二十八話 海に住む者

「ここは風が涼しくて気持ち良いね。建物が廃墟同然なのは、マイナスポイントだけど」


 蒼の国へ到着した後、倫たちを宿屋まで見送り、アルフェはアルゲニブと共に彼女の住処へ来ていた。

 蒼の国の半分を囲む海、その中でも竜神の聖域と呼ばれる海域の浅瀬に、アルゲニブの住む家は建っている。竜神信仰が今よりも盛んだった頃にあった建物で、築数百年は経とうという代物だ。かつては信仰の儀式のために使われていたが、ある時を境に誰も近寄らなくなった。時が経つにつれ、それなりに豪勢だったはずの外装や装飾は無惨に剥がれ落ち、街から伸びていた橋もろくに修繕されず、アルフェの言う通りの廃墟と化していた。とはいえ、元は頑丈に造られていたおかげか、雨風のみならず多少の荒波さえ凌ぐことには困らない。

 アルゲニブは大きな木のテーブルの上に置かれていた燭台の蝋燭に息を吹きかける。息と共に青い炎が吐き出され、蝋燭に火が灯った。月光だけが照らしていた薄暗い室内が蝋燭に照らされる。ほつれた古い絨毯の上を歩いて、アルゲニブは椅子に腰掛けた。


「早く済ませてくれ」


 窓辺に立っていたアルフェは、アルゲニブの方を振り返る。窓の縁にもたれかかって、急ごうという様子は微塵もない。


「せっかちだなぁ、ちょっとは世間話に付き合ってよ」

「今さら、お前と仲良くお喋りする必要があるのか?」

「冷たいんだから、もう」


 二人の間にやりとり通りの剣呑な雰囲気は無い。しかし友人同士のような気楽な空気というわけでもなく、お互いの態度にお互いが慣れたというだけのことだった。

 アルフェは窓から離れて、アルゲニブのもとへ歩み寄る。


「じゃあ、一応診ておくね」


 座っているアルゲニブと立ったままのアルフェは、ちょうど同じくらいの高さで顔を向き合える。アルゲニブの顔を覗き込むように、少しだけアルフェは屈む。


「触るよ」


 アルフェはそう予告して、アルゲニブの青い鱗が浮かぶ右頬を指で撫ぜるように触れた。左側は青い髪で覆われて隠されているが、そこを見ようとはしない。ふむふむと表面を触れながら目を閉じて、所見を述べ始める。


「うーん、とうとうこっちにも広がってきたか。って言っても、既にボクが想定していた以上にキミは長く耐えてるけどね。当初の想定通りなら、もっと身体中に鱗が生え出しててもおかしくないと思うし」

「お前の感想はいい。見たままを言え」

「そう言われてもね。想定通りならとっくに事切れているくらいだもん。でもこの様子を見る限り、今日明日にでも限界が来るってわけでもなさそう。余裕があるとは言えないけど」

「ふん」わずかに苛つきが混じった声でアルゲニブは言い返す。「私を竜化させてお前たちを運ばせたくせに何を言うんだ」

「あれは仕方ないでしょ?キミがあんなところで魔物を倒したせいで砂河の流れが止まっちゃって、舟が使えなくなったんだから」それに、とアルフェは付け加える。「ボクは街で合流すると言っておいたはずだし、魔物退治の依頼を受けていたなんて聞いてないよ」

「……昨日、いきなり頼まれた」

「頼まれれば、余裕が無くても竜化するんだ」

「……あの程度なら、時間もかからない。実際、すぐに殺せた」

「ふっ……長生きできそうだね」

「おかげさまで、既に充分長生きしている」


 いつものどうでもいいやりとりだ、とアルゲニブは思う。この程度で目くじらを立てるような初々しさはもう完全に失われている。

 アルフェも本気で責めているわけではない。いくら力を抑えている状態とはいえ、あの時上空にいたアルゲニブの気配に気付けないような鈍感ではない。砂河でアルフェが魔物に対して一切手を出さなかったのは、アルゲニブの存在を見越してのことだった。同乗した商人スティンがアルゲニブの顔見知りであることは、アルフェも知っていた。

 砂漠の商人は、商売ができるなら相手は誰でも歓迎する。街では忌み嫌われ避けられているアルゲニブも、砂漠の商人にとってはただのお客であり取引相手だ。アルゲニブは主に魔石生成と魔物退治を対価に、商人たちと取引をしていた。今回の件も、その取引のうちの一つだったのだ。


「明日から、この街を離れるんだからね」

「わかっている。それをスティンに告げたせいで、急遽魔物退治を頼まれたようなものだ。お前の統べる軍が働かないせいでもあるな」

「あはは、前にも言ったと思うけど、砂漠は管轄外だよ。あくまでウチが派遣しているのは、人の多い街やある程度の規模の村。砂漠の中に街は無い……少なくとも、地図上ではそうなっているし、誰もがそう認識してる」

