第12話 ホームの怪

 高校二年生の夏休み、書道のコンクールでたまたま賞を取った私は、名古屋で開かれる授賞式に向かうため、いやおい駅のホームにいた。

 空は快晴で、朝は早いがすでに気温は高い。いやおいから名古屋までの直通電車はなく、いやおい駅から私鉄で三十分ほどの駅で、名古屋までの特急に乗り換える。

 私は、ホームに降りる階段のすぐそばのベンチで本を開きながら、頻繁に腕時計を確認していた。同じく賞を取って授賞式に一緒に向かうはずの書道部の後輩が、なかなかやってこないのである。彼女は時間にルーズなことで定評があるので、電車の時間ぎりぎりにやってくるのだろうと思ったが、それにしても遅い。アイスの自販機とベンチの間を行ったり来たりして、ホームを探してみたが、後輩の姿はない。小説と腕時計を代わる代わる見ているうちに、とうとう電車が来てしまった。

 当時の私は携帯電話を持っていなかったので、後輩に電話をかけることもできず、とりあえず電車に乗り込んだ。違う駅から乗ってくるかもしれないと思ったからである。

 先頭車両を見回しても、やはり後輩は乗っていなかった。私は椅子に座って、落ち着かない気分のまま本を開いた。

 降りる駅の二、三駅ほど前まで来て、私はふっと小説から顔を上げた。すると、驚いたことに、同じ車両のドアのところに、探していた後輩が立っていたのである。私が呼びかけると、彼女もとても驚いた顔をしていた。

 指定席を取っていた特急に間に合うことにほっとしながら、私は後輩に「どこから乗ってきたの?」と問いただした。後輩の答えは、私を唖然とさせた。「いやおい駅ですよ」

 私はびっくりしながら、ホームのどこにいたの? ときくと、彼女は「階段降りてすぐのベンチにずっと座ってましたよ」と答える。いやおい駅のホームに、階段は一つしかない。そして、私だってそこに座っていたのだ。しかし、後輩は嘘をつくような人間ではない。

 彼女も私も、同じ場所にいたはずのお互いを、見つけることができなかったのだ。まるで、同じ時間、同じ場所に、異なる二つのホームが存在したかのように。

 私が、自分の不思議な体験談を話すと、鹿島は「授賞式ってことは、後輩は普段と違うセレモニー用の服を着てたんでしょ? 確かお前の高校、制服がなくて私服制だったよな。それで見違えたんじゃないの?」と、簡単に言った。

「でも、彼女は俺が座ってたのと同じベンチにいたって言ってたんだよ。いくら何でも気がつくよ」

「階段脇のベンチじゃなくて、エレベーターの横のベンチとかだったんじゃね? 記憶違いでしょ」

 私の反論にも、鹿島は耳を貸さない。この世には、説明できない事象など何もないと考える、徹底的なリアリスト。それが鹿島稔という男である。

 私は、やつを説得するのを諦めて、車窓に視線を送った。だんだん夕方の黄色に染まっていく光に、田畑とため池が照らされている。二両編成のローカル電車は、かなりの急カーブを、車体を傾けて切り抜ける。片目の魚の伝説を取材するため、いやおい市の南方、鹽田に行ってきた帰りだった。

 正直、鹿島がまだ片目の魚にこだわっているとは思わなかったので、鹽田の寺に行こうと誘われたときは、かなり驚いた。

「原稿を頼まれたからには、適当な仕事はしないよ。編集者の仕事にもつながるしさ」

 鹿島は、来年から東京で就職する。三回生の夏頃から、インターンだウェブテストだ集団面接だと騒いでいたが、先ごろ大手出版社から内定が出たらしい。いまは、就活と卒論執筆の間の、余裕のある期間というわけだ。ちなみに私は、学部の卒業後は大学院に進学する予定である。

 鹿島は、ため池の反照に目を細めた。Tシャツの首元につるを引っ掛けていたサングラスをかける。やつは今日も、無地の灰色のTシャツに大学のロゴが入ったスウェット、サンダルという無気力なファッションである。加えてサングラスまでかけると、胡乱な雰囲気が漂う。

「鹽田は降水量の少ない地域で、昔からため池を作ってたらしい。だから、河童とか人柱とか、ため池に関する怪談も多いよ。雨乞いのための人身御供の伝説もな」

「今日行った寺の年中行事にも、雨乞いが載ってたな」

 私と鹿島が訪れた寺の裏の庭に、片目の魚が棲むという伝説の池があった。庫裏の裏手はすぐに山になっていて、山陰の池に光が差すのは、一日のうちでもわずかな時間だけのようだった。清い流れが立てるちゃぷちゃぷという音だけが響く、静かでひんやりとした場所だった。

