二十六話 海沿いの街

「あー、疲れた……」


 ボフッと音を立てて、勢いよくベッドの上に飛び込んだのはリアンだ。軍帽を脱いだ彼女の髪はいつも以上に癖毛が暴走している。きっと風に煽られすぎたせいだ。

 ここは蒼の国の一角にある宿屋の部屋。部屋の外も内も、白い壁に囲まれている。部屋のあちこちにある青い家具が、白い空間の中でより一層その青さを際立たせていた。壁にかけられたタペストリーには貝殻や魚の骨のようなものが組み込まれていたり、部屋に置かれた家具や食器類に金属製のものが一切無かったりと、いかにも蒼の国らしい。

 僕は手にしたカップに口をつけ、コーヒーを飲む。普段飲みつけているものとは違う味で新鮮だ。宿屋の部屋に備え付けられたテーブルの上にカップを置いた。


「お疲れ。あのまま砂漠の真ん中で立ち往生するようなことにならなくて良かったな」

「そうね。あんなやり方で砂漠を越えることになるとは思わなかったけど」


 リアンの言う「あんなやり方」について、僕は思い起こす。


 砂河で起きた魔物とドラゴンと僕たちの三つ巴の戦いは、砂河の流れを堰き止めた。実際には三つ巴ではなく、ドラゴンはアルフェの言う通り僕たちの敵ではなかったのだが、アルフェ自身もまさかあの場で会うことになるとは思っていなかったようだ。

 あのアルゲニブという青い髪の女は、僕らの舟に同乗したスティンからの頼みで、あの魔物を倒すために来ていたらしい。僕がドラゴンに向けた銃をスティンに押さえられたのは、ドラゴンがアルゲニブの変身した姿であることを分かっていたから、ということだ。砂河舟を利用する者を頻繁に狙う魔物だから、スティンは囮になるために舟に乗ったのだというが……何も言わずに僕らを同行させたのはいかがなものか。人の気配が多い方が、魔物を誘き寄せるにはより役立つことは間違いないが、一応、軍人であることを明かさず一般人の体で行動しているというのに。それとも、あの商人には僕らが戦いに慣れていることを見抜かれていたのか。


「皆さんを巻き込んでしまって申し訳ないですね。報酬はアルゲニブさんだけでなく、皆さんにも支払わせていただきますよ」


 臆面もなくスティンはそう言った。そうして支払われた報酬を見て、些か僕は安堵した。元々この旅において必要な費用はアルフェが用意していたのだが、なんとなくそれに頼り切ることに対して少し抵抗があったのだ。個人的な旅行でないことは分かっている。僕個人の面倒な心情だ。リアンやノンは多分気にしていないだろう。

 問題はそこからの移動方法だった。魔物を片付けるのには時間がかかるだろうし、それ以前に砂河の流れを再び戻すことができても、片方の舟は半壊してしまっていた。また砂漠を歩くのか、と途方に暮れた顔をし始めたノンが少し哀れだ。リアンはマントを着直して、半壊した舟の縁に座って休んでいる。


「心配いらないよ」


 そう言ったのはアルフェだった。彼なら、あの巨体の魔物を瞬時に片付けることも、舟を直すことも、魔術を使えば容易いであろうことは間違いない。


「アルゲニブ、こっちに来て」


 アルフェは魔物の死骸の上で佇んでいたアルゲニブを手招きする。青い髪を風になびかせながらこちらへ歩いてくる姿は、やはり人間とは違う異様な雰囲気を纏わせている。

 アルゲニブは無言でアルフェを見下ろした。アルフェは見上げてにっこりと笑った。


「変身して。ボクたちを蒼の国まで運んでほしいんだ」


 「え?」と呆けたような声を出したのはノンだったか、それとも僕か。とにかく誰もがアルフェの言葉を予想していなかったのは確かだ。リアンでさえ、帽子の下で目を瞠っていた。

 アルゲニブは少しの間その有無を言わせない笑顔を見つめて–––というよりは若干睨んでいるように見えたが–––僅かに首を縦に振った。そして勢いをつけて砂を蹴り、上空に飛び上がる。光を放った次の瞬間には、あの青いドラゴンが僕たちの真上で滞空していた。

 ドラゴンは広げた翼を畳み、砂河の上に足を下ろした。振動と風で足元がふらつく。アルフェは遠慮なくドラゴンの背へと登り、僕らを見下ろして手を振る。


「さ、みんなも背に乗って」


 そうして僕たちは空の旅を楽しむことになったのだった。



「せめて鞍が欲しかった」


 リアンの言う通りだ。ドラゴンに触れることさえ初めての経験、騎乗なんてもってのほかだったので、背に掴まる手の力は必要以上のものになっていた。しかも僕の後ろに座っていたリアンが僕の腹に手を回してつかまっていたから尚更だ。手袋越しに触れる鱗は硬く、少しざらついていて滑ることは無かったが、降りる頃には手も足も痺れていた。加減が分からず力み過ぎたせいである。


