変わる世界

 しばらくして戻ってきたマインラートの後ろから、メイドがワゴンに乗せた食事を運んできた。


 よく見ると二人分ある。マインラートもここで食べる気なのだろうか。


 メイドはワゴンを止めると会釈して出て行く。そこでマインラートはまたわたくしを抱き上げて、椅子に座らせた。


 マインラートはわたくしの隣に椅子を持ってくると、座ってわたくしの前に食事を用意し始める。何故マインラートがそれをするのかがさっぱり理解できない。思わず困惑の声を上げる。


「……あの、マインラート。何をしていらっしゃるの?」


 マインラートは不思議そうに首を傾げて答える。


「食事の用意だが?」

「いえ、それはわかるのですが、何故あなたがなさるのですか? メイドはどうしたのです?」


 マインラートは得心がいったように笑う。


「ああ。ずっと私がやっていたからメイドも疑問に思わなかったんだな。君が倒れてから私が君の食事の介助をしていたんだ」

「え、あなたが……手間をかけさせて申し訳ありません」


 わたくしが謝罪を言うと、マインラートは自嘲するように目を伏せて笑う。


「……君が謝る必要はないよ。私が君を追い詰めたのだから。それに償いたいと思っても、私が君にできることはこのぐらいしかなかった。謝るのはこちらの方だ。本当にすまない」

「あなたが謝ることではありません。それにわたくしならもう大丈夫です。ですからあなたは……」

「……そうして私は君に甘えて好きなことをして、多くの人を傷つけた。私はもう見たくないよ。君が虚ろな目で反応をしてくれないのも、コンラートの仇を見るような憎々しい顔も」


 わたくしは自分がどんな状態だったか自分ではわからない。だけど、倒れる前に見たコンラートの怒りと憎しみのこもった冷たい顔は、今思い出しても背筋が寒くなるから、マインラートの気持ちはわかる。


「……あなたはただ家を守りたかっただけでしょう。ですが、わたくしもコンラートのあんな顔は二度と見たくありません」

「……ああ」


 しんみりとした空気になって、いたたまれなさにわたくしは更に問うた。


「二人分の食事があるように見えるのですが、気のせいでしょうか?」

「いや、せっかくだから一緒に食べようと思って。大丈夫。もう一年半近くもやっているから、君の介助をしながら食べることもできるようになったんだ」


 どこか自信有り気だけど、それは自慢になるのだろうか。褒めるのも違うと思って、わたくしは曖昧に頷くのだった。


 マインラートはそれぞれの前に食事をてきぱきと用意した。その手際から嘘は言っていないとわかる。


 わたくしの前にはミルクとスープ、マインラートの前にはコーヒーにサンドイッチとスープ。


 だけど、何故かわたくしの前にはスプーンがない。困ってマインラートに問う。


「あの、わたくしのスプーンがないようなのですが……」

「ああ。私が口まで運ぶから心配はいらないよ」

「いえ、わたくしもこうして気がついたのですし、自分で食べられます」

「いや、まだ無理だと思う。昨日の今日で体が辛いんじゃないか? この一年半君はほとんど動いていないんだ」


 言われてみれば確かにとは思う。あまりに体が重く感じて、這ってベッドを降りようとして落ちたのだから。それでも、今みたいに意識がはっきりしている状態で、子どものように食べさせられることには抵抗がある。


「……それはやってみないとわかりません」

「そうか? 君がそういうなら……」


 マインラートは渋々とわたくしにスプーンを渡してくれた。だけど、持つことはできても掬うことができない。腕を上げ下げすることができないのだ。


 途方に暮れて、じっと目の前のスープを見つめる。すると、ぷっと吹き出す声がした。隣を見るとマインラートが笑いを堪えている。


「いや、すまない。あまりにも悲しそうにスープを見ているものだから……」


 バツの悪さにわたくしは肩を竦める。


「……美味しそうなのに、食べられないのが悔しいんですわ……」


 死にたいと思っていたのに、我ながら現金なものだ。だけど、新しい関係をわたくしと築きたいと願っているコンラートのためにも、わたくしは元気にならなければいけない。もうあの子を傷つけたくはないのだ。


「食欲があるならよかった。私に任せてくれ」


 そう言うなりマインラートはわたくしからスプーンを取ってスープを掬うと、息を吹きかける。そして、それをわたくしの口に運ぶ。


「ほら、口を開けて」


 渋々口を開けると、マインラートはスプーンを傾けた。程よい熱さのスープが流れ込んできて飲み下す。


 ──美味しい。


 ほっこりとした優しい味が体に沁み渡る。そんな風に感じるのはいつ以来だろうか。これまでは食事を楽しむ心の余裕もなかった。


 マインラートは手を止めてわたくしの顔を覗き込む。


「美味しいかい?」

「ええ」


 わたくしが頷くと、マインラートは嬉しそうに笑う。


「そうやって反応してくれるのは嬉しい。ずっと食べるのも億劫そうに見えたから」

「……そうですわね」


 誰かはわからないけれど、余計なことをしないでと思っていた。それでも逆らう気力もなくて、味もしないのに食べていた気がする。まさか、それをしていたのがマインラートだとは思わなかったけれど。


 ちらりとマインラートを見ると、視界の端に二つのベッドが映る。


「そういえば、どうしてベッドが二つあるのです?」


 ここはわたくしの部屋に違いない。それならずっと一人で寝ていたのだから、ベッドは一つでいいはずなのに。


「……君が倒れてから、いつ気がつくかわからなかったから私もこの部屋で寝泊まりするようにしたんだ」

「それはまた……何から何まで申し訳ありません」

「だから謝らなくていいんだ。それに夫婦なのだからおかしくもないだろう?」

「ですが、これまでは別々だったではありませんか。わたくしはこうして起きられるようにもなりましたし、あなたもご自分の部屋に戻られてはいかがです?」


 こうして同じ部屋で寝ていたら、気を遣ってしんどいだろうに。そう思って言ったのだけど、マインラートの捉え方は違っていたようだ。


「……やっぱり私を許せないだろうな。本当に謝ってもすむことじゃないことを私は仕出かしたのだから。だけど、まだ本調子ではない君を一人にしておきたくはないんだ。だから、しばらくは一緒にいさせて欲しい」


 マインラートは神妙な顔つきで頭を下げた。頑なに自分が悪いと言い張るマインラートにわたくしは困惑を隠せなかった。


「いえ、ですからそれは違うのですが……」


 目が覚めたら世界が一変していた、そう言っても過言ではないだろう。


 これまで最低限の会話しかしなかったのに、関わりたいと反対に頭を下げられるのだ。しかも、食事の介助までしてもらうなんて。


 わたくしはまた幸せな夢を見ているのだろうか。そうしてまた絶望に落とされるのだ。


 幸せに慣れていないわたくしは、この状況が反対に不安になるのだった。

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