人の本質

 コンラートは日々成長している。最近は体重どころか背も伸びてきて、わたくしの細腕ではもう抱えるのが難しくなってしまった。


 そして自我が強くなったからか、わたくしの言葉を聞かなくなってしまった。それを嬉しく思いつつも、そういう時にどう対処すればいいかわからずに困惑することも増えた。


 少しずつ育児への不安と、精神的な疲労で鬱屈した怒りは、静かに心の奥底へおりのように溜まっていった。


 ◇


「ははうえ、これいやだ」


 最近は何をしても気に入らないようで、コンラートは頰を膨らませて、着せた服を脱ごうとする。


 またか、と溜息を吐きながらも、コンラートを宥める。


「何が嫌なの? 言ってくれないとわたくしにもわからないわ」

「いやったらいやだ!」


 そう言うとコンラートは服を脱ごうとしても思うように脱げず、顔を真っ赤にして暴れる。


 何が嫌なのかわかればまだ対処のしようがあるのに、わからないからわたくしも途方に暮れた。それに、最近王都からくるグヴィナー伯爵夫人からの手紙にまいっていたこともあって苛々する。


「お願いだから言うことを聞いてちょうだい。お母様もお仕事があるの。あまり困らせないで」

「いやだ!」


 それでも言うことを聞かず地団駄を踏むコンラートを黙らせるためにコンラートを抱き上げようと手を伸ばす。


「いやだったらいやだ! ははうえなんかきらいだ!」


 だけど、コンラートはその手を叩き落として振り払った。その瞬間、血が沸騰するような怒りに、目の前が真っ赤に染まる。


 ──あなたまでわたくしを拒むの……?


 愛しているから許せなかった。これだけわたくしはあなたを愛しているのに……!


 両親や弟の嘲笑う声が聞こえた気がした。やっぱりお前は愛されない、お前なんていらない、と。


「この……!」


 燃えたぎる怒りのままに手を振り上げた、その時──。


「奥様、おやめください!」


 メイドの制止する声に我に返る。


 わたくしは今、愛する我が子に何をしようとした?

 血の気が引いた。振り上げた手をゆっくりと下ろすと、顔を覆う。


 そしてコンラートは火がついたように泣き始める。泣き止ませたいのに、足が竦んで動けなかった。


 自分がされて辛かったことを愛する我が子にしようとするなんて最低だ。わたくしは結局、両親や弟と同じ。人を傷つけることしかできないのだ。


 涙が溢れ、嗚咽が漏れる。

 こんなに愛しているのに愛し方がわからない、優しくしたいのに傷つけることしかできない、不完全な自分が呪わしい。


「コンラート、ごめんなさい……!」


 わたくしにあなたを育てる資格なんてない。あなたに優しい人になって欲しいと願うわたくしが優しくないのだから。


 手を振り上げた瞬間、わたくしはコンラートのことなんて考えてなかった。ただ、わたくしを拒むコンラートが憎いとしか思えなかった。


 人の本質なんて変わらない。わたくしのなかにも間違いなくあの人たちの血が流れている。他人を思いやれず虐げて笑うあの人たちの血が。


 何かが音を立てて崩れていく気がしていた。


 それまで与えてきたコンラートへの愛情もまやかしだったような、そんな気にさえなった。


 ──マインラート、あなたはわたくしのそんな醜さを見抜いていたの……? だからわたくしではない別の誰かを選ぶの……?


 コンラートが泣いていても近づけなかった。また暴力を振るおうとするのではないかと、そんな自分が怖かった。


 見兼ねたメイドがコンラートをあやすと、コンラートは泣き止んだ。


 ──ああ、あなたもわたくしではない別の誰かを選ぶのね……。


 わたくしにはできなかったことを簡単にやってのけたメイドに嫉妬心が芽生える。それと同時に諦めも覚えた。


 わたくしは母としてもダメなのだと──。


「……コンラートをお願い……」

「奥様?」


 ふらふらと部屋を出て行こうとするわたくしに、コンラートを抱いたメイドがいぶかる。このままコンラートの傍にはいられなかったのだ。


 部屋を出ると、わたくしはすぐにマインラートに手紙を出した。『早急に乳母を雇って欲しい』と。


 もうわたくしはあの子に近づいてはいけない。何があってもあの子を守ると誓ったのだから。それがわたくし本人からだとしても──。


 そして、わたくしはコンラートと距離を置いた。


 ◇


 それからはコンラートが話しかけてきても、忙しいからと相手にしなくなった。


 領地という閉鎖的な世界でコンラートと向き合うのが怖かったわたくしは、社交界に復帰することにし、再びコンラートを連れて王都へ向かうことにした。


 相変わらずグヴィナー伯爵夫人からは手紙がくる。その中にはマインラートと新しい愛人が社交界で噂になり始めたという報告もあった。


 相手は平民上がりで常識のない女性だから他人の夫に手を出すことに抵抗がないのだろうとグヴィナー伯爵夫人は書いていたけれど、自分を棚に上げてよく言えるものだと呆れる。


 そんな状況だからわたくしが社交界に復帰すると、更に醜聞を振り撒いてしまうのではないかと心配していた。あそこは憶測でものを言う世界でもある。


 だけど、今のわたくしにはそうすることしかできなかった。コンラートのためとはいえ、わたくしはコンラートの手を振り払ったのだ。


 マインラートも、コンラートも失い、残されたのはシュトラウス家のために尽くすというマインラートとの約束だけだ。わたくしはその約束を果たすためだけに生きるしかなかった。

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