第19話 濃藍の水に浮かぶ金魚(side: 竜胆)

 金魚すくいまであるんだな、と足を踏み入れた夏祭りの会場を一望して、竜胆は感心した。もう夕方なのに寝起きのような顔をした寮生らしい男の人が、金魚を無秩序に泳がせた水槽を前に、子供たちの相手をしている。水槽とは言っても、本来は衣類を入れるような、半透明のアクリルケースだ。爆発した天然パーマを持ち、妙につるりとした顔の寮生は、会場のグラウンドを走り回り襲来する子供たちを、上手く秩序立てて金魚すくいに誘い込んでいる。

 同じ光景を晶博も目にしたはずだが、年のそう離れていない叔父と姪は、示し合わせたように、金魚すくいについては言及しなかった。

 竜胆も、屋台ですくった金魚をいつも死なせてしまっていたことを覚えていた。しかし、その胸に浮かぶイメージは、年若い叔父とは異なっていた。

 金魚すくいを前にして、竜胆の脳裏のスクリーンに広がる過去の幻は、提灯の華やぐ明かりの下に輝く椿の白い横顔などではなく、黒に近い藍色の水のヴェールに見え隠れする金魚の白い腹だったのだ。

 須賀家の人々は何も、金魚が死んでいくのを坐して見守っていたわけではない。酸素を供給するポンプはもちろん、水槽内を衛生的に保つために、田圃のタニシを入れてみたりもしたのだ。

 それでもしばらくすると、朱色に輝く金魚の鱗には、小さな水泡がくっつきはじめる。この小粒の泡が付着すると、もういけないのだった。数日後には、哀れな金魚たちは玄関脇の紫陽花の肥やしになることになる。

 あるとき母の椿が調べて、金魚の病気に効くという薬を、熱帯魚屋で購入してきた。それはにおいも色も墨汁のような液体で、水の体積に従った用量を投入すると、水槽を泳ぎ回っていた金魚を、青黒い幕の中に取り込んでしまった。

 それからは、金魚がよほどガラスに近づいてこなければ、その泳ぐ姿を見ることはできなくなった。金魚のほうも、一寸先すら見通せなかっただろう。透明な背びれと尾ひれをスカイブルーに染めて、ゆらゆらと薬の海を漂っている金魚は、すでに金魚の幽霊のように見えた。竜胆は母の椿に話しかけた。

「なんか金魚がかわいそうだね」

 母は唇をとがらせて、子供のような口調で言った。

「仕方ないよ、生かすためだもん。金魚ちゃんだって生きてたいでしょ」

 娘を責めるような、悲しそうな母の目を見て、竜胆は、さっきのセリフの裏に隠していた言葉を飲み込んだ。代わりに、「そうだね」と平板な口調を作る。

「こんなことまでして生きなきゃいけないの」

 当時は心の内をそう上手く言葉に表せはしなかったが、本当はそう言いたいような気持ちだったのだった。

 家を出た竜胆は、たった一人で須賀山の登山道をたどり、ガイコツ池を目指した。小学生の女児が、放課後一人で登れるほど、須賀山は低く緩やかな山なのだ。

 頂上を越えて、下り坂に沿って歩いていくと、神秘的な緑色の湖面が見えてきた。ひぐらしが鳴き、だんだんと辺りが暗くなりはじめていたが、やりきれない悲しさを持て余していた竜胆は、乱暴な足取りで、暮れていく空には構わずどんどん坂道を下っていった。

 池という名前から思い浮かべる姿からは一回り大きな湖のほとりを、竜胆はめぐった。厚く葉を繁らせた柏の枝の下、昨日の夕立でぬかるんだ細い道にしゃがみ込む。

 子供用ブラウスから伸びた細い腕を抱えれば、夏の夕方の風は、昼間の猛々しさを失って生ぬるく肌に吹きつけた。人肌の温度の風はそのまま湖の上を吹くが、秘密めかした暗い水面のヴェールを剥ぎ取ることはできなかった。

 不意にかけられた「そこで何やってるの」という子供の声が、竜胆に悲鳴を上げて体勢を崩させた。距離を少し置いた木の陰の下に立っていたのは、竜胆と同じ年頃の男の子だった。

 男の子は、尻餅をついた竜胆に手を貸す気配もなく、こちらを見下ろしている。ランニングシャツに短パンで、頭はいがぐり坊主だった。この間、朝の読み聞かせで先生が読んだ、戦争の絵本で見たことのある格好だな、と思った。

