閉じた幸せな世界と、その終わり

 ──何も感じたくない。


 目が覚めて最初に思った。全てが色褪せてどうでもいい。起き上がる気力も湧かず、まだ生きていることに絶望した。


 そんなわたくしの周囲で目まぐるしく物や人が動いている、そんな感じだった。自分だけが周囲から切り離されて時間が止まっている。


 人の顔もぼやけてわからないし、声もはっきりと聞こえない。薄膜に包まれた自分だけの世界。自分を傷つけるものは何一つない幸福な世界。


 もうこのまま放っておいて欲しい。そうすればきっと衰弱して死ねる。ここにきてようやく気持ちが安らいだ。


 いつになったら死ねるだろうか。これは自殺ではない。緩やかに訪れる死だ。それならマインラートやコンラートは非難されることなく生きていける。


 そう思っていたのに、毎日誰かがわたくしに食事を摂らせたり、起こしたり寝かせたりする。どうしてそんな無駄なことをするのか理解に苦しむ。


 ただぼうっとして、何にも反応することなく過ごす日々が続いた。自分の意思で反応しないのではなく、できなかった。全てが曖昧で、自分がいる世界が幻想なのか現実なのか、その境目がわからない。時間の概念もない閉じた世界で、死を願いながら生きるだけ。


 そんなわたくしの世界に亀裂を入れたのは、一人の赤子だった。


 ◇


 初めは夢を見ているのかと思った。


 わたくしの前に、赤ん坊だった頃のコンラートがいたから。わたくしとマインラートの間に生まれてきてくれた愛する我が子だと思った。だけど、もぞもぞと動いている赤子は違っていた。


 ──この子は違う……!


 わたくしがあの子を間違えるわけがない。

 わたくしの子はどこ?


 わたくしの閉じた幸せな世界にはあの子がいない。そして、マインラートも──。


 焦燥感に駆られ、周囲を見回して一人の男性に気づいた。コンラートが生まれた当時のマインラートだと思ったけれど。


 ──違う。彼は成長したコンラートだわ……!


 似ていても違う。マインラート、コンラート、それぞれを愛しているわたくしにはその違いがわかる。


 しょっちゅう難しい顔をしていたマインラートの眉間には消えない皺があった。コンラートはマインラートよりも目尻が下がっていた。


 彼は間違いなくコンラートだ。わたくしの止まっていた時が動き始めた。歓喜に震える心がコンラートを求める。


「あ、ああ……来て、ちょうだ、い……」


 そして近づいてきたコンラートを抱きしめる。


 ずっとこうしたかった。自分にはそんな資格がないと諦めていた。だけど、この曖昧な世界では許される気がした。わたくしはずっとコンラートに言いたくても言えなかった言葉を伝える。


「……コンラート、私の子……愛しているわ……」


 それだけを伝えることができたわたくしは、満たされた気持ちで幸せな眠りについた──。


 ◇


 その後、目が覚めたわたくしに声をかけたのはマインラートだった。


「……アイリーン、大丈夫か?」


 心配そうにわたくしを見る彼は、昔のマインラートではなく、今のマインラートだ。それでわかった。わたくしの閉じた世界は壊れてしまったのだと。


 曖昧だった世界の輪郭ははっきりとし、鮮やかな色彩が戻ってきた。


 ──こんなこと、望んでいなかったのに。


 壊れたまま死んでしまいたかった。それなのに、わたくしは結局、コンラートを求めて戻ってきてしまった。誰にも望まれてなどいないというのに。


「……夢、では、ないの……?」


 また辛い現実に戻りたくなくて、問いかける。これは全て夢だと言って欲しかった。だけどマインラートは怪訝に問い返す。


「どういう意味だ……?」

「……」


 黙り込むわたくしに、赤子を抱いたユーリが近づいてきた。わたくしがコンラートだと錯覚した子だ。きっとユーリとコンラートの間に生まれた子なのだろう。その事実は、わたくしがそれだけ長い間閉じた世界にいたことを意味していた。


「……お義母様」

「……ごめん、なさい。悪いけど、一人にしてくれるかしら……」


 気持ちの揺り戻しに、状況の変化。今のわたくしには対応できなかった。涙が溢れてきて嗚咽が漏れる。こんなみっともないところは誰にも見られたくなかった。


 だけど、ユーリは聞いてくれない。


「……それは聞けません。みんなお義母様を心配していたんですよ。お義父様もコンラートだって……」


 ユーリの言葉はわたくしを気遣ってのものだろう。マインラートやコンラートがわたくしの心配をするとは思えなかった。わたくしは二人の幸せを壊したのだから。


「……そんなものは必要ないわ。わたくしなんて、どうなっても……」

「母上、いい加減にしてください」


 コンラートが怒りを抑えてわたくしに言う。コンラートはまだわたくしを許せないのだ。腹の底が冷たくなって引き絞られるようだった。

 ユーリがわたくしを気遣ってコンラートを諌める。


「コンラート、あまりきついことを言っては……」

「……わかってるよ。だけど、このままでは今までと何も変わらない。僕に任せてくれないか? 母上。ニーナの話をした後に倒れたのを覚えていますか?」

「ええ……」

「その後のことは?」

「……いいえ」


 そう言うと、コンラートが溜息をついた。静寂の中でそれだけが大きく響いて、わたくしは体を強張らせた。


「……父上も僕も、母上が現実から逃げたくなるまで追い詰めたことを反省しています。母上が回復すれば話し合いたいと思っていました。もう逃げるのはやめませんか?」


 コンラートの言葉は、わたくしが思っていたものではなかった。あなたのせいだと言われることも覚悟していたというのに。だけどわたくしは頷けなかった。


「……話し合って何になると言うの。もう全て壊れてしまったのに……」


 マインラートやコンラートの本来の幸せを歪めてしまった。わたくしが全て台無しにしたのだ。


「違うでしょう? 壊れるも何も、始まってすらいなかった。そもそも僕らが家族だったことがありますか?」


 胸を抉られるようだ。わたくしには家族がどんなものかわからない。作り方もわからなかった。コンラートはそれを責めているのだと思った。だけど──。


「……だから、新しい形で始めませんか? 僕はあなた方に見向きもされなくて、誰も信用できなかった。だからユーリもニーナも、自分の手で守らないといけないと意固地になっていました。その結果、ユーリも母上も傷つけてしまって、申し訳ありませんでした……。

 それに、僕にも子どもが生まれたんです。だけど、僕には愛された記憶がないから、ウィルフリードの愛し方がわかりません。だから、教えてくれませんか? 母上が先程言った言葉が間違いではないのなら……」


 コンラートはわたくしに詫び、教えを請うた。だけど、わたくしにも愛し方なんてわからない。愛されたことがないのだから。


 それでも、今ここでコンラートをまた拒否することはできなかった。愛されていることを知らないコンラートに、あなたはずっと愛されていたのだと教えたかったのだ。なかなか言えずにいると、ユーリがきっかけを作ってくれた。


「お義母様はコンラートを愛しているのですね」

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