第5話 初めての食事

「お帰りなさい。今日のレポート、簡単でいいから一応、書いといてね。」


 「テラ」から帰ってくると保健棟の事務員に出迎えられた。頭全体を覆うCTスキャナのような装置は自動的に上の方へ移動し頭から外れる仕組みだ。フルダイブVR機器の黎明期に開発され導入された装置は個人の家にはとても置けないくらいの大きさである。診察台のようなベッドから起き上がった雪はレポートを書き始めた。紙に手書きする方法も未だ残されてはいたが、雪はキーボードを叩き端末を経由してオンラインでレポートを提出した。ついでに次回の利用予約もしてから保健棟を後にして図書館へと足を向けた。千尋も今頃、自宅で覚醒して漆の作業に入っていることだろう。千尋は漆の作業の合間にちょこちょこと、「テラ」にログインしているのだ。千尋の使っているものはフルダイブ型VR機器としては旧型のものだが、漆塗りの奨励賞に選ばれた賞金で買ったものだ。フルフェイス型のヘルメットのような外観ですっぽり頭を覆うデザインで、かぶると圧迫感はあるがダイブしている最中はもちろん、気になることは無い。自宅から自由にフルダイブできる環境が雪にはうらやましかった。


 雪の家庭では親が運動や勉強を優先させようとするため、テレビやゲームは子どもの頃から制限されていた。ゲームは一日三十分。休みの日でも一時間と決められていて、それを越えてしまうと一週間没収、というルールだった。県が定めたゲーム条例を上回る条件で事実上、禁止されているようなものだ。ゲーム機は小学生の頃から持たされてはいたが、母親は、それは友達とのコミュニケーションツールとみなしており、友達と一緒に遊ぶときだけ何も言われずに思いのままに遊ぶことが許されていた。雪は実家から地元の大学に通っているのでVR機器についても自宅では自由にならない状況だ。大学に入学して一年が終わろうかというときに保健棟から研究用の機器を使ってフルダイブできるのを聞きつけて、やっと本格的に「テラ」に入り込めるようになったのだが、それまでは時々、ゲームセンターに足を運んでVRゲームを体験するくらいのものだった。しかし、ゲームとはいえ色々な体験をできるのはとても楽しいことで、航空機を操縦したりレーシングカーに乗ったり、宇宙船に乗り込むというゲームもあり、日常とかけ離れた体験をすることで雪の視野は大いに広がることになったのだった。


 雪は「テラ」の存在を知った時には居ても立っても居られなくなったが、自宅からのフルダイブは専用の機器をそろえる必要もあるし、家族が無理解だと途中で電源を落とされそうなので、怖くて踏み出せずパソコンからログインしてその世界を垣間見るだけだった。最近ようやく、時間制限があるのだということを説明して少し理解を得られた気がするが、自宅からのフルダイブまでには至っていない。最新のVR機器は普及段階に入っていて価格も安くなってきており、雪の貯めてきたお小遣いでも十分買えるものだが、購入はまだ迷っている段階だ。世間ではワッフル社が新世代のVR機器を発表するたびにそのスタイリッシュさが話題に上るほどで、ユーザーはうなぎのぼりで増えている状況であるのに。


 「テラ」では基本的な活動費が毎月給付される制度があるので、最初のVR機器さえ何とかなれば後はどうにでもなる仕組みだ。VR機器の購入代金もその一部を給付される活動費から天引きで支払う方法も創設されたので、金銭的な負担は軽いものになってきた。ただ、フルダイブするには安静にしていなければならないので、それができる環境を整える方が重要だ。雪にとっては、邪魔されずに公然とフルダイブできるのが大学の保健棟なのだ。フルダイブシステムのデータ採取という研究目的で設置された装置は、自宅からのフルダイブが主流になるにつれ、利用するごとに申請書とレポートの提出が必要という手続きの面倒さから学生にも敬遠されて希望すれば毎日でもダイブできるという過疎状態になり、雪はその状況を利用しているのだった。


 翌日「テラ」にログインすると、葉月から連絡をして欲しいとメールが入っていた。フレンドリストから葉月を選んで検索すると、ちょうど葉月もログインしているようなので、すぐにチャットを開いてみた。


「時間とれる?大丈夫?」


「今、休憩しようとしてたとこなの。私の所に来て。」


 会話中の人の所へ行く、を選択して移動を試みる。すぐに許可が下りて、瞬間移動した先はカフェレストランの前だった。その前で葉月が微笑みながらたたずんでいた。


「ちょっと、何か食べて行かない?割り勘でいいからさ。」


 葉月は店に入って席に着くと、嬉々としてメニューを眺め始めた。できたばかりのお店で、葉月も入るのは初めてだそうだ。


「「テラ」ではどれだけ食べても太らないから食べ放題だよ。食べ過ぎて気持ち悪くなることもないから安心だし。」


 と言いながら、葉月は大盛りのスペシャルデザートをタッチパネルを操作して注文した。雪は気になった、店長おすすめのマンゴーパフェを食べてみることにした。雪の「テラ」での初めての食事である。


「ところで現実世界で何か端末、持ってる?雪って「テラ」に居ないことも多いから、連絡取れるようにテラメール入れておいて欲しいんだけど。ついでにテラニュースも入れておくと「テラ」のニュースが読めるから便利だよ。」


「ログアウトしたら、入れておくよ。葉月はそんなに「テラ」に居るの?」


「今は一日二~三回ログインしているけど、遊んでいるだけじゃないよ。外国にも好きなだけ行って来られるし、「テラ」に入りたい放題なら留学って必要無いのかなって思うよ。」


 話しているとすぐに注文した品が運ばれてきた。運んできたのはロボットの店員で、簡単なAIで動いている。外見はログインしている人がいる人間と変わらないので複雑な会話などをしない限り見分けはつきにくい。現実世界ではまだ生身の人間が店員を務めているが、「テラ」ではほとんどAIを搭載したロボットに置き換わっていて労働力不足の心配は無かった。


 運ばれてきた品はメニューの縮尺が間違っていたのかと思うくらいサイズが大きく、雪は食べきれないと思ったが、現実世界と違って残しても廃棄されるものは無いので心配は要らないそうだ。食べてみると素晴らしく美味しい。味覚をフルに刺激してくるソフトクリームは今まで食べたことのある一番おいしかったものとそん色ない出来栄えだし、添えられているマンゴーは現実世界で一度だけ食べたことのある贈答品用の高級品と同じく、かすかにミントが入っているかのようなさわやかな甘みを持っている。雪は「テラ」に飲食店を多く見かける理由が分かった気がした。これはエンターテイメントなのだ。現実世界で美食が過ぎると太ったり生活習慣病になったりするが、仮想世界での食事なら本当に食べているわけではないので、カロリーはゼロである。思う存分、舌を喜ばせることが出来るのだ。

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