彼との話し合い

「あの、奥様。旦那様は本日も遅くなるので、先にお休みするようにと言付かっているのですが……」

「ええ。そうらしいわね。だけど、話があるから待たせてもらうわ」


 執事の困惑する声に構わず、わたくしはぴしゃりと言う。アードラー邸から帰ると、先に入浴だけ済まして、食事もとらずに自室にこもってマインラートを待つことにした。


 マインラートと一緒に食事をとりながら話をしようと思ったからだ。だけど、もしかしたらどこかで食べてくるのかもしれないとふと気づく。


 そこでアードラー夫人の言葉が蘇って不安になった。彼は条件を受け入れて、関係を結ぶことにしたのだろうか。だから帰りが遅いのではないか──。


 考え始めると悪い方悪い方へと思考は向かう。


 そもそもわたくしは結婚前に愛人を作ることを容認していたというのに。


 あの頃のわたくしは結局頭でわかっていても、気持ちの部分でわかっていなかったのだ。愛する人を誰かと共有することがどんなに辛いことなのかを。


 わたくしの片思いだから尚更切なさは募る。せめて気持ちだけでも手に入れていたのなら愛人を作っても平気なのだろうか、と考えたけれど、それでもきっと身を切られるように辛いのだろう。


 愛しているのは君だけだ、なんて言葉に騙されるほどわたくしは初心うぶではない。その言葉はきっと一生聞くことはないのだろうけど。そう考えて乾いた笑いしか出てこない。


 暇を持て余すために詩集を読む。詩人たちが愛の言葉を書き連ねているけれど、文字として認識はできるのに心に響かない。


 愛される喜び? 愛することとはどういうことなのか?


 相手の幸せを望むことが愛ならば、わたくしがマインラートに抱く思いは愛ではないのかもしれない。家のためだとしても愛人なんて作って欲しくない。それはわたくしのただの身勝手なのだろうか。


 しばらくそんな詮無いことを考えていたら、ようやく待っていた人がやってきた。


「アイリーン、私に話があると聞いたが……」


 わたくしから話しかけることはほとんどないから、マインラートは困惑しているようだ。わたくしは頷いてまずは当たり障りのない会話に入る。


「ええ。ですが、夕食を食べていないのではないですか? 食べながらお話しませんこと?」

「あ、ああ。それはいいが……」

「それなら食堂へ行きましょう」


 わたくしは立ち上がると、マインラートを促して歩き始めた。ちらちらとわたくしを伺うマインラートの視線が痛いけれど、澄まし顔で黙って歩いた。


 食堂に着くと、もう既に支度ができていた。あらかじめマインラートが帰ってきたら二人分の夕食の準備をするようにと伝えておいたのだ。


 もう夜も遅いのでお腹に優しい野菜のスープと、パンという簡単な食事だけど、何かを食べながらの方が話しやすい。


「……それで、お仕事の方はいかがですの?」


 唐突に切り出したわたくしに、スープを掬っていたマインラートの手が止まる。


「急にどうしたんだ?」

「別におかしいことではないでしょう? わたくしは一応、あなたの妻ですもの」

「いや、そうだが……どういう風の吹きまわしなのかと」

「あら、心外ですわ。わたくしが聞いてもおざなりに聞き流していたのはあなたではなくて?」


 君は家のことと後継のことだけ考えていればいいと突き放したのはマインラートの方だ。だけど、それではいけない。わたくしがこの家に嫁いできた意味を見出すためにも、マインラートのためにも──。


 案の定マインラートはお決まりの台詞を吐く。


「君は心配しなくてもいい」


 今日はそれでは済ませるつもりはない。嫁ぐ時に約束したはずだ。


「……あなたは仰いましたよね。共に頑張って欲しいと。それなのにわたくしは関係ないと?」

「そういうわけではないよ。ただ、聞いても楽しくはないだろう?」

「それは聞いてからわたくしが決めることですわ」


 わたくしが言い切ると、マインラートは嘆息した。


「……それで何が知りたいんだ? 何かあるから急にこんなことを言い出したんだろう?」


 さすがにマインラートは聡い。話が早いのはいいけれど、聞いた噂をそのまま話すことに戸惑って言葉に詰まる。それでもマインラートは根気よく待ってくれた。わたくしは深呼吸をして、口を開く。


「……今日、アードラー伯爵夫人のお茶会に参加してきましたの。そこであなたの噂を耳に挟みましたわ。あなたが事業提携を条件付きで提示されたと」

「ああ、それか……」


 マインラートは嫌そうに顔を顰める。だけどこれでは噂が立っていることを嫌がっているのか、事実だから嫌がっているのかわからない。更にわたくしは踏み込んだ。


「本当ですの?」

「……ああ。確かに妻の遊び相手になってくれれば事業提携に一口噛ませてもいいと言われたよ。だが、そんなのは無茶苦茶だ。だから断った」

「そう……です、の」


 マインラートの言葉に安堵した。だけど、それならどうするつもりなのだろうか。そこがわからずに聞いた。


「それであなたはこれからどうするつもりですの? このままでは生き残れないのではなくて? シュトラウス領での農業はもう難しいと聞きましたわ」

「ああ、そうなんだ……従来のやり方はもう通用しない。だから、私はやり方を変えることにしたよ。今、王都で盛んなのは何だか知っているかい?」


 考えたけれどわからず、わたくしは首を左右に振った。マインラートは説明してくれた。


「商業だよ。平民の中でも商人が力を持ってきている。しかもその商人がその能力を認められて叙爵までしているんだ。だから、私はその方に教えを請うつもりなんだ」

「そう……教えていただくのはいいけれど、習得するには時間はかかるのでしょう? それまでの間、どうするつもりですの?」

「それは……」


 マインラートが言葉に詰まる。それも考えてはいるのだろうけど、解決策が思いつかなかったのかもしれない。そう考えて閃いた。


 ──婚家であるわたくしの実家ならひょっとして。


 実家にいた頃だったら、あの両親が助けてくれるとは思わなかっただろう。だけど、これは政略。家同士が助け合うのは当然だ。両親のわたくしへの思いがどうであれ、シュトラウスとの約束を反故にするようなことはしないはずだ。きっとこれでマインラートの力になれると、わたくしの胸は喜びでいっぱいだった。

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