悔恨の夜

「このあたりでいいでしょう」


 ダンスが始まり喧騒に包まれるホールを抜け出し、三人でバルコニーへと出た。


 改めて彼女を見ると、その美貌とは反対に仕草が幼い。きょろきょろと視線を彷徨わせたり、指を絡ませてもじもじと落ち着かない様子だ。


 この様子だと貴族社会では生きにくいだろうと思う。女性からはあざといと嫌われそうなタイプだ。だけど、そこが男性の庇護欲を誘うのだろう。ちらりとマインラートを見ると、心配そうに彼女を見守っている。


 その視線に気づいた彼女がほっとしたようにマインラートに笑いかける。まるで二人の世界だ。


 ──わたくしは本当に馬鹿だわ。結局自分が愛されていないと思い知るだけなのに。どうしてここにいるのかしら……。


 この場から逃げ出したい気持ちに駆られるけれど、みっともなく逃げるようなことは許されない。そんなことはわたくしの肩書きが許してくれなかった。


「……本来ならシュトラウス家のためにお力添えいただいているお礼に伺うべきだったのですが、遅くなってしまい、申し訳ございません。お父上にもよろしくお伝えくださいませ」

「え、あの……」


 わたくしが頭を下げると、彼女は戸惑っているようだった。この泥棒猫とでも罵られると思っていたのかもしれない。わたくしにそんなことが言えるわけもないのに。見えないように唇を噛み締める。


「アイリーン?」


 怪訝なマインラートの声に顔を上げる。その時には表情を消す。そんなこともできるようになった。


「何ですの?」

「……いや、何でもないよ」

「……あの、アイリーン様。父に伝えておきます。こちらこそ、色々とありがとうございます……」


 彼女はわたくしに礼を言う。

 そのお礼は何に対するお礼なのだろうか。わたくしがマインラートとうまくいっていないから自分が選ばれたとでも言いたいのかなんて、嫌なことを考える。


 その一方で自分はマインラートの子どもを産んだのだという優越感に浸っているわたくしがいる。


 気持ち悪い。


 嫉妬や優越感、敗北感。自分の中にあるドロドロした悪感情なんて見たくなかった。


「……いえ、本当にありがとうございます。それではわたくしは先に戻ります」


 これ以上彼女と話していたら、嫌味を言いそうだ。堪らなくなって先にホールへ向かって歩き始めた。


 しばらくしてふと後ろを振り返った。ただ、何となくだったけれど、振り返ったことを後悔した。


 マインラートはわたくしに見せたことのない笑顔で彼女と話していた。しかも、長身の彼が屈むように彼女の口元に耳を寄せるように近い距離で。


 それで二人がいかに親密な関係なのか察した。気持ちが通い合っていることも。


 打ちのめされてホールに戻ると、グヴィナー伯爵夫人が楽しそうに近づいてきた。今はこの人の話を聞いてはいけない、そうわかっていたのに逃げることはできなかった。


 彼女はわたくしの周りを見回すと、わざとらしく尋ねる。


「あら? 先程三人で出て行くところをお見かけしたのに、奥様お一人ですの?」

「……ええ。ハーバー準男爵には主人がお世話になっておりますので、そのお礼を言いたかっただけですわ。用が済めば戻るのは当たり前だと思いますけれど」

「そうですの。それでご主人のお世話をレーネ様にお任せしたと」


 納得したような言葉がわたくしの癇に障った。怒りを抑えて静かに問う。


「……何が仰りたいのですか?」

「いえ、奥様が気の毒だと思いますわ。奥様では満たされないから別の女性に走る。屈辱的ですわよね。あんな小娘に取られるなんて」

「……別に主人はわたくしのものではありませんし、取られたとも思っておりません」


 馬鹿にしたいのか傷つけたいのか、わかりやすい毒はわたくしの心を侵食する。怒りに赤く染まった心は、やがて絶望に黒く塗りつぶされていく。


 それを察したのか、彼女はニヤリと口角を上げた。ぼんやりと彼女の顔を見ていたけれど、その時の血のような真っ赤な唇が印象的だった。そして更に彼女はわたくしに追い打ちをかける。


「もう我慢なさらなくてもよろしいのよ。あなただって自由になる権利はあるの。そうでしょう?」


 自由。それは魅力的な言葉だった。


 これまでわたくしはどれだけのものを諦めてきたのかと様々な思い出が蘇る。


 両親や弟からの愛情。マインラートやコンラートからの愛。


 色々なことが重なって弱っていた心に彼女の言葉が染み込んできた。だからだろう、つい同意するようなことを言ってしまった。


「そうかもしれませんわね……」


 彼女は目を輝かせた。手を叩いて弾んだ声で言う。


「わかってくださるのね。それでね、あなたに紹介したい方がいるのよ」


 紹介?

 怪訝に彼女を見ると、彼女は男性を呼び寄せた。


「はじめまして。カイ・クラルヴァインと申します」


 こうして会うのは初めてだけど、彼のことは知っていた。確か、クラルヴァイン伯爵家の三男ではなかっただろうか。金髪碧眼の甘いマスクに物腰の柔らかさで人気があると茶会で聞いたことがある。


 だけど、グヴィナー伯爵夫人が彼を紹介する意味がわからない。グヴィナー伯爵夫人を見ると、彼女はにっこりと笑って言う。


「カイはわたくしの友人なんですが、奥様に興味があるそうで紹介して欲しいと言われていたんです。きっと奥様ともいい友人になれると思いますわ」


 きっと彼女の言葉でなければ素直に受け取ることができたと思う。これまでに彼女がわたくしにしてきたことを考えると何か裏があると感じた。


 頷かないわたくしに、彼女ではなくカイが苦笑する。


「初対面でそんなこと言われても困りますよね。ですが、私は本気です。あなたを知りたい」


 含みのある話し方に熱のこもった視線。貴族社会にありがちなお手軽な誘いなのだと悟った。


 そして、グヴィナー伯爵夫人が先ほど言ったような、ただの友人関係ではないのだろう。彼もまたグヴィナー伯爵夫人と関係を持っている一人なのだ。わたくしとも関係を結びたいということか。


「……いえ、わたくしは」

「奥様、結論を急がなくてもよろしいではないですか。マインラートからも聞いておりますわ。奥様も家を守ること、後継を産むという義務さえ果たせば好きにすればいいのでしょう?」


 それはわたくしがマインラートと結んだ約束。共にシュトラウスのために頑張ると交わした大切な約束なのに、彼はそれすらこの人に話すのか。


 わたくしはその約束を心に刻み、これまで家のために頑張ってきたというのに。その気持ちを踏みにじられたような気がした。


 ──もうどうでもいいわ。


 少しずつ壊れていた心は考えることを放棄した。見たくない現実から逃げるために。そしてその日、わたくしはカイと一夜を共にした──。

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