 池の水面を覗き込むと、餌をくれると思った鯉が何匹か寄ってきたが、普通の鯉と異なるところは特に見受けられなかった。当然、目も二つある。

 山の斜面に、石灰岩がむき出しになっている部分があり、そこに小さな子供なら入ることができそうな洞窟が口を開けていた。池を満たす水は、その真っ暗な洞窟から流れてきている。住職から聞いたところによると、石灰岩の水路の先には、かなり大きな地下湖があるのだという。

「片目の魚伝説の謎は解けたな」

 鹿島は、サングラスを外してTシャツの襟に引っ掛けた。

「日の差さない地下の湖に棲んでいる魚は、目が退化しているんだろう。地下湖の魚が、ときどき水路を通じて、寺の池に迷い込むんだな」

 そうかもな、と私は応じた。片目の魚の正体は、本当に、目が退化した魚なのかもしれない。しかし、片目の魚が妖怪ではないと証明することは、伝説を解き明かす過程の半分でしかないのだ。山から寺の池にときどき降りてくる目の白濁した魚を、片目の魚として伝えた人々の精神性を解明することにこそ意味がある。片目の魚には、片目片脚だという山の神の使い、そして、片目を潰された雨乞いの生贄のイメージが込められていたはずである。

 私たちの乗る電車は、夏の長い日も終わりかけた頃、いやおい駅のプラットホームに滑り込んだ。

 城の反対側の入り口を出て、浅科川に沿ってしばらく歩いて、ごく普通の住宅街に入る。日差しが弱まってきたからか、家の前の道路では、子供たちが奇声を上げながら縄跳びやキャッチボールをして遊んでいる。足元のアスファルトに、パステルカラーのチョークで動物の絵が描かれている。どこかの家から、風鈴の澄んだ音が聞こえた。

家々の間から奥に向かって伸びた、地面がむき出しの道をたどると、鎮守の森に守られた神社に突き当たる。荒神さまである。

緑に茂る欅の背後に立っているのが、四階建ての横長の建造物である。一見廃墟だが、よく見れば内部の廊下には電気がついているし、新しそうな洗濯物も干されている。しかし、普通のアパートやマンションにしては、落書きだらけの壁や割れた窓ガラス、雑草だらけの庭といった荒み具合が、度を越している。だが、隣をサンダルでぺたぺた歩く鹿島は、当然のような顔をして、その怪しい建物の立つ敷地に入っていくではないか。

 通りに面した門柱には、杉の板に毛筆で、我らが大学名とともに「荒神寮」と恥ずかしげもなく記されている。

 そう、学生向けの清潔感のあるアパートとは対極にある、この荒涼とした学生寮こそが、鹿島の家である。

 周りから柵で隔てられたジャングルのような広い敷地に建つ三棟の建物には、四五○名余りの学生が住んでいる。

 大学で荒神寮のイメージを尋ねれば、三十分もたたないうちに、あらゆる学生から「留年」「危険」「やばいやつら」などという、好ましくないワードをふんだんに含んだ回答を得ることができるだろう。

 鹿島を通じて知り合った荒神寮生は、確かに留年率が高いようである。荒神寮は、大学から長い橋を一つ隔てた川の向こう側に立っている。雨の日には大学に行かないという怠け者寮生の発言はよく耳にする。

 荒神寮はかつて、学生運動の拠点だった。大学当局に刃向かう運動を組織だって行っている者は今でもおり、寮にはしばしば機動隊による家宅捜索が来る。「危険」というイメージはそのせいで形成されたのだろう。

 荒神寮は、寮の管理や運営を学生自身が行う、自治寮である。大学当局の介入をなるべく退け、当局の指示にも容易には従わないスタンスが、寮外の学生の目には「やばいやつら」と映っているのかもしれない。

 私にとって荒神寮は、左翼も右翼も政治に興味のない人も、寮が大好きな人も嫌いな人も、友達として一緒に暮らすことのできる、自由な空間である。内部には、寮生たちが何十年もかけて構築してきたルールや寮運営のシステムが機能している。寮に住む人々は、寄宿費水光熱費込み四一○○円/月という破格の家賃に惹かれて入寮してきた、ちょっと貧乏でたくましく、議論好きな大学生である。


第十三話 荒神寮の寮生たち につづく

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