第3話 研究室
「私の母の研究室へようこそ。私はこれっていう人に出会ったらここに連れてくるように言われているの。」
「研究室って、君の母さんは何を研究しているの?」
「今は「テラ」の運営について、かな。さ、行くよ。」
まさかとは思ったのだ。もしかして今から会うのはとんでもない大物なのではないかと。しかし、そんなことがあり得るのかという思いの方が強かった。
葉月について扉をくぐると本物のお店のように風除室があり、そこも通り抜けると大きなリビングへ入ることになった。北欧デザイン風のソファや調度品で端正に彩られている部屋は長時間くつろいでも飽きずにその場に居られそうな居心地の良さを感じた。
「ちょっと待ってて。呼んでくる。」
しばらくすると、奥の部屋から葉月の他に二人の人物が連れ立ってリビングに入ってきた。
「こんにちは、真白時です。ようこそ。どうぞ、腰を下ろして。」
「こんにちは、結城真と言います。よろしく。」
「は、初めまして、花咲雪です。」
雪は緊張で声が震えた。
「どうも、柿崎千尋です。」
普段動揺することの少ない千尋も戸惑っているようだ。
目の前にいるのはエターナルシステムを開発した人物であり、「テラ」の創造主の一人でもある天才SE、真白時である。二十歳台で世界に影響を及ぼす百人に選ばれ、ここ数年は上位十位以内に名を連ねる有名人だ。雪たちにはこんなに簡単に会って話ができるなんてことがあり得るのだろうかと思えた。本人を目の前にしても現実のものとは思えないようなことだ。彼女も生体スキャンしているのだろう、現実世界のテレビで見た外見と同じだ。
葉月が奥へ消えたかと思っていると、お盆の上にお茶を人数分乗せて持ってきた。
「さあさあ、座って。ダージリンティーを再現したものだけど、どうかな。新作だよ。」
今雪たちが居る仮想世界「テラ」を構築しているエターナルシステムには五感ジェネレータと呼ばれる、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を感じ取れる仕組みが搭載されており、これが現実の世界と区別がつかなくなるくらい精巧にできている。五感ジェネレータも真白時が開発したもので、これだけでもノーベル賞級の成果物である。
緊張で震える手でカップに手を伸ばし一口すすると、五感ジェネレータの機能をフルに活用するかの如く、豊潤な味わいが口の中いっぱいに広がった。雪は「テラ」では飲食したことが無かったので、現実と変わらないかそれ以上の味わいに驚いた。「テラ」での飲食はただ味覚などを刺激するだけのもので、本当に食欲が満たされ体の栄養になるとか、のどの渇きが癒されるものではない。なので、空腹やのどの渇きといったことはほかの生理現象と一緒で、現実世界に戻ってからでなければ解決できないのだ。雪はそれを分かっていたので「テラ」では飲食したりしようとはしなかったが、飲食店や喫茶スペースなどがあるのには気づいていて不思議に思っていたのだった。ちなみに現実世界の日本ではどこへ行ってもあるはずのトイレは「テラ」では用を足す目的では設置されていない。
「ユキさんって、どういう字なのかしら。」
時が話しかけてきた。他の人にも良く聞かれる質問だ。雪は外見がまだ少年っぽいところもあって、女性か男性か分らないと言われることがある。
「冬に降る、雪です。女性のような名前ですけど、男性です。」
「「テラ」には男性でも女性でもない性別の人も多いのよ。性別は気にすることないわ。」
「テラ」に登録するとき、性別欄に男性、女性のほかに、その他の項目もあったのを覚えている。雪はどれにしようかしばらく迷った後で、現実世界での生物学的な性別と同じ性別で登録したのだ。
「雪さんに千尋さん。現実世界では何をしているの?」
「僕は大学生です。まだ研究室は決まってないけど、量子コンピュータの研究をしたいと思っています。」
「俺は漆職人を目指しています。そのうち人間国宝も目指すというか。」
「量子コンピュータはワッフル社でも研究しているわ。実用化されると「テラ」の運営にも使うでしょうね。重要な研究よ。職人っていうのもいいわね。唯一無二の物を作り出せるようになったら貴重な仕事ができるでしょうね。ところで葉月は何がしたいか決まったかしら。」
「私はそれを探しにこの秋から留学するんだもん。分からないよ。私、本当ならまだ中学生なんだからね。あんまり急がせないでよ、ママとは違うんだから。」
言葉尻などから若いとは感じていたが、中学生と言うのには驚きを隠せなかった。生体スキャンしているようなので修正を加えていない限り現実世界と外見は同じはずだ。そうなら現実世界でも中学生には見えず、雪と同年代か少し下くらいに見えるだろう。実年齢よりだいぶ大人びた感じだ。それより、時も若いのに中学生の子どもが居るというのも驚きだ。シングルマザーだというのは有名な話だったが、結婚できる年齢になったくらいですぐ身ごもったことになる。時は叔父の経営するソフトウェアメーカーに所属し、子育てしながらエターナルシステムを構築して、今ではワッフル社の取締役兼最高技術顧問にのし上がったのだ。ワッフル社とはコンピュータの黎明期に家庭用の小型コンピュータを開発して販売することから始まった会社で、ハードウェアだけでなくOSなどソフトウェアの開発も手掛けている。スマートフォンを世に送り出して会社は大きく成長し、今ではエターナルシステムの権利を時の叔父の会社ごと買収して「テラ」を運営している。また、「テラ」のような仮想世界に入り込むためのフルダイブ型のVR機器の開発も手掛けて世界的ヒット商品にしていて、現在は世界でも時価総額トップクラスの巨大多国籍企業である。
時が言う。
「私はインタビューや対談で何度も言っているけど、世界を永続的なものにするための活動をやりたいとずっと思っているわ。エターナルシステムもそのために開発したものだし、「テラ」の創造と運営もその一環。ねえ、真は良く分かるよね。」
「今は閉鎖したあのブログのことか。あれは病気がもたらした妄想の産物だよ。忘れてくれていいんだが。」
「私に与えた影響はとてつもなく大きいのよ。私の人生を変えたものなのに、忘れてなんて無責任よ。むしろ、復活させてくれないかしら。」
「いや、あれは荒唐無稽なことだよ。実現しようとする人物が現れるとは思っていなかった。私は君の考えを変えるために近くに居るつもりなんだが。」
「私の決意は固いの。あなたも初心に立ち返って私にもっと協力してよ。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます