第14話 怪人(side: 竜胆)

 晶博が学習塾のバイトに行っている昼間に、竜胆は家を出た。

 晶博はちゃんと鍵を持って行っただろうかと思案してから、玄関に鍵をかけ、スニーカーの紐をきつく結び直す。しゃがみこんだ姿勢から立ち上がったときに、頭がくらっとするような感覚を味わった。少し貧血気味だろうか。

 白い半袖のブラウスから出た腕には、しっかりと日焼け止めを塗ってある。病気がちだった母親ほどではないが、竜胆も、日光を少し浴びただけで肌が赤くなってしまう。

 昨夜までの台風が太平洋に逸れていき、空は、爆発したような快晴だった。家々の庭先に揺れる大きな白百合すら暑苦しい。

 いやおいに帰ってきたのは、今年の正月以来だ。竜胆は、荒神橋を渡って一キロほど歩いたところにある市立図書館に行くことにした。東京から持ってきた本は、もう読み終わってしまったのだ。

 荒神橋の上は、歩道の上に置かれた白いタイルが日光を反射して、目も開けていられないほどまぶしかった。自転車を力任せに漕ぐ小学生たちが、歓声をあげながら竜胆を追い越してゆく。

 螺旋階段のついた巻貝のような形の展望台を通り過ぎる。晶博は、この展望台をやけに気に入っていたな、と思い出す。

 いやおいに帰ってきて、晶博の話す方言を聞いたとき、とてもほっとした。東京で学校に通っている間、竜胆自身その存在に気づかないまま、置きどころなく膨らむばかりだった思いが、きちんと収まるところに収まったような気分だ。やはり、中学からの友人もいない寮で生活をすることは、「大変」では足りず、「まあずようじゃあない」し、東京の狭いスーパーで手に取った野沢菜の漬物をおかずにご飯を食べるよりも、自分の生まれ育った家で「ご飯にお葉漬けをかって」食べたほうが安心するのだ。

 家の隣の畑の持ち主が、休みでも関係なく、早朝から草刈り機をうならせて畑仕事を始めるのは、大目に見よう。

 竜胆は朝が弱い。通っている仏教系の高校の寮では、七時前に食堂に集まって、朝のお祈りをしなければならないのだが、入寮した当初は、ひどくつらかった。同室の木崎鶺鴒せきれいも同じく宵っ張りのほうで、愚痴をこぼしあえたのは幸いだった。

 鶺鴒は、彼女曰く理論派BLボーイズラブ愛好家だ。彼女の持論では、同性に対してでも異性に対してでも、人が人に寄せる愛情には、友情、親愛、恋愛の三種類があるという。

「感情を三種類に分類することで、『異性どうしの友情は成立するか』という往年の問いを解決した」

と、科学雑誌に載っている新進気鋭の科学者へのインタビュー記事のように、鶺鴒は、目にぐっと力を込めて主張する。

 彼女によれば、BL小説の登場人物の関係性は、友情、親愛、恋愛の三色を取り混ぜながら推移するという。「友情と親愛成分多め」と鶺鴒から勧められた小説を読んでみたが、日頃BLものを読まない竜胆でも楽しむことができた。

 鶺鴒はまた、重症気味のミステリフリークでもある。

 仲のいい寮生が何人か集まるとときどき、鶺鴒の考案したTRPGテーブルロールプレイングゲームで遊んだ。ストーリーに従いながら、プレイヤーが割り振られた役柄を演じるゲームだ。

 鶺鴒が書くシナリオは主に、殺人事件の謎を解いて犯人を突き止めるというミステリだが、最高傑作はなんといっても『氷島殺人事件』である。

 登場人物たちは、「氷島」と呼ばれる孤島の館に滞在している。稀覯本の収集家だった館の主人が亡くなったので、館の書庫に眠る貴重なコレクションを譲り受けに来たのだ。

 しかし実は、登場人物たちは、館の主人を殺害した犯人によって強力な催眠術をかけられており、本来の人格や社会的立場とは異なるそれを自分のものだと思い込まされているのだ。

 実際には、館の主人は、ゲーム冒頭の時間よりも以前に殺害されている。彼らは本当は、殺人事件の捜査のために館を訪れた刑事や、事件に居合わせた関係者たちなのだ。一度めに主人殺害の犯人が割り出された瞬間、その場の人物はみな犯人によって強い暗示をかけられた。犯人は、館の主人のほかに、殺したい相手がまだ三人いたからだ。

 登場人物の中には、主人殺害の真相を一度は解いた、超人的な推理力を持つ探偵が一人だけいる。しかし、探偵本人ですら、自分が本当は探偵であることも、事件の真相も忘れている。事件解決のためにはまず、探偵を見つけ出さなければならない。探偵が、自らが探偵であることを知ったとき、事件の真相を解く大きな手がかりが得られるようになっているのだ。

 催眠術に惑わされ、自らを古書コレクターだと思い込んでいる登場人物たちの前で、萩原朔太郎の詩をモチーフにした第一の惨劇が起こる。

 このゲームで厄介なのは、たとえ犯人がわかったとしても、それと悟られぬように犯人を追い詰めて捕まえなければ、ゲーム終了にならないところだ。犯人には、全員に再び暗示をかけて真相を忘れさせることが可能なのだから。逮捕に失敗すると、犯人は、悠々と「遠いさびしい大理石の歩道を」「いつさんにすべつて」逃亡してしまい、ゲームオーバーとなる。

 『氷島殺人事件』の一番の特徴は、何度も遊べることだ。

「いくつかある事件の中から、一回のゲームのために選ぶのは三つ。三つの事件の選び方と起こる順番によって、犯人も変わるよ」

と、鶺鴒がにこにこしながら説明したとき、こいつは天才か、と竜胆は驚愕した。探偵や刑事の役柄カードは、催眠術によって犯人から与えられるキャラクターとは独立しているので、『氷島殺人事件』は、非常に多くの平行世界を持っていることになる。

 「五月の死びと」、「雲雀料理」、「酒精中毒者の死」、「竹」……。萩原朔太郎の作品のタイトルがつけられた事件群のなかで、特に印象的だったのは、「天上縊死」だ。

 氷島に立つ館は、巻貝のような不思議な形をして、一番下の部分は、船を受け入れられるように、海中に水没している。海面より少し高い位置にある玄関ホールに一歩足を踏み入れた登場人物たちは、戦慄すべき光景を目にする。

 ゲームマスターの鶺鴒が、萩原朔太郎の詩を朗読するきれいな声が、竜胆たちプレイヤーを陰惨で華麗な物語の世界へと引き込んだ。

「遠夜に光る松の葉に、懺悔の涙したたりて……、遠夜の空にしも白ろき、天上の松に首をかけ……」

 朝の光に明るく照らし出された大理石の床に、ポタポタと水が垂れる。

 目線を上げるまでもなく、頭を垂れた男が、天井から吊るされている。その体はぐっしょりと海水で濡れて、まごうことなくこと切れていた。


  天上の松を戀ふるより、

  禱れるさまに吊されぬ。


 鶺鴒は、この夏休みは帰省せず、寮に残るつもりだと言っていた。今頃、相部屋を悠々と占領し、山と積んだBL小説を読みながら、次のゲームシナリオの構想でも練っているのだろう、と竜胆は親友に思いをはせた。

 少し迷ったが、我慢できずに、荒神橋を渡ってすぐのショッピングモールに寄り道し、冷たくて甘いシェイクを買う。冷房のよく効いた店内を、意味もなくぶらぶらしてみた。午前中で部活を上がった中高生が、ジャージ姿でショッピングモールをうろつく姿が目立つ。

 ショッピングモールを出て、ストローで残さずシェイクを吸うことに夢中になっているうちに、市立図書館についた。市立図書館は二階建てで、一階が開架、二階が広い閲覧室になっている。そろそろ建て替えてもいいような古い鉄筋コンクリート建てで、晶博がよく遊びに行く荒神寮とどっこいどっこいの築年数に見える。

 図書館のエントランスの前を、四、五歳の子供と麦わら帽子のお母さんが走っていった。はしゃいでとてとてと先を走っていってしまう子供を、帽子をかぶせようとお母さんが中腰で追いかける。

 図書館に入ってすぐ、嗅覚の鋭敏な竜胆は、内部に漂う芳香剤の匂いに眉を寄せた。だが、人工的なその匂いすら懐かしい。児童書のスペースで、最近また読み返したくなった和製ファンタジーを手に取る。

