……」

「……?」

「私が……私が迎えに行かなきゃ……!」

 そう叫ぶと、ミリエルは一瞬の隙をついてユラの手から離れ、谷の中央に向かって走り出した。


「ミリエル!待ちなさい!」

 ユラが制止しようと手を伸ばしたが間に合わなかった。

 だが、いち早くノルがミリエルが走って向かった先に移動し、彼女の前に立ち塞がった。


 ミリエルはにわかに現れたノルをすんでのところで避けて、違う方向に走っていこうとした。

 そのミリエルの手をノルが掴んで引き止めた。

「うっ……痛い……離して」

 弱々しく訴えるミリエル。

「すまんな、ミリエルちゃん………」

 苦渋に満ちた顔でノルが言った。

「離して……行かなきゃ……」

 必死にノルの手から逃れようとするミリエル。


「リトが待ってる……きっと、あの窪地で……リトが私に花を咲かせてくれたあの窪地で……」


 花の窪地はミリエルにとって最も大切な思い出の場所だった。

 きっとリトにとってもそうに違いない。


 リトがミリエルのために花を咲かせてくれた場所。

 リトがミリエルに愛を示してくれた場所。

 リトがミリエルに未来を約束してくれた場所。

 そして、二人が愛を交わした場所。

 それが花の窪地だった。


 必ずそこにリトは帰ってくる、ミリエルはそう信じて疑わなかった。


「離して……ノル様……離して」

「ミリエルちゃん、リトはの……」

 ノルはしっかりとミリエルの腕を掴みながらも、彼女を優しく諭そうとした。

 だが、ノルが話し始めた途端、弱々しかったミリエルの表情がキッと俄かに厳しくなった。


「ノル様の……ノル様のせいでリトは……」

「ミリエルちゃん……」

 哀しみをたたえた困惑顔でノルが答えた。

 そこに、ユラとリビ、シエルもやってきた。


「ノル様がリトに、あんなことを教えたから……リトはぁ!」

 普段のミリエルからは想像もつかない金切り声を上げて、彼女はノルに掴みかかった。

 その表情は憎悪に満ちていた。


「ミリエル、それは違うのよ」

 ユラがミリエルに寄り添いながら言った。

 だが、その声はミリエルには届いていない。

「ノル様があんなことをリトに教えなければリトは、リトは、リトはっ!」

 叫びに合わせるように、ミリエルはか細い拳でノルの胸を弱々しく叩いた。

「返して……!リトを……リトを私に返して!」

 なおもノルの胸を叩き続けるミリエル。


 ノルは黙ってミリエルのされるがままになっている。

「ミリエル、落ち着きましょう……ね?」

 ミリエルの肩に腕をまわして、ユラが優しく語りかけた。


「……返して……返して……」

 段々と弱々しくなりながらも、ノルの胸をたたき続けるミリエル。

「さあ、ミリエル……」

 ユラは、そんなミリエルを刺激しないようにと、ゆっくりと彼女をノルから引き離そうとした。

「……して」

 ミリエルの声は、もうほとんど聞き取れないほどになっていた。

 ノルを叩いていた手も彼の胸に当てたままになっている。


「ユラ様……」

 側にいたリビがユラに声をかけた。

 彼女は手のひらを上に向けており、その手のひらの上には、精霊が仄かに光っていた。

「心にやすらぎをくださる精霊さんです……」

「まあ……」

 ユラが小さい声で驚いた。

「きっとミリエルさんを優しい眠りにいざなってくださると思います……」

「ありがとう……」

「いいえ……」

 ユラもリビも、ミリエルを刺激しないようにと、ひそひそ話のような声で話している。


 ミリエルはノルのチュニックを両手で掴んでうつむいた状態で、小さく何かを呟いていた。

 リビは、そんなミリエルの顔を覗き込むようにして、

「ミリエルさん、見てください」

 と言いながら右掌上みぎてのひらじょうの精霊をミリエルに見せた。

「……?」

 ミリエルはキョトンとした表情で精霊を見た。

「美しいでしょう?精霊さんですよ」


「……きれい」

 小さく囁くように言うミリエル。

 そうして、引き込まれるように精霊を見つめるミリエルの表情が少しずつ和やかになっていった。

「さあ……精霊さんと一緒に少しお休みしましょう……」

 リビが静かに言った。

「……ええ……」

 そう答えるミリエルは、ほぼ目を瞑った状態だった。


 やがて、眠りに入り完全に脱力したミリエルを、ユラが軽々と抱き上げた。

 それを見たリビとシエルが驚いて、

「「ええーーっ!?」」

 と、場にそぐわない大きな声を上げてしまった。

 そんな二人にユラがチラッと視線を向けると、リビとシエルは慌てて両手で口を押さえた。


「普段はこういうことはしないんだけど、今回は特別」

 ユラはそう言いながらリビとシエルにウィンクをすると、ミリエルを抱きかかえてゆっくりと小屋に向かって歩き出した。


 その後、ミリエルは丸一日以上眠り続け、裂け目の戦いの二日後の朝に目覚めると、

「リトを迎えに行く」

 と言ってユラたちを困惑させた。

 なんとかして部屋に止めたものの、そうすると今度は一日中魂が抜けたように、窓辺の椅子に腰掛けて谷を見つめ続ける始末だった。


「ミリエルさん、お食事を……」

 リビとシエルが食事を持ってミリエルの部屋に来ても、

「……」

 ミリエルは無言で首を左右に振るだけだった。


 夜はユラがつきっきりで見ていたが、時折泣き出したり、寝付いたと思ったらうなされたりと、十分な睡眠も取れていないような状態だった。


 そして、裂け目の戦いから三日目、昼近くに目を覚ましたミリエルは、ゆっくりと身体を起こして部屋を見回した。

 睡眠らしい睡眠も取れなかったので頭の中に霧でもかかっているかのような心持ちだった。

 夜にはユラがいてくれたが今は誰もいない。


 隣のベッドにも誰もいない。

(リト……)

