第17話 訪問者

 アルバイトの帰りに、駅前商店街の本屋で、好きな漫画の新刊を手に入れた。そのまままっすぐ家に飛んで帰るつもりだったが、ふと思いとどまって、駅に隣接する市民センターに足を踏み入れた。

 正面玄関を入ってすぐのホールは、二階まで吹き抜けになっている。壁は天井までガラス張りで、明るい光が入ってくる。簡単なステージに向かって、木製のベンチが整列しているさまは、教会を連想させる。

 平日の今日は取り立てて催し物がないようで、ベンチには、電車を待つ人や、ただ日がな一日ひなたぼっこをして過ごす老人が、思い思いに腰掛けていた。ホールの片半分には、ボードが並べられており、小中学生の俳句コンクールの入賞作が飾られている。ホールとつながったスペースは、地元の名産品をそろえた物産館になっていて、スーツケースを引いた旅行客がお土産を見て回っていた。

 私は、中央付近のベンチにゆったりと座って、購入したばかりの漫画を開いた。ホールの後ろには、「誰でも自由にお弾きください」と張り紙がされたピアノが設置されている。いまは、ピアノの前に夏休み中の高校生らしい少年が二人いて、そのうちの一人が、流行りのポップスをピアノ曲にアレンジしたものを弾いている。もう一人の少年は、連弾用の椅子を演奏している友人の後ろまで引っ張ってきて、だらしなく座ってスマホをいじっていた。

 三十分ほどして、私が満足して漫画を閉じても、ピアノの音は途絶えていなかった。ときおりつかえながら弾くそのピアノは、上手いと言いきれるものではなかったけれど、私は何だか立ち去りがたくて、背後で奏でられるピアノを聴きながら、ガラス越しの青空を見上げていた。そのホールにいる人々誰もが、ことさらに口には出さなくても、少年の弾くピアノを聴いていた。

 ピアノを聞くともなしに聞いて、大きな白い雲が悠々と流れていくのを見送っていると、この教会に似たホールが一つの方舟になって、通常の時間の岸辺をゆっくりと離れていくような気がした。

「アッキー、こんなところで」

 不意に、知り合いの声で名前を呼びかけられて、私は慌てて姿勢を改めた。

脇に立っていたのは、長い黒髪をお団子にまとめた太夫だった。商店街で評判の肉屋のコロッケを手にしている。太夫と会うのは、半月ほど前のいやおいどんどんの夜以来である。

