今度こそは順風満帆に生きてやろうじゃないの

@KKOOKK

第1話『猿も木から落ちる』

『猿も木から落ちる』とはよく言ったものだ。このことわざは、その道にすぐれた者でも時には失敗することがあるということのたとえらしい。同様の意味のことわざで『弘法にも筆の誤り』というものがある。そちらで言い換えても全くもって問題はない。


全くもって問題がない故に、僕はどちらをこの小説の冒頭に掲げようかと少し悩んだ結果、僕のことを一切知らない読者に、少しばかりマイナーな言葉を選ぶことで頭の良さを示したいと思い、辞書のページをペラペラとめくって『上手の手から水が漏れる』をセレクトすることにした。『じょうずのてからみずがもれる』と読むらしい。


ということでこの小説は上手の手から水が漏れるという一言からスタートする。上手の手から水が漏れるという言葉が出てくる以前の文章は僕の心の中でおきた些細な葛藤であるがゆえにこの小説の中には含まないことにしよう、ああそうしよう、そうでなければこれまで考えた時間が無駄になってしまう。さあ、物語の始まりだ、存分に楽しんでいってくれ。


『上手の手から水が漏れる』

どんなに上手な人でも、ときには失敗することがあるというたとえだそうだ。俺はこの人生においてことわざで自分を表現したことないし、これから先、未来永劫することはないと思っていたけれど、いやはや人生とはわからないものだ。人の信念を簡単に捻じ曲げるようなことが起きてしまう。

さて何が起きたのかと言うと……、と、これを説明する前に俺の簡単な情報について整理しておくべきだろう。俺についての事前情報なしにこの話を聞いてもきっと大多数の人は何の感想も抱くことができないだろうから。もし君が誰彼構わず全てを知っている神様のような人間だったら別だけれど。

ということで早速だが俺にまつわるある一つのエピソードを聞いてもらおうか。


俺が高校二年生だった頃、今は何歳かって?そんなのまだ教えられないよ。ミステリアスなキャラクターの方が燃えるだろう、せっかく主人公としてやっていくからにはやっぱり人の好奇心をくすぐっていかないと。えーっと何だったっけ?ああ、そうそう、俺が高校生の頃に起こった事件の話。事件と言っても特にニュースに扱われることもなく、特に周りの人間に噂になることもなく、ただ俺の中だけで処理されたんだけれど。


そろそろ、だらだら話すのが面倒になってきたな、簡潔に言おう。この事件が起こったせいで俺は現実の世界にはいない、存在を認識されなくなったと言った方が正しいかもしれない。とにかく今現在俺はごく普通の人間界には存在していない。


俺がどこに存在しているのかそれを詳細に伝えたいが、如何せん俺にもよくわかっていない。わかっていないことを人に伝えることはできない、普通ならできない。でも俺は……今の俺は普通ではないからそれをすることができる。


ただ新しい概念を説明するのはだいぶ時間がかかってしまうからイメージだけをつけてもらおうと思う。俺は現実の……人間世界に干渉できるような立ち位置にはいないが、現実世界で起こったことを客観的にあくまで傍観者としてみることはできる。そう傍観者だ、やっといい言葉が見つかった。俺はある事件が起こってから傍観者でいることしかできなくなってしまった。悪くはないが、楽しくもなんともない生活である。できるならば抜け出したいとさえ思っている。ではなぜ俺が傍観者になってしまったのかその経緯を説明しよう。


それは俺がいつものように平和的に平穏に登校をしていた時のことである。俺の家から学校まではだいぶ距離があるので自転車や徒歩では通えない。なぜそんな高校を選んだのかといえば俺にとって適切な高さの学力だったとしか言えない。そんなこんなで俺は毎日公共交通機関いわゆる地下鉄を利用して通学をしていた。


ある日、いつものように改札で定期を使い、駅の中に入ろうとしたとき、それは起こった。予定通りならば改札を通るはずだったのに、俺が次の瞬間見たものは一面グレーの世界だった。ただ、その世界にあるものは現実世界と変わらない。しかし色だけが忽然と抜けている。黒と白の濃淡だけで世界が表現されているのだ。俺は最初驚いた、もちろん驚くだろう、誰だって驚く、驚かない方がおかしい。自分の目がおかしくなったんだと最初思った。僕の目は良い方ではなかったし乱視が入っていたからだ、だからどうしたという話だが。


とにもかくにも世界の色が抜けただけで改札を通ることはできた。登校が遅れてしまうのでともかく電車に乗った。そこでやっと一息つき、自分の状況が異常だということに気づいた。もう一度言うが世界の色が見えないのだ。そしてそれだけじゃない、その時点ではもうすでに他者に干渉できなくなっていた。そう、このとき俺は傍観者になったのだ。


なぜそれに気づいたかと言うと、いつも同じ駅で会う友人に、話しかけても、話しかけても、話しかけても、答えが返ってこなくなっていたからだ。そりゃあ最初は、無視をされているのかと思った。だから、俺はそいつの肩を叩いてみた。いや、正確には叩こうとした。案の定と言うか少しは予測していたのだが、俺はそいつの肩を叩くことはできず、ただ俺の手はそいつの体がある部分をすっとすり抜けていった。そこに物質があるにも関わらず、だ。


そうして、俺はたった一人になった。


教室についても誰も俺に気づかない。もちろん明るいキャラだったわけじゃない、どちらかと言うと教室の隅で一人優雅に読書をしているような性格をしていた。だから誰彼彼もが教室についた俺に真っ先に話しかけてくるはずがないのだが、それにしても俺は空気の様に誰にも見つからなかった。


そうして自分のいる状況を確認し終えた時、俺が何を思ったか、それはつまり『最高だ』の一言だ。本当にそれに尽きる。早い話、俺は学校が好きではなかった。ただ客観的に見てしまうと何故かと問いただしたくなるような立ち位置にいた。成績は常にトップだったし、運動もそれなりにできた。学校に良い印象をもたない訳がない。むしろ居心地が良かったはずだ。それに、先生からの印象も格段に、格別に、圧倒的に良かった。なぜなら


入学してからずっと一日も欠かさずに俺はいい子ちゃんの仮面を被って過ごしていたから。


傍から見れば生きやすい人間だった、と思う、傍から見れば。明らかに順風満帆、前途洋々の生活だった。しかしその実、俺は苦しかった、日々を苦しみと戦っていた。人生に彩りがないとか勉強が簡単過ぎるとかそんな傲慢な理由じゃない。他の人より恵まれた一生を送っておいてそんなことを言うほど馬鹿じゃない。


ただ仮面を被って生きていくのが、この上もなく辛かった。


生きやすいと思ってつけた仮面は、確かに俺の生き方を狭めていった。そのおかげで今や学校イチの優等生、いっそ笑えるな。流れる川のように楽に生きていこうと思っていたのに、それのせいで、それがあるから俺は今すぐにでも吐き出したいほど苦しい。


それでもいまさらもう変えられない、たとえ何年かしか生きていなくとも、染みついた……こびりついた仮面は簡単には剥がれ落ちてくれない。もうこれで生きていくしかないのだと、疲れ切ったら自殺するのだとそう思っていたのに。


世界は案外俺の味方をしてくれているのかもな。


さあてまず何をしようか。

せっかく気づかれない存在になれたんだ、今度こそは仮面を破り捨てて自由に、それこそ前途洋々、順風満帆に生きてやろうじゃないの。









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