翠の国編

三十話 翠の国への入り口

 海の旅は特に何事もなく終わった。

 終始リアンがローブに包まって顔すら見せなかったのは流石に気がかりだったが、船酔いをしているわけでもないようだったのでそっとしておいた。ノンは空の旅の時と同様に、海の景色を眺めて楽しげだった。ローブの中から出てこないリアンをつついて蹴られていたのは自業自得である。

 アルゲニブは船尾に座っていた。昨日見た時にはあった顔の鱗が消えているのに気付いて、つい凝視していたら「何か用か」と声をかけてきた。そこから会話を続ければ良かったものを、「いや、何も……」と答えてそこから一切言葉を交わさなかった。……このままではいけない。

 船に乗っている間、ノンとの雑談で時間を潰した。その時、どんな相手でも気楽に話すにはどうしたらいいか聞いてみたが、ノンの説明は感覚的すぎて参考になりそうもなかった。


「明るく笑顔でばーんと行けば大体いけるって!やってみ?」


 ……無理だ!明るく笑顔で、の時点で既にハードルが余裕で潜れる高さだ。まあいい、僕は僕なりのやり方を探るしかないだろう。

 船の上での出来事はその程度だ。アルフェの操船は安定していて、船から落ちるような心配もなかった。

 問題は、翠の国へ着いてから起きたのだ。



「壊されてる……」


 目の前の残骸を前にして、アルフェはつぶやいた。

 今僕らがいるのは、翠の国の最西端、その岬の下の浜辺だ。高い崖の上には、翠の国の広大な森が広がっていることだろう。

 背後には乗ってきた船が座礁している。アルフェによると、満潮になると今いる砂浜は潮水に沈むらしい。その前にここから崖の上へ上がらなければいけないのだが……

 アルフェの見ている残骸は本来、昇降機として使われていたものだった。玄の国が翠の国と今より遥かに険しい対立関係だった頃からあるもので、その時唯一自由に立ち入ることができていた玄の研究施設支部へ行くためのものであった。岬の上という立地のせいで、陸から行くには翠の国を横断しなければならない。それを避けるために造られたのだ。

 翠の国にある研究施設支部、そこが今回の合流地点だ。手筈通りなら、既に残り二人の巡礼者が待っている。


「おかしいな」


 怪訝な様子でアルフェは残骸へと近付く。鉄板や網は無惨に折れ曲がり、おもりは落ち、ワイヤーは切れてぶら下がっている。


「うわぁ、これじゃあ上に行けないじゃん……老朽化で崩れ落ちたのか?」


 がっくりと肩を落として、ノンも残骸へ近寄る。アルフェが否定するように首を振った。


「これは老朽化のせいじゃないね」

「え?けどこれ、錆び付いてて見るからにそんな感じじゃ?」

「ボクは数日前、ここが使えることを確認しに来ているんだ。その時は、錆び付いてはいたけど稼働したし、こんな派手な壊れ方なんてもちろんしていなかった」

「それは」と僕は発言する。「誰かが壊したということか?」

「間違いなく、そうだね」

「自然災害という可能性もあるが」

「ここ、すぐそばが海だしなぁ。魔物も出る時あるだろうし」

「それは無い」


 言い切るということは、何か理由があるのか。そう尋ねようとしたが、後ろから歩いてきたリアンに遮られた。


「魔術の気配がする」

「うん」アルフェが頷く。「残滓がある。何者かが意図的に破壊したんだ」

「一体、何の目的で?」


 誰もその問いに答えることはなく、沈黙が流れる。

 何か嫌な予感がしてきた。これはアルフェの想定から外れた出来事、しかも誰かがそれを意図的に行った可能性がある。つまりはこの先も、何者かによる妨害があるかもしれないということだ。犯人を見つけることができれば別だが。

 そもそも目的は何なのだろう。イデアであれば魔術の痕跡など残るはずもないので、生きた何者かであることは間違いない。アルフェがここを訪れた後に破壊したということは、犯人はアルフェのことを知っているのだろうか。だとすれば、この程度が大した妨害にはならないことは把握しているはずだ。知らなかったとしても、翠の国の住人はわざわざこの忌むべき玄の国の施設がある岬まで来ることはない。この岬は、住人たちにとっては既に触れるべきではない他人の縄張りなのだ。

 それぞれが考え込むようにして、波の音ばかりが流れていた空間を破ったのは、アルゲニブだった。


「それで、どうする。今は犯人探しよりも、どうやって上に行くかだろう」

「どうやってなんて、考える必要は無いよ」アルフェが振り向いて言う。

「……竜化はしないぞ」

「あはは、そういうことじゃないよ。この程度の崖なら、多分みんな登れるでしょって言いたいの」


 僕らは崖を見上げる。三十メートル以上はありそうだが、たしかに魔術を使えば飛び上がることはできる高さだ。特化討伐部隊の軍人は、身体能力を強化、補強する魔術を一番始めに叩き込まれる。

 魔術が不得意な僕でも、これについては人並み以上のレベルに達しているくらいである。一度使うだけなら魔力の消費も大したものじゃない。


「それじゃあ、あたしから行くけど」とリアンが手を挙げた。

「はい、どうぞ」とアルフェが先を譲る。

「一応安全を確認して、声をかけるから」


 そう告げて、リアンは軽く助走をつけて砂を蹴った。次の瞬間には、彼女の体は崖の上へと飛び上がり、その地へ降り立った。相変わらず、魔術を使ってもその陣は見せない。

 少しの間、リアンの姿は全く見えなくなり、そして数分も経たずに崖側から顔を覗かせた。腕を振って合図を送っている。


「ボクが最後に上がるから、先に行っていいよ」


 そう言ってアルフェは崖に背を向け海へ歩いて行く。どこに行く気かと思い僕は呼びかけた。


「アルフェ?」

「ああ、ちょっと船をね。やっぱりここに置いたままにするのはやめようと思って。しまっておくことにする」

「しまうって……収納魔術で?」

「うん、本当はあんまり使いたくないんだけどね。容量が大きいせいでしまうと取り出す時苦労するんだ。他にも色々放り込んでるから。でも、船なら大きさがあるし、どこにあるか分からなくなったりはしないかな」


 色々放り込んだうえで、この船をしまえる程の容量を持った収納魔術。一体中身はどうなっているのだろうか?収納魔術自体をろくに使えない者にとっては想像もつかないことだ。


「倫、先に行けよ」


 ノンに促されて、僕はうなずいた。魔術陣を展開させて、リアンよりも少し長めの助走をつけて地面から飛び立つ。

 崖の上よりも高い位置まで到達したとき、翠の国の深い森が視界に広がった。見渡す限りその陸地のほとんどが、緑の葉で覆われている。ところどころ見える木造の道は、樹上橋だろう。

 芝生の上に降り立つと、より一層樹々の香りが強くなる。どことなく懐かしい気分になるのは、幼少に田舎の村で暮らしてきたからだろうか。

 僕に続いて、アルゲニブが崖を駆け上がり、ノンとアルフェが同時に上がってくる。昇降機が無くとも、何も問題は無かった。


「ここから研究所まではすぐだよ」


 アルフェが歩き出し、僕たちはそれに続いた。

 たくさんの気配が潜む森の中から、こちらを見ている者がいることに、僕は気付いていなかった。

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