「中西書店で漫画買って、ここで読んでたんだね」

 太夫は、一瞬で私がここにいる理由を推察すると、ベンチの隣に腰を下ろした。コロッケを頬張る、シャクシャクという音が聞こえて、唾が湧いた。

 太夫は、私の物欲しそうな視線をわざとか無視して、さっさとコロッケを食べ終えてしまった。

「アッキーの家に来る黒猫の写真、送ってくれてありがと。めちゃくちゃ癒された」

「いえいえ。猫の写真くらいならいつでも」

「そうだ。アッキー、何か怪談話とか知らない?」

「怪談話? なんで?」

「毎年、夏休みにうちに習いにきてる子供たち集めて、肝試しと百物語するんだよ。今年はもう、ネタが尽きちゃって、困ってるの」

「ふうん。こないだのいやおいどんどんの話は……、さすがに話せないか」

 私と太夫は、顔を見合わせて苦笑した。

「あ、そうだ!」

 急に勢いづいた私に、太夫が少し引く。私は、陰影を濃くしたおどろおどろしい表情を意識して、低く震える声で言った。

「これは、俺の身に本当に起こった話なんだけど……、たまに俺がいないうちに、誰か知らないやつが家に上がってるみたいなんだ……」

「え、何それ。普通に怖いじゃん。誰かが家に来てる痕跡が残ってるってこと?」

「そうなんだ。竜胆が、誰かが来てることを俺に隠している素振りがあるんだ……。怖いだろ?」

 太夫は、たっぷり三秒ほど私の顔を見つめた。

「それって、ただのボーイフレンドなんじゃない?」

「うわあああ!」

 私は、夜道で幽霊に出会ってしまったような大声をあげた。周りに座っている人が、何事かと私たちを振り向く。

「それって、ただ単に、竜胆ちゃんの彼氏の存在をアッキーが認めたくないだけの話じゃん」

 太夫が私に向ける視線が、ドライアイスのように冷たい。私は、「そんな怖いことを言うな! これは絶対怪談だ!」と激しく抵抗する。太夫は、素っ気なく言い放った。

「はいはい。ねえ、ほかにはないの?」

 私は不承不承腕を組んで、頭の中の怪奇事件簿をぱらぱらとめくった。

「そうだね。そういえば、この間、文学部東館の雑誌閲覧室に行ったら、コピー機の使用記録に、見覚えのない筆跡で俺の名前が書かれてたんだよね」

 今度は太夫の食いつきもよかった。

「あ、そういうのいいね。地味にぞわぞわする」

「自分の名前を書き残したくなかった誰かが、勝手に俺の名前を使ったのかとも思ったんだけど、なんかそれも変だし……」

 太夫は、考えをまとめるように、ジーンズの膝頭を何度か指で叩いた。

「アッキーは、その覚えのない記録に書いてあった雑誌を確かめてみた?」

「うん、まあ。俺が読んでもおかしくない、国語学の雑誌だった。けど、内容には全然覚えがなかったな」

 太夫は、黒々とした目で私を覗き込んだ。

「犯人は、アッキーにその雑誌を読ませたかったんじゃないかなあ。だから、目につくようにアッキーの名前を書き残した」

「ええ? でも、別にこれといって変わった論文が載ってたわけじゃないし。そもそも、なんでそんなまどろっこしいことするわけ?」

「さあ。でも、これからアッキーに必要になる知識が、実はその雑誌の中に載ってたのかもしれない。犯人は、そうと知られないように、アッキーに何かを教えようとしたのかもよ」

 私は、くだんの国語学の雑誌にどんな論文が載っていたか、必死に思い出そうとしたが、数週間前の記憶には容易に手が届きそうになかった。

「あのさ、太夫、その犯人っていうの、怪談っぽくないよ。どっちかっていうと、推理クイズになってんじゃん」

「そう言われればそうだね。でも、近頃の子供は理屈っぽいから、これくらいの話は怖がらずに、真相を解明しようとするよ」

「せっかく人が本当にあった怖い話を提供してあげたのに……」

 ふてくされる私に、太夫はごめんごめん、と笑いながら軽く謝った。

「いい音だね」

 太夫が、ホールに満ちるピアノの音に耳をすませるように目をつぶる。ベンチの上で何度か指を動かした。

 太夫の音楽的才能は大したもので、大抵の楽器は弾きこなせるらしい。ピアノだってきっと、いま演奏している高校生などより、ずっと上手く同じ曲を弾くことができるのだろう。

「太夫はなんでここに?」

「うちに舞を習いに来てる子の俳句が、そこに飾ってあるんだよ。見に行ってあげなって、ばあちゃんに言われたから」

「へえ、よくだに」

 太夫は、ちらっと後ろのピアノを振り返った。演奏する少年の後ろでは、相変わらずその友達が、飽きることもなくスマホを触っている。

「大学に入ってからの友達とは、お互いに気を使いあうことで、居心地のいい時間を過ごそうとするけど、高校の頃は、お互いに気を使わないことで、居心地のいい時間をつくってたな。ねえ、そう思わない?」

 太夫は、高校時代に過ごした時間を思い出すような目をした。

「一番仲のいい友達が、絵を描きたいって言うなら、その間そばにいる私に全然話しかけてくれなくても、いつまでも絵を描いていたってよかったし、逆に自分が、ピアノの練習をしたかったら、自分の気が済むまで、友達を付き合わせていてよかったんだよ」

 太夫の言いたいことは、なんとなくわかった。さっき感じた、通常の時間から切り離されていくような感覚は、中学高校時代、放課後に部活をさぼって、教室で友達とだべっているときの、時間が永遠に続いていくような感覚と似ていた。

 最近よく音楽番組で耳にする流行りの曲を弾き終えると、鍵盤の蓋を優しく閉める音がして、背後のピアノは静かになった。私と太夫は、お互いに顔を見合わせて、ベンチから立ち上がった。

 私も太夫も、駅前までは自転車で来ていた。真ん中を頂点にして緩い坂道になっている荒神橋を、勢いよく自転車で降ると、きらきらと光る浅科川から吹く強い川風が頭を洗って、とても爽快だった。

 前に会ったときと同じように、太夫を家に誘った。須賀神社の鳥居を通り過ぎて、わが家が目に入った瞬間、玄関の引き戸が大きく開いていることに気づいた。嫌な予感がして、胸をどきどきさせながら、庭先で自転車を降りる。玄関に近づくと、中で竜胆が、誰か男としゃべっている話し声が聞こえた。

 こいつがたまに竜胆を訪ねてきているやつか、と直感して、玄関に滑り込んだ。

 ついに現場を押さえた、と確信した私の目の前には、急に家に飛び込んできた叔父にびっくりして目を見開いている竜胆がいた。そして、厚かましくも上がり框に腰掛けていたのは、清潔な薄青いシャツに黒のスラックス、おしゃれなベルトを締めて黒縁の眼鏡をかけた、一見知的な若い男であった。