 昨日までに比べれば多少気持は落ち着いてきたものの、リトのことを思い出すと涙が溢れてくる。


 コンコン……


 ドアにノックがあった。

「ミリエル、入るわよ」

 ユラの声が聞こえドアが開けられた。

「おはよう、ミリエル」

 穏やかな笑顔と声でユラが挨拶をする。

「おはようございます……ユラ様……」

 ミリエルが答える。


 弱々しいながらも、昨日までとは違いしっかりとした彼女の口調と表情にユラも安堵したようだが、

「今日の調子はどうかしら?」

 と聞くユラには、ミリエルの心の状態をおもんぱかる心遣いが感じられた。


「ええ……少しは……」

 と言いかけたミリエルだったが、その目にじわりと涙が滲み出してきて、言葉に詰まってしまった。

 その様子を見てユラはベッドに歩み寄り、縁に腰掛け、ミリエルの肩にそっと腕を回して静かに語りかけた。

「いいのよ、無理に話をしなくて」

「はい……」

 そう言ってミリエルはユラの胸に額を預け、静かに嗚咽した。

 ユラはミリエルが泣くに任せて、彼女の髪を優しく撫でた。


 二人がそうしているとドアにノックがあり、

「ミリエルさん……」

 とリビが呼びかける声がした。

「どうぞ」

 とミリエルの代わりにユラが答えた。

 扉が開いてリビとシエルが部屋に入ってきた。

「朝食をお持ちしましたよ」

 リビが笑顔で言った。

「ありがとう、リビちゃん」

 ユラが笑顔で返し、

「さあ、ミリエル、リビちゃんとシエルちゃんが朝食を持ってきてくれたわよ」

 ユラが、彼女の胸に顔を埋めているミリエルの顔を覗き込むようにして言った。

「……」

 ミリエルは無言で小さく首を振った。

「もう三日も何も食べていないでしょ?少しでもお腹に入れなさい」

 ユラが優しく諭す。

「でも……」

 ミリエルは顔を上げてシエルが持っているトレーの上の朝食を見て、

「……水を……」

 と、小さく呟いた。

「はい」

 シエルは短く答え、トレーを窓辺のテーブルに置き、水が入った木製のカップを手にした。

 そして、ゆっくりとした動作で、ユラに寄り添っているミリエルの前にカップを差し出した。

「……ありがとう……」

 囁くように礼を言いながら、ミリエルは差し出されたカップを手にして、一口、また一口と水を口にした。

「……美味しい……」

 笑顔とまではいかないものの、表情を和らげてミリエルが言った。


 窓から見える谷は晴れ渡り、陽の光が窓から指しこんで、部屋を明るく照らしている。

 そんな外の様子を見ながらユラがミリエルに、

「外はいいお天気よ。ちょっとだけでも外に出てみましょうか?」

 と、子供に話しかけるような口調で言った。


 水を飲んでいた手を止め、ミリエルは顔を上げて窓の外を見た。

「……外に……」

「ええ、日に当たって体を動かせばお腹も空くわよ、ね?」

「……はい……」

 積極的にという様子は無かったものの、ミリエルの反応を見ると、少なくとも昨日までよりは心が落ち着いてきているように見えた。


「それじゃ、私とシエルもご一緒させてください」

 リビが膝に手を当ててかがみ込むようにしてミリエルの顔を見ながら言った。

 側にいたシエルも”うんうん!“といった様子で大きく頷いている。


「……あ……」

 何かを思い出したようにミリエルが小さく呟いた。

「なぁに?」

 ユラが聞くと、

「……あの……窪地に……花の……」

 ミリエルがゆっくりと言った。

「……」

 ユラは無言でもの思わしげにミリエルを見つめた。

「……花を……花が見たいの」

 そういうミリエルの表情はさみししげではあったが落ち着いてはいるようだった。

 リビとシエルはもの問いたげにユラを見ている。


「大丈夫、ミリエル?あの窪地は……」

ユラが心配そうにミリエルに聞いた。

「……はい……大丈夫です……」

静かに答えるミリエル。

その顔をユラはじっと見つめてから、小さく頷いた。

「それじゃ、リビちゃん、シエルちゃん、ミリエルと一緒に行ってもらえるかしら?」

 そうユラが言うと、リビとシエルの表情がパァッと明るくなった。

「はい、もちろんです!」

 リビが明るく言うと、

「それではお弁当も持っていきましょう!」

 とシエルも元気に答え、その足は早くもドアに向かっていた。


「……」

 部屋を出ていくシエルを無言で目で追うミリエルはかすかに不思議そうな表情を浮かべていた。

その表情には”なぜ窪地のことを知っているの?“という疑問が浮かんでいるようだった。

リビはそれを鋭く察し、

「私達、ノル様から聞いているんですよ、花の窪地のこと」 

 ミリエルの表情を見てシエルが補うように言った。

「ああ……」

 得心がいったのか、ミリエルの顔から不思議そうな表情が消えた。


「それじゃ、私はお留守番をしているからみんなで行ってらっしゃい」

 ユラが言うと、

「ええ、すぐにお出かけの準備をしましょう、ね?ミリエルさん!」

 普段から明るい人柄のリビが殊更明るく元気増々で言った。

「……はい」

 そう答えるミリエルの声は小さかった。

 昨日までに比べると落ち着いてきてはいるようだったが、未だその顔には微笑みと呼べる表情は無かった。


 ユラはそんなミリエルの肩を抱きながら、気遣わしそうに彼女の顔を見つめていた。

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