 小中学生の頃に読んで、今でも大好きな本は、自分の今の考え方に大きな影響を与えていると思う。どんなものでも当たり前ではあるが、その本を初めて読むという体験が一度きりであるということは、なんと恐ろしいのだろう。竜胆には、その後の物の考え方を変えてしまった本が、何冊かある。その本と出会ったのが、一回だけの過去のその時だったことは、はたして正しかったのだろうか。その本と出会うのが以前のある時ではなく、今であったとしたら、もっと前に出会っていたらよかったのに、と後悔しただろうか。それとも、あの時出会っていなくてよかった、もし出会ってしまっていたら、人生が変わってしまっただろうから、と安堵しただろうか。

 児童書スペースを見て回るだけで、両手にいっぱい抱えるほどのめぼしい本が見つかってしまう。とりあえず書架に返して、二階の閲覧室を覗いてみることにした。気をつけて足を下ろさないと、二階への階段はひどく大きな音を立ててきしむことを忘れていて、静かな図書館に響いた音に竜胆は身をすくめた。

 閲覧室には、夏休みの宿題を片付けに来ている高校生と、いやおい市史などの分厚い史料を何冊も広げてメモを取っている老人などが散らばっている。南側に開いた窓の外に、鬱蒼と緑の葉を繁らせる桜の木が迫っている。竜胆は、木の長机に座って、階下から一冊だけ持ってきた外国の絵本作家の画集を開いた。

 春と夏は、不審者が跋扈する季節なのだそうだ。中学校の学年主任から聞いた、不審者の話を思い出す。額も禿げ上がったその学年主任が、黒々とした豊かな髪を自慢にしていた受験生時代、市立図書館の二階で勉強していてふと、窓の外に目を向けた。

 桜の花の満開の中、高い枝の上に中年男がいた。さらに、男は、閲覧室で勉強する学生たちに見せつけるように、どこかから折り取ったのか、花の咲いた枝で歯をごしごしと磨きはじめたのである。

 市立図書館の閲覧室に来ると、爛漫たる桜の中の幻想的なようでばかばかしく、異常な情景を思い浮かべずにはおれない。

 夕立が来る前に帰ろうと、画集を閉じて席を立つ。閲覧室前の廊下のソファに、全集本を膝に乗せている青年が座っていた。閲覧室を出てきた竜胆の気配に、青年が顔を上げる。

 目が合った。

 その途端、竜胆は恐怖の叫びを上げそうになった。青年の黄色っぽい顔を一目見た瞬間、「あのとき」と同じ人だと悟った。青年も、竜胆が「あのとき」と同じ娘だと気づいただろう。

 青年の視線から引き剥がすように目をそらして、早足だと気づかれないように階下に降りる。本を借りる余裕もなく、自動ドアから外の世界へ飛び出した。

 怖い話ではしばしば、妖怪と目を合わせてはいけない、と言われる。目を合わせれば、存在を認めてくれたと喜んだ「それ」がついてきてしまうから、と。

 中学二年生の冬、学校帰りに駅前図書館に寄ろうとした竜胆は、図書館の入ったビルの前に一人の少年がいて、ときどき通行人の顔を覗き込むようにしているのを見つけた。彼が同じクラスの男子のように見えて、竜胆は、もっとよく見定めようとその少年をじっと見つめた。

 目が合った。

 竜胆は、少年が、自分の知る人物ではないことに気づいた。こちらを無表情に見つめてくる少年の脇を通り過ぎて、ビルに入る。図書館のカウンターで本を返して、書架に向かった。

 そこで竜胆は、ビルの前の少年も図書館に入ってきたことに気づいた。竜胆が書架の間を歩いていると、くだんの少年と何度もすれ違う。少年は、すれ違うときに何かぼそぼそと口にする。最初は気のせいかと思ったが、間違いない。少年は、竜胆とわざとすれ違い、その度に何かを不明瞭な声でつぶやいていくのだ。

 竜胆は怖くなって、本を借りないまま図書館を出た。なるべく早くエスカレーターを降りて、すでに夜の暗さになっている外を歩き出す。少し歩いたところで、少年が竜胆に体をすり合わせるように追い越していった。少年は行く手で折り返してきて、正面から竜胆とすれ違うと、聞き取れない言葉をつぶやいた。