 竜胆は自分で立ち上がり、ショートパンツの後ろの泥汚れを見て口を曲げた。男の子は、じろじろと竜胆の顔を見て尋ねてきた。

「ここで何してたの」

「別に、散歩してただけ」

 竜胆は、みっともないところを見られた恥ずかしさをごまかすために、素っ気なく答えた。男の子は、質問を重ねた。

「おまえ、一人?」

「そうだけど」

 竜胆がそう答えた瞬間、男の子が笑ったような気がした。口の端が耳の近くまで切り込んでいるような、声の出ない大きな笑み。

「じゃあ、帰る」

 背を向けて帰ろうとする竜胆を、男の子が呼び止めた。

「おまえ、名前なんていうの」

「竜胆だけど」

 竜胆が振り返ると、男の子は苦い薬でも飲んだように、顔にしわを寄せていた。

「名前に護りが掛けられてる。連れていけないな」

「連れていくってどこに?」

 竜胆の質問に男の子は答えず、代わりにこう言った。

「名前をすぐ教えるなんて不用心だな。山で名前をきかれても、答えないほうがいいんだぞ。どこで何が聞いてるかわからないんだから」

「じゃあ、名前教えてくれないの?」

「おれの?」

「うん」

「おれのことは、いさと呼べばいい」

「自分だって教えてんじゃん」

 小学校の同じクラスには、キラキラネームの子もいたので、「いさ」をおかしな名前だとは思わなかった。

「本当の名前じゃないよ」

「じゃああだ名?」

「そうだよ、あだ名だ」

「ほんとの名前は?」

「だから言わないってば」

「ふうん」

 賢明な竜胆は諦め、「じゃあね。帰るから」と言い捨てて、夕暮れの色が重く立ち込めるなか、来た道を駆けるようにして家に戻った。

 ガイコツ池のほとりで会った男の子とは、それからいくたびも会うようになった。集団下校の途中、先頭集団から遅れて歩いているとき、放課後神社でみんなと遊んでいて、たまたま一人になったとき、気づけば鳥居の陰なんかから男の子に見られているのだ。視線が合うと彼は、「ガイコツ池に行こうよ」と竜胆を誘った。

 しばらくしてから気づいたが、いさは決して竜胆の名を呼ばなかった。語りかけるときは必ず「おまえ」と乱暴に呼びつけた。

「おまえじゃないよ。竜胆だよ」

と竜胆が抗議すると、いさはぶすっとした不機嫌な顔になった。

「おまえ」

「名前で呼ばないなら、何かあだ名で呼んでよ。いさだってあだ名でしょ」

「いいあだ名が思いつかねえよ」

 冬が終わろうとしているころ、ガイコツ池の周りにめぐらされた柵に寄りかかって、いさは言った。

「おまえの母ちゃん、椿っていうんだろ」

 竜胆はびっくりして柵から身を離した。

「母ちゃんのこと知ってるの?」

「昔一緒に遊んだことがある」

 いさは、また例の、耳まで口が裂けたような顔で笑った。

 竜胆の母は、いまは家で寝たきりの生活を送っている。半年ほど前から太郎山の麓の病院に入院していたのだが、一ヶ月前に家に戻ってきたのだ。竜胆には、「病気がよくなってきたから」と説明されたが、少女の目には、母が快方に向かっているとはちっとも思えなかった。

 病院にいた頃は、もっと元気だった。建て増しの結果、病棟が入り組んで迷路に変わり、経費削減のためにあちこちの廊下の電気が消された廊下をたどって、お見舞いに来た竜胆と晶博と父に、果物ナイフでりんごを剥いてくれたものだった。それが、自宅に帰ってきてからは、腕を上げることすら父の手を借りなければできない。好きだった本も開かなくなって、一日中ぼうっとテレビや窓の外を見ている。

「じゃあ、母ちゃんに聞いたら、いさのこと知ってる?」

「うん。でも、言っちゃだめだ」

「なんで?」

「言わないでおいて、あとで驚かしてやるんだ」

「いさは、あとで母ちゃんに会いにくるの?」

「うん、そのうちね。迎えにいくんだ」

「ねえ、母ちゃんに聞いたら、いさの本当の名前わかる?」

「椿だって知らないよ」

「どうしたら教えてくれる?」

いさは、例の笑みでしばらく竜胆の顔を見つめたあと、答えた。

「おまえがおれと夫婦めおとになったら教えてやるよ」

 いさは、ズボンのポケットを探って、取り出したものを竜胆の手に握らせた。いさの手は、汗ばんで熱かった。

「うわあ、すべすべして気持ちいい」

 竜胆は、いさから受け取ったものをてのひらにすり合わせた。それは、骨のような材質で作られた指輪だった。

「それ、結納品だよ。あげる」

「ほんとに?」

 竜胆は満面の笑みになった。いさは、じっと竜胆の目を覗き込んだ。少し風変わりな少年の目は真っ黒で、限りなく深い夜空か海の底を連想させた。

「おまえはおれのところに来るんだ」

「いつ?」

 言い聞かせるようないさの言葉を、竜胆は遊びの約束だと思った。だから、軽率に約束を交わしたのだ。いさは、少し考えるふうに上を見上げた。

「もうすぐ朔だよ。その指輪を持って三日後にまた来て」

「わかった」

「必ずだよ」

「うん、絶対ね」

 竜胆は、「ばいばい」と手を振って、家へと走って戻った。それが、母の亡くなる前日のことだった。

 母の椿が死んで、通夜と葬式を上げるまでの一週間に、一度いさとの約束を思い出したが、きっとほかの友達から、竜胆のことを聞いただろうと思った。通夜をあげて、火葬場に行って、葬式をして、母が段階を踏んで「死者」へと変わっていくたびに、竜胆は泣いた。

