第32話 原点
原点を忘れた人間は、なんと滑稽で淋しいのだろう。
あの懐かしい場所に帰りたいと、思って帰っても、あの場所は変わりすぎて自分を受け入れてくれる場所なんてなかったけど、いずれ人は生きていれば思い知らされる。
よく人を殴った人の方が、心が痛いと言うが父親を人生で初めて殴ったミタカの心は痛まなかった。
むしろ、哀しかった。
年老いた父親を殴らなければ、母親を壊し、今さら自分や、やっと人生の地獄から這い上がってきた母親をまた壊しにくるような父親の情けない言動がひどく哀しかった。
目の前で突然来た父親に怯え、泣いている痩せ細った母親と安いアパートを見渡したがらミタカは、呆然としていた。
エリとの離婚を考えずに、たえて共に生きた方が良かったのか?
エリと結婚しなければ良かったのか?
憎らしい父親を無理してまで迎え入れた方が良かったのか?
それとも父親が離婚した時に意地でも自分は独りで生きて精神科から退院するまで母親をまてば良かったのか?
ミタカの心に次から次へと自分や他人への疑念や後悔がどっとあふれ出てきて止まらなくなった。
目の前で泣いていた母親が、そっとミタカの頬を細い手で触れた時に初めて自分が涙をながしている事に気がつく。
こんなどん底、何度も味わってきた。
味わってきたのに、心はもうひしゃげ潰れかかっている。
両目からあふれ出る涙が、ミタカのどろどろした気持ちを押し出していく。
目の前の母親も小さな部屋もぼやける。
そんな時、いつも思い出すのが夕日のオレンジ色に染まったリビングで初めて会った10歳のさやかだ。
最初は、自分に血の繋がらない母親と妹が出来ると父親に言われた時は、高校生のミタカは怒りしかわかなかった。
義母のトヨコの最初からミタカにすり寄るような媚を売る言動も新しい家族が出来たと張り切る父親もぞっとするくらい嫌悪した。
どうせトヨコの娘だ。ろくな子供じゃない。さやかに対して最初はそう思っていたミタカだった。
実際、会ったさやかは母親のトヨコとはまるで違う娘だった。
無口で大人しく、だからと言って弱くはない。高校生のミタカが初めて見る10歳の女の子は、想像以上に小さく、少しでも触れたら壊れそうで怖かった。
一緒に住み初めてからまも、ミタカはトヨコとさやかを避けていたが高校から帰ってきたミタカは意をけっして、小学校から帰ってくるさやかをリビングで待っています。
高校はその日は午前授業で、低学年のさやかは午後1時には帰ってくる。
リビングでいくら待ってもさやかは帰って来ない。心配になったミタカは、さやかを探しに行こうかと思ったが、さやかの通う小学校すらミタカは知らなかった。
夕方になり、ますます焦りはつのった。女の子だから危ないめに会っているのではないか?道に迷っているのではないか?どこかで転んでけがをしているのではないか?
それはミタカが今まで感じる初めての感情だった。
ぐるぐると頭を不安が駆け回る時、ドアが開く音がした。
それと同時になぜか、あんなに心配していたさやかに対してミタカはひどく緊張していた。
小さな足音がリビングに入ってくる。
ソファーに座っていたミタカに気がついたのか、その足音が緊張と共にピタリと止まった。
高鳴る鼓動を抑え、出きるだけさやかを怖がらせないようにミタカはさやかを見た。
小さな顔に体、夕日に染まるオレンジ色の細くて長い髪、静かにミタカを見つめる瞳は小さく揺れていた。
「さやかちゃん?佐藤ミタカです。これからよろしくね」
自分でも何を言ったかよく覚えていないが、とりあえずさやかを怯えさせないようにそれだけ言い自分の部屋に戻った。
さやかには気がつかれないよう、一瞬ミタカはさやかを振り返り見た。
小さなさやかは色白で、夕日に染まったオレンジ色の細い髪は柔らく揺れ、幼いながら瞳は静かに情熱を宿していた。
一瞬、目と目が合った気がした。
さやかが、小さく笑っていた。
ミタカかの人生で、何度も何度も地獄が訪れるたびに、あのさやかが原点のようによみがえる。
母親の前で涙を流しながらミタカは静かに呟いた。
「さやかに、さやかに会いたい」
その一言は、窓の外を染める漆黒の夜の闇があっという間に飲み込み消し去っていく。
そんな原点にすら自分はもう戻りたくても戻れないのだ。
殴った父親と同じく自分も原点を忘れ滑稽で淋しい人間だった。
ミタカの足元はミタカを引きずり込むように崩れていった。
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