「思っていたよりも安定した飛び方だったから、落ちずに済んだが……もしあれが野生のドラゴンだったりしたら、そうはいかなかっただろうな」

「アルゲニブが気を遣ってくれていたのは間違いないでしょ。ノンなんて、完全にはしゃいじゃってたけど、落ちそうになんて全くなってなかったし」


 たしかにそうだ。竜化したアルゲニブの背に乗ったノンは砂漠の暑さなど忘れてしまったように大喜びだった。リアンの後ろにいた彼は何らかの建造物や海やその他諸々を見つけるたびに「お前らも景色見てみろよ!」と声をかけてきていたが、リアンはともかく僕には景色を楽しむ余裕は無かった。

 動物等の騎乗についてほんの少したりとも心得が無いせいでもある。教育課程で乗馬を授業に組み込んでいる学校もあるそうだが、軍学校では身一つで実戦を乗り切るための術を叩き込むことに注力されていたので、残念ながら乗馬の経験も無かった。趣味や家の習い事で経験を積む者もいるだろうが、僕にはそういう理由も持っていなかったのだ。


「たしか……ノンは昔、乗馬を習っていたんじゃなかったか?」


 ノンは家での習い事の一環としてある程度の乗馬を経験していた。それが今回活きたのだろうか。

 とはいえ、まさか彼もドラゴンに騎乗するとは思っていなかっただろう。飛行する大型の生物で人が手懐けることができるのは、精々ドラゴンの下位種であるワイバーンくらいだが、既にドラゴンやワイバーンを含めた大型の竜種族は絶滅危惧種だ。ごく一部の地域でしかお目にかかれない。


「馬とはかなり感触が違うと思うけど……必要な身体能力は似たようなものかもね」

「少なくとも、乗馬の経験すら無い僕は落ちないようにするだけで精一杯だったぞ。お前が僕につかまるから余計に力が入ってしまったし」

「何言ってんの。倫が落ちないようにつかまえててあげたんだけど」

「えぇ……?」


 そういうつかまり方だっただろうか、あれは。僕は部屋にあるテーブルと同じ木製の椅子に腰掛けて、リアンを疑心たっぷりの目で見る。


「あたしはドラゴンに乗るの、初めてじゃないし」

「はぁ……」嘘だ、と思うのに、リアンが言うと本当のように聞こえる。

「何?」


 僕の溜息とも返事ともつかない相槌に、リアンは不満げに目を細めた。なんか文句あるの、とその後に続くかと思いきや、リアンは体を起こしてベッドの縁に腰掛け、髪を手櫛で整えてから軍帽を被った。


「ノンはどこ?」

「あいつは多分、街の中を散策しているはずだ」

「へえ、元気だね」


 そう、元気だ。疲れているはずなのだが。それでも好奇心の方が勝ったらしく、蒼の国の観光を楽しんでいる。翌日にはここを出ていかなければならないのだから、遊びたければ今しかない。僕とリアンにも付き合ってほしいようだったが、僕は宿で一息吐きたかった。リアンは口では「疲れた」と言うが、どちらかといえば僕を護衛するという本来の任務を果たすために宿へ来たのだろう。

 もう一方の護衛対象ことアルフェは、僕たちとは別行動である。遅くとも明日の出発までには宿屋に戻るから、と告げて別れた。

 アルゲニブとは会話をしていない。彼女から何かを話す素振りを見せないし、なんとも近寄り難い風貌も相まってまともに目を合わせてすらいない。……僕はこれからアルゲニブともしばらく共に行動することになるはずなのだが、こんなことでいいのか。

 ノンは蒼の国に到着した直後、人の姿に戻ったアルゲニブにお礼と握手をしていた。僕もお前みたいな気さくさが欲しい……と思うものの、これは単に僕が尻込みをしているだけだ。アルゲニブはノンの行動を拒絶したわけでもなく、「ああ」という短い返事を口にした程度には他者との交流をする気はあるらしいので、案外難しいことでもない、かもしれない。

 アルフェは、なんとなくアルゲニブに対して雑というか、僕らに対して発揮される丁寧さと比べるとぞんざいに感じる。おそらく悪い意味でなく。


「じゃあ、行こうか」


 リアンが立ち上がった。準備運動のように背伸びをしている。


「街に行くのか?」


 窓の外の空はとっくに夜の帳が下りて、濃紺の中に月が輝いている。その下にある街並みも月に負けじと光を放ち、かすかに喧騒も聞こえていた。


「ノンと合流して、ご飯」

「……さっき、下の食堂で食べただろ?」

「あんな一般的な量で足りると思うの」


 リアンにしては随分少ないと思ったが、他の宿泊客の取り分を考慮していたようだ。それでも一般的なラインから若干はみ出るくらいには食べていたような気がする……多分。ダメだ。僕も感覚が麻痺している。大皿いくつで一人前だ?

 リアンが仁王立ちで僕の横に立つ。


「金ならある」何故か悪者のセリフに聞こえる。

「思いがけない報酬のおかげでな」

「そう、つまりこれはプラスアルファ。好きにしていいってアルフェも言ったし」

「ああ」カップに口をつける。「……できればコーヒーの美味い店がいいな」

「ノンが見つけてるかもね」

「じゃあ……行くか」


 うなずいたリアンが扉に向かって歩いていく。僕は空になったコーヒーカップを置いて、その背を追った。

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