 私は、爽やかな好男子に指を突きつけて叫んだ。

「竜胆! 鹿島と名乗る男が訪ねてきても、絶対に家に上げるなっつったに!」

「別に家には上げてないよ。玄関でお茶を出してただけじゃん」

「竜胆。こいつに何かしてやる必要はないんだ」

 そう、図々しくわが家で人の姪と話し込んでいたのは、鹿島稔であった。

 やつは、素知らぬ顔で、氷入りの麦茶をすすった。

「よお、おかえり。お邪魔してます」

「お邪魔してますじゃねえよ。お前にもこないだ、いま家には姪がいるから、しばらく来んなって言っただろうが」

「そうだっけ?」

「晶博は、もっと友達を大事にしなきゃだめだよ。ただでさえ人付き合いが悪いんだから。鹿島さん、不束な叔父ですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします」

「いえいえ、むしろこっちがお世話になってるくらいで」

「なに謙遜したふうを装ってんだ! むしろその通りだろうが!」

 鹿島は、うちを第二の荒神寮談話室と考えている節がある。そろそろビシッと厳しく言ってやらねばなるまい、と私はため息をついた。

「晶博も、もっと鹿島さんみたいにきちんとした服装したほうがいいんじゃない。きっと見違えるよ」

 竜胆が、私の上下にじろっと目をくれた。私は、常のごとく、黄色いアロハシャツに緩い短パン、サンダル履きという普段着である。

 鹿島は、形のいい顎の下に長く白い指をあてがって、竜胆の肩を持った。

「そうですねえ。叔父さんは、もとは悪くないんですけど、こう、生かしきれていないというか。どうしても、もさっとしてしまうんですよね。本人のセンスがアレなんで」

「アレってなんだ。おい、お前ら二人で、ここでなに話してた。俺の悪口か」

 そもそも普段は、グレーの無地のTシャツに、大学のロゴが入った運動ズボンという、私以上に手を抜いた出で立ちの鹿島が、こんな爽やかな好男子風ファッションでうちに来るとは、どういう風の吹き回しだろう。私が剣呑な雰囲気を漂わせはじめたところで、後ろから太夫がのんびりと割って入った。

「私は、アッキーの服装好きだけどね。これはこれでアッキーらしくて」

 太夫のことが大好きな竜胆は、意外な訪問客に目を輝かせた。

「でも、自営業のおじさんっぽくないですか? 二十一でこれって」

 かわいい妹分からの訴えに、バランス感覚に優れた太夫は、あっさり私を見放した。

「まあ、中年のカーディーラーっぽいかもね。JKの姪の前ではさすがに、もっと普通の大学生っぽい服装をしてあげたら?」

 私は反論する。

「アロハシャツこそ大学生っぽいじゃんか。なんというか、人生の楽園時代を謳歌してる感じがして」

「まともな大学生は、多分人生の楽園とか言ってられなくて、就活とか勉強とか、もっと忙しいと思うよ」

 太夫にそこまで言われてしまえば、私にはぐうの音も出ない。竜胆が、台所にとって返そうとした。

「いま、由羽さんの麦茶も持ってきますね」

「あ、俺も。俺のもお願い」

 私はしれっと頼む。

「ありがとう。でもお構いなく。私すぐ帰るから」

 太夫が、無表情に鹿島を見下ろした。鹿島のほうは、一瞬、太夫と正面から視線をぶつけたが、ふいっと逸らした。

「あ、そうだ。今晩、寮で夏祭りやるんだけど来る?」

 不意にそんなことを切り出した鹿島を、私は驚いて見返した。

「え、お前、用があってうちに来たの?」

「あったりめーじゃん。用がなきゃ、誰が冷房の効いた談話室から、かんかん照りの荒神橋渡って、こんなとこ来るかよ」

「いや、いつも来てんじゃん」

「近所の飲食店が出店出してくれて、盆踊りとかするんだよ。去年は、地域の子供のいる家族とかも来てくれたんだけど、よかったら、竜胆ちゃんも一緒に」

 鹿島に見上げられると、竜胆は笑顔になった。

「え、わたしまでいいんですか? 大学の寮の夏祭りってすごそうだなあ。晶博、行っていいんでしょ?」

 荒神寮の夏祭りとあれば、反対する理由もない。私は黙ったままうなずいた。

にやっと笑った鹿島は、私の背後に目を向けた。

「櫻田さんもどう?」

 まさか、鹿島が太夫を誘うとは思っていなかった私は、太夫の表情をうかがった。太夫も予想外だったようで、多少驚いた様子だったが、存外すぐに首を縦に振った。

「面白そうだね。盆踊りとか、ちゃんと踊ったことないな」

 変な面子になってしまった、と私は内心頭を抱えた。鹿島と太夫は、表面上は如才なく言葉を交わしているが、わずかな緊張感の漂っていることが、双方と付き合いの長い私にはわかる。


第十八話 荒神寮の盆踊り につづく

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