 涙を流すごとに、ガイコツ池の友達のことは、不思議と記憶から抜けていった。自宅で通夜を上げるため、家中を大掛かりに片付けたとき、どさくさに紛れて指輪を失くしてしまったことも大きいだろう。よみがえらせるよすがの失われた記憶は、浮き草のように日々の川を流れていき、それからの十年間、竜胆からはけろっと忘れ去られていた。

 納戸の箪笥の引き出しから、例の指輪を掘り出したことが、ガイコツ池の友達の記憶を呼び起こした。

 そして同時に、ガイコツ池の友達がいた頃の日々、その頃の日々にいた母の記憶を一気に思い出したのだった。涙を流すごとに忘れていったのは、いさのことばかりではなかった。まだ小さかった竜胆は、大好きな母親がいた日々の記憶を薄れさせることで、母の死後の新しい生活を受け入れていったのだ。

 先日の熱帯夜、夢うつつのなか寝苦しさで寝返りを繰り返していた竜胆は、夢のうちにひんやりと涼しい場所を感じて、そちらに吸い寄せられていった。

 どくだみの白く咲き群れる、日陰になった家の裏手にあるような涼しさに包まれて、竜胆はうっとりと手足を伸ばした。縁側から遠い座敷の奥の畳に寝転がっているようだ。

 眼前に、墨汁を垂らしたような水面が見えた。行くべき場所もなく、濃藍の水中を亡霊のように行きつ戻りつする金魚の白い腹が、脳裏に浮かんだ。涼しいというよりは薄ら寒い風が吹いて、暗い水面のヴェールをはごうとする。

水の奥から、象牙のような白さの影が、輪郭をぼやけさせつつ緩慢に浮上してきた。唐突に竜胆は、目の裏に浮かぶ黒い水面が、玄関先の狭い水槽などではないことに気づいた。

 どうして気づかなかったのだろう。濃い木下闇をつくる木々、ゾンビの手のように靴底を捕らえるぬかるみ。ここは、幼いころにあれほど通ったガイコツ池ではないか。

 暗い湖面から透けて見える白い物体から、目をそらせなくなる。濃い藍色の水の中で、不思議とそれだけしらじらと淡く発光して見えるそれは、大型動物の骨格だった。

 竜胆は、息を荒くして、祭りの真ん中に立ち尽くす自分自身を見出した。

 友人の鹿島にワインの屋台へと引き立てられつつある若い叔父は、姪の動揺を悟る気配もない。

「なんかぼうっとしてたけど、大丈夫? 水飲む?」

 太夫が顔を覗き込んでくる。竜胆は、拍動の速さと冷や汗を気取られぬよう、必死に息を整えた。屈託なく見えるように意識して、笑顔をつくる。

「大丈夫です。結構しっかりしたお祭りなんですね」

「寮生が常連になってる、この近くの飲食店がお店出してるんだって。あのワインの屋台で、ラッシーでも飲もうか。奢るよ」

「わあ、ありがとう」

 竜胆は太夫について、録音の祭囃子の中を歩き出した。

 こんなことまでして生きなきゃいけないの。

 日に何度も父に注射を打たせ、それでもまぶたを開きもせず、東向きの部屋に横たわっているままの母を見ていた幼い日に、その言葉が胸をよぎらなかったと自信を持って言い切れるのか。そう考えるとき、竜胆の肺の内側を氷塊が滑り落ちる。

 大好きな母が、見慣れない姿へと変わっていくことが怖かった。病んで、死者へと近づいていく母を生に引き留めることに、竜胆はあのとき倦んでいたのではないか。少なくとも、骨に皮がくっついた母の滑りやすい手を離したくないと、しがみつこうとはしなかった。

 小学一年生の自分が、そこまではっきりと残酷なことを考えていたわけはないのに、当時の自分の無自覚な想念に、戦慄する思いが消えないのだった。

 薬の水槽に入れていた金魚のことを、いさに話したことがあった。

 少年は、ふん、と鼻を鳴らした。

「その金魚、かわいそうだな」

 竜胆は、感慨を同じくする者がいたことに、心強さを覚えた。

「おれなら、死ぬまで狭い水槽の中なんてごめんだな。そのうえ真っ黒い水に囲まれて、自分の体も薬で青く染まってくなんて、死にたくなる」

 いさは、身の毛もよだつ、といった口調で吐き捨てた。

 少しでも長生きさせようと薬漬けにしていた金魚は、結局死んでしまった。埋めるために水槽の中から取り出したとき、鱗に走る金色の光沢は失われ、鱗の間に沈着した青の色素と、溺死者のように膨らんだ白い腹が、不気味な対比をなしていた。


第二十話 呪術師と魔術師 につづく

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