 竜胆は、車道を横断して、反対側の歩道に移った。それでも、後ろを振り返ると少年はついてくる。少年は、再び竜胆の脇すれすれを通って追い抜かすと、また正面から歩いてきた。

 そのストーカー行為が続いたのは、せいぜい何百メートルほどだっただろう。だが、竜胆にとっては恐怖に満ちた長い時間だった。少年がどれだけ近くを通り過ぎても、竜胆はもう少年には一瞥もくれず、ただひたすら前を向いて早足に歩き続けた。向こうも走って追いかけてくるのが怖くて、走り出すことはできなかった。

 荒神橋を渡る間際になって、おそるおそる振り向くと、もう少年は姿を消していた。それでも気を抜かずに、歯を食いしばって歩いていると、誰かから「おーい」と呼ばれた気がした。

 左右を見渡すと、国道を挟んで向かい側のコンビニの駐車場に、こちらに向かって手を振る人がいる。それは、同居している六歳上の叔父に見えた。竜胆は少しほっとしたが、国道の車の往来は激しく、横断歩道も遠かったので、晶博に合流することよりも家に帰ることを優先した。何より、壁のあるところにいますぐ逃げ込みたかったのだ。こちらに手を振る晶博は、コンビニの黄色い光を背にして、水の中にいる人のように何だか姿が揺らめいて見えた。

 多分、そこで車道の光の河を渡らなかったのは正しかったのだ。

 玄関を開けて、ただいまも言わずに飛び込むと、居間から「竜胆、おかえり」と晶博が顔を覗かせて、竜胆を慄然とさせた。コンビニの駐車場からこちらに向けて手を振っていたのは、叔父ではなかったのだ。

 駅のビルの前で不審な少年と目を合わせてしまったときから、奇妙で不穏な世界に足を踏み入れてしまったようだった。

 あのときから二年が経つが、竜胆は今でも、外を歩くときに知らない人と目が合うのが怖い。うっかり目を合わせてしまったときは、しばらく早足に歩きながら、背後の様子を探ってしまう。

 竜胆は、市立図書館を出ると、日差しの暑さを感じることもないまま、急ぎ足で荒神橋に向かった。黄色っぽい顔、やけに印象的な目、二年前の少年に違いない。

 竜胆は、背後から荒い息が近づいてくるのを絶望的な気分で聞いた。

 青年は、体がぶつかりそうな近さで竜胆を追い越すと、少し先でUターンして、再びすれ違った。意地でも青年に目を向けない竜胆の耳に、ぼそぼそした声で何事かをつぶやいていく。

 それが限界だった。竜胆は、後ろを振り返らずに駆け出した。いつもよりずっと早く息が上がる。

 橋の半ばで振り返ると、白昼のまぶしい橋の上に青年はいなかった。何とか振り切ることができたらしい。

 家まで走って帰り、玄関に内側から錠を下ろしてようやくほっと息をつく。

 青年は、竜胆とすれ違うときに何をつぶやいているのだろうか。きっと意味のない言葉だとは思うが、それを聞き取ることができないことを、半分残念に感じ、半分安心する。

 町を散歩することが、行き合う書物を順番に開いていく行為にたとえられるとしたら、竜胆にとっていやおいの町中は、思い出深い本を含む数万冊もの書物を収めた広大な図書館だ。しかし、いやおいという怪奇趣味の図書館では、手に取った本を開くと、折り紙で折られたバネ足蛙が飛び出して、ときおり人を脅かす。竜胆はどうやら二年前のあの日から、いやおいに仕掛けられた、趣味の悪いいたずら装置に逆感知されやすくなってしまったらしいのだ。

 無意識に、薬指にはめた乳白色の指輪を触っていた。ひんやりと滑らかなその感触に、だんだんと気が鎮まってくる。

 密閉した箱の中で勢いよく揺すられたゴムボールのように、ずっと跳ねっぱなしだった心臓もようやく落ち着いてきた。

 冷静な頭で市立図書館から家までの帰り道のことを思い返してみると、奇妙なことに気づいて、心が冷える。帰りに渡った荒神橋で、巻貝に似た展望台を目にした記憶が、どこにもないのだった。


第十五話 早春火葬 につづく

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