「……砂漠のことは知らん。それより、この身体のことだ」


 アルフェは触れていた頬の鱗から指を離す。腕を組んで考えるような素振りをしながら、アルゲニブの赤い瞳に視線を向ける。


「自分としてはどうなの?ボクがどうこう判断するより、この先はキミの意志次第だと思うよ」

「……いつもの応急処置はできないのか」

「効果があるか疑問だけど、やっておく?」


 アルゲニブがうなずいたのを確認して、アルフェは再び頬へと手を伸ばす。指先に神経を集中させて、鱗に触れる。すると、青い鱗は肌に吸い込まれるようにして消えていった。

「いつもの応急処置」を終えて、アルフェは人の肌に戻ったその頬を軽くひと撫でして手を離す。


「ちょっとはマシになったかな」

「ならいい」


 アルゲニブは素っ気なく言って、自分の手で確かめるように己の頬に触れた。浮き出ていた鱗はもう無いが、竜化の力を使えばまた体を蝕んでいくだろう。アルフェは想定よりも耐えていると言うが、それが単に見込みが甘いだけだったとは思えなかった。


「それで、結局私はあとどれくらいなんだ」

「それはキミ自身が決めることだよ。それともボクに決めてほしいのかな?」

「茶化すのはやめろ」

「茶化してなんかいない。言ったじゃないか、ボクの想定を超えているんだ。だからキミが決めればいい」


 どうやらアルフェは本気で言っているらしい。こうなっては、アルゲニブがどんなに食い下がろうとその答えを覆すことはないだろう。

 諦めたように溜め息を吐いて、アルゲニブは目の前の少年を睨み付ける。


「こわい顔」と言うアルフェには、怖がっている様子は全くない。「もう少し嬉しそうにすればいいのに。長年の願いが叶うんだから」

「お前は嬉しそうだな」

「嬉しいよ。ずっとずっと、この時のためにやってきたことなんだから。アルゲニブは嬉しくないの?」

「……私は、私のことを打ち明けるまでどうする気もない。最期まで言わずにおくことも考えている」

「最期、ね……まぁ、いいよ。それは好きにしたらいい。キミの目的は、旅が始まった時点で果たせられているようなものだしね」


 アルフェはアルゲニブに背を向けて、再び窓辺へ寄り添った。暗い夜空と明るい街並みのコントラストが瞳に映る。

 その後ろ姿に、アルゲニブは寂寥感を覚えた。アルフェはいつも飄々としていて、誰にもその本心を見せることはない。少なくとも、アルゲニブにとってはそうだ。長い付き合いでも、その心の裡を覗くことはできていない。その一方で嘘や下手な気遣いもしないので、ますます分からない。

 それでも、理由の分からない寂しさや怒りのようなものがそこにあることだけは、アルゲニブは知っていた。


「星の無い夜空は、本当に寂しいものだね」


 寂しいのは夜空のせいなんかじゃないだろう。アルゲニブは言葉にはしなかったが、視線には気付かれてしまったようだ。


「何か言いたいことでも?」

「……明日も早くに出るんだろう。いつまでここにいるのかと思ってな」

「はいはい、じゃあもう行くよ。叩き起こしに来るから、さっさと寝ておいて」


 それじゃあね、と言ってアルフェは窓から出ていった。ここは二階だが、飛び降りて怪我をするなどという常識的な心配は彼に必要ない。

 アルゲニブは燭台の灯りを消すために立ち上がる。ふと窓の外を見て、崩れた桟橋の上を歩くアルフェの姿を視界に捉える。


「……私の願いは叶っても、お前の願いは本当に叶うものなのか……アルフェラッツ」


 届くはずもない、届けるつもりもないアルゲニブの問いかけは、夜の闇へと溶けていった。


 橋の上を歩いたり跳んだりしながら、アルフェは明日のことを考えていた。

それだけなのに、何故だか楽しさが湧き上がる。日が経つことに対して前向きな感情を持てている自分に驚いた。

 もうすぐ願いが叶う。それが今の自分を突き動かしている。いや、今どころか遥か昔から、それだけがアルフェの原動力だった。

 お祈りでもしたいくらいだ。手を重ね合わせて、指を絡めて……

 アルフェは己の手のひらを見つめ、お祈りはやめておいた。なんだか自分がそれをやると、神聖とは真逆のものが滲み出てしまいそうだった。

 かわりに両手を握りしめて、力を込める。


「やっと叶う。ようやく終わらせることができるんだ」


 アルフェは夜空を見上げて、微笑んだ。


「この世界を」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る