見えないもの。見えるもの~西野 宗介~

「今までありがとうございました。西野さんも、絵を応援してくださってありがとうございます。これからも頑張って描き続けます」

宇佐美と別れて店に戻ると、ちょうどマキちゃんが玄関でお別れの挨拶をしているところだった。

「また、戻って来ますから。ね、みーこちゃん」

みーこちゃんは「はいっ」と笑顔を見せると、マキちゃんから目を逸らすように俯いてしまう。

「マキさんならきっと大丈夫。今日で最後ですから、クッキーと、パウンドケーキも入れておきました」

美鈴さんは、いつもより大きめのラッピングを施した可愛いリボンのついたお土産を彼女の手に握らせた。

「わぁ、ありがとうございます。あんまり居るとまた別れづらくなるから行きますね。じゃあ、また」

深々と頭を下げたマキちゃんは、帰って行った。

そんな店の向かいでは、着々と解体作業が行われ、建物が壊れる音と共に作業員が指示を出す大きな声が、路地裏に響き渡っていた。


マキちゃんが帰って、暫く店内で本を読んでいた。いや、読んでいたと言っても、全く内容は頭に入ってこない。

注文したバナナ多めのミックスジュースをストローで混ぜる。

一口吸うと、バナナの果肉がとろりと舌に広がる。

ここに来て、一番最初に頼んだのがこのミックスジュースだ。

美鈴さんが、バナナ多めにして作ってくれたのを飲み、ひとたび虜になった。

丁度かかっていた軽快なテンポの歌が終わり、やがて次の歌が流れる。

木製家具の柔らかい黄白色の作り出す柔らかなこの店の雰囲気に、自然と溶け込むボサノバのチコさんの歌声。

窓枠の向こうで、風に枝葉を揺らすポプラ。

いつしか、この店に休みの度に足を運ぶのが当たり前になり、明るく働き者のみーこちゃんの笑顔に迎え入れられるのが、日常の一部となっていた。

字を目で追うだけで、もはや頭の理解が追い付かない小説を閉じて、テーブルに伏せる。

美鈴さんは、キッチンの小さな小窓に肘をついて外を……ポプラから差し込む木漏れ日に目を細めていた。


次第に陽が傾く。太陽の光が色濃くなってきた頃、みーこちゃんがアキを連れて散歩に行った。

静かな店内には僕と美鈴さんだけとなった。


どう話を切り出そう。

美鈴さんが人間じゃないなんて宇佐美から聞いたけど、そんな直球で聞くのも中々難しい。

最後の一口になったバナナジュースのグラスを両手で包み込む。

氷が溶けだし、少しづつ嵩だけが増えていく。

「西野さん、おかわりしますか?あぁ、でも体が冷えてしまうから、温かいものが良いでしょうか」

美鈴さんがお盆を持って、テーブルの傍へとやって来た。

「あ、いえ……」

宇佐美の言葉が脳裏に蘇る。

『頑張ってよ。私も、頑張るからさ』

――僕はここに来てから、励まされてばかりだ。宇佐美にも、みーこちゃんにも、美鈴さんにも……

店の外から、何かが割れる大きな音が鳴り響いてくる。

美鈴さんはお盆を胸に抱えたまま玄関の方に目を向け、諦めともとれるような表情を浮かべていた。

「そういえば、このポプラの木を役場の人たちが見てたって言ってましたね」

そう言うと、美鈴さんは僕の向かいの席に腰を下ろしてお盆をテーブルに置いた。

「切られてしまうみたいですよ。あの話を聞いた後、みーこちゃんが商店街の人たちに聞いて回っていたみたいですから、事実なのでしょう」

小さく、ため息を漏らす。

どうやら、向かいの四軒を取り壊して住宅を建て、このポプラを切って公園にしようとしているらしい。

「公園って……ここにはこのれんげ草があるじゃないですか。木を切った所で、公園なんて――」

「ここは、何もありませんよ」

美鈴さんが、窓の向こうに目を向けた。

夕方の路地裏商店街には、母親と買い物に来た五歳くらいの男の子が、肉屋のショーケースを指さして、嬉しそうに何かを言っていた。

美鈴さんは、そんな何気ない日常の光景を幸せそうに見つめている。


意味の解らない言葉に、思わず言葉が出なかった。

「何もないって……いやいや、何言って――」

「ここは空き地です。ここを必要としていない人たちから見たら、何もないがらんとした空き地にポプラが立っている。ただそれだけの場所なんですよ」

美鈴さんは、隠すつもりもないようにさらりと言う。

「あの……じゃあ、美鈴さんが人間じゃないっていうのは本当なんですか」

あり得ない。

宇佐美の言葉だから嘘な訳は無いと思ってはいたが、美鈴さんが人間でないだけでなく、この場所までもが実在しない場所だなんて、到底すぐには理解できない。

「えぇ。私は月夜神社の参道にある小さな祠に住んでいた者。人間が言う所の、妖怪。あやかし。そのような者です」

カーテンがふわりとはためく。

窓の下に置いたパキラが艶やかな緑の葉を揺らしている。

「力の弱っていた私は、まだ人々が多く霊力も強かったあの祠のお陰で何とかこの身を保っていました。ですが、やがて神社に神様がいらっしゃらなくなってから、参拝する方もいなくなった。再び消えそうになっていた私は、ふらりとこのポプラまでやってきたのです。この木もまた、霊力の強い木だった。私がどうしてこんなにも消えまいとしていたか……」

すぅっとゆっくり息を吸い込み、静かに吐く。

美鈴さんの白い頬が、髪が、射し込む夕日で黄金色にきらめいていた。


「当時の私を唯一見えた人間がいました。まだ幼い女の子。名前もわからないけれど。字の読み書きも出来ない、自分は実子だけど養女である妹たちを親が贔屓にして、私はいつも家の事ばかりだと言っていました。学校にも行かせて貰えない。ただの使用人みたいなものだって。居場所が無いって。でも、その一度きり、その子は来なくなった。その日は抜け出してきたと言っていたから、来られなくなったのでしょう。私を怖がりもせず、人間の友人のように接してくれた。話してくれた。とても嬉しかったんです。だから……」


その女の子。その話を聞いてすぐにそれが誰の事かピンときた。

「だから、私はいつかその子がまた来てくれた時、居場所になれるように。あの祠にいては私は消えるしかなかったから、このポプラの木の力を借りて、そんな場所を作ろうって思ったんです」

美鈴さんは、寂し気に微笑んだ。

だけど、彼女は来なかったと。ポプラが切られてしまっては、もうこの店も維持できない。だけど、人間の世界での事に抗うつもりも無いのだと言う。

「今までありがとうございました。西野さんの悩み、解決できなくてごめんなさい」

「悩み?」

どうやらこのカフェは、その人の持つ悩みや苦しみが和らいだり解決された時、見えなくなるらしい。

だから、前回来た時にみーこちゃんが少し驚いた様子だったのだ。

確かに長年抱いてきた悩みは、随分と軽くなった。

だが、きっと今ここに居られる理由。僕の今の悩み。

「美鈴さん。僕は美鈴さんの事が――」

美鈴さんは、そっと自分の唇に人差し指を立てる。


「ありがとうございます。だけど、その気持ちはもう忘れてください」


鈍い重機の音。

崩れ落ちる屋根の音が、虚しく響いていた。

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