第10話 世界樹のうろ

 幸四郎君は、私たちにさっと背を向けて、暁天を追いかけていってしまった。

 太夫が私の腕をつかむ。

「幸四郎君を止めよう、アッキー。彼に暁天を捕まえさせちゃいけないよ」

 幸四郎君が去ると、周りの景色はまた元の通りに戻った。私は走りながら腕時計を確認する。いやおいどんどん終了まで、残り十分を切っていた。

 私たちが走っていくと、城北小四年一組のみんなは、商店街のじまんやきの店の前を通り過ぎるところだった。じまんやきは、大判焼きとよく似たお菓子で、生地の中にはカスタードクリームもしくは小倉あんがたっぷり詰まっている。いやおい市民の大好物であり、日頃から店の前には行列と路上駐車が絶えない。

今日も、店舗のガラスのウィンドーの向こうでは、数人のおばさんがせっせとじまんやきを焼いている。子供たちは音楽に合わせて体を振りながら、甘い匂いにつられてウィンドーにちらちらと視線を送っている。

 スピーカーから、ローカルラジオの女性アナウンサーが「それでは、いやおいどんどん最後の演奏です!」と告げる。その直後に、また演奏が最初から始まる。

「暁天はどこ?」

 私がぜえぜえ肩で息をしながらきくと、息一つ乱していない太夫が、「あそこ!」と指差した。

 アニメキャラクターのお面をつけた暁天は、クジラの山車に近づこうとしていた。私たちからは、クレープの屋台に並ぶ長い行列で隔てられている。

 幸四郎君が、すごい形相で暁天に追いすがった。突風が吹きすぎたように、頭上に連ねられた提灯が大きく揺れ、屋台の幌がまくれ上がり、捨てられたプラスチックの容器が巻き上げられる。その一瞬で、幸四郎君は暁天の肩に手をかけられる位置まで近づいていた。

「約束を果たせ」

 しかし暁天は、長い襟足を揺らして幸四郎君の手をすり抜けた。幸四郎君の目がつり上がる。

 男性シンガーが、豊かな声で最後の歌詞を歌い上げた。踊りの列から、歓声と口笛が上がる。

 私と太夫は、がくっと立ち止まり、安堵の息をついた。お祭りが終わったのだ。これで暁天の勝ち、幸四郎君の負けである。

 しかし、顔を見合わせて気の抜けた笑みを見せ合った私たちのそばで、誰かが「アンコール!」と叫んだ。

 ぎくっと肩を震わせる私たちに構わず、アンコールの声は拍手を伴って、次第に高まっていく。きっと毎年のことなのだろう。スピーカーの向こうのバンドはもう、期待を煽るようにギターを爪弾いている。私と太夫の願い虚しく、アンコール演奏が始まった。

 陰惨な顔つきをした幸四郎君が、顔を伏せて何かつぶやいた。躑躅姫、という単語がわずかに聞き取れる。

 先ほどとは比べ物にならない強風が吹いて、人々は一瞬ざわめいた。スピーカーの唄にもざざ、と雑音が入る。どこから吹き飛ばされてきたのか、風の中に混じる火の粉が、薄く開いた目に、狂い舞う赤い躑躅の花のように見えた。

 暁天は、風に阻まれて一歩も前に進めなくなっていた。風で髪を逆立てた幸四郎君は、幽鬼のように暁天に歩み寄り、その細い手首をつかんだ。

「捕まえた」

 その瞬間、アンコール演奏が終わった。

 熱狂した人々は、どっと湧いた。調子に乗った誰かが、爆竹を鳴らす。誰もが真っ赤な顔をして、手に持ったうちわや鳴り物を鳴らしていた。

 幸四郎君は、暁天の手首をへし折ろうとするかのように、強く握りしめた。

「おれの勝ちだ。世界樹のうろへ連れていけ」

 ところが暁天は、幸四郎君の勝利宣言を聞いて、ヘっ、と吐き捨てた。

「おれには世界樹への入り口なんぞ開けんぞ。躑躅姫にまんまとガセネタをつかまされたな」

「そうか。じゃあ役に立たないお前を躑躅姫のもとに連れていって、八つ裂きにしてもらうだけだ」

 幸四郎君の目がすっと怖くなった。暁天が、うげ、とかうぐ、とか妙な声を上げて黙り込む。

 とうとう神仙は、短パンのポケットからお札のようなしわくちゃの紙を渋々取り出した。反対側のポケットから出した百円ライターで、お札に火を付ける。めらめらと燃え上がった拍子に目に触れた薄赤い紙の表面には、空目かもしれないが、「ゆぐどらしる」と墨で書かれているように見えた。

 私たちのすぐ横、道路脇のお地蔵さまの扉がゆっくりと開いた。

 中は暗闇だが、底のほうがほのかに光っているようだ。祠の奥は、想像もできないほど深く広大な空間とつながっているのではないかという気がした。ゴオオォという不穏な風の音が耳を打つ。隣で太夫が寒そうに腕を抱いた。私も、祠の向こうの無辺の広がりの予感に鳥肌が立っていた。

 炎の舌になめとられたお札の灰を、暁天がふうっと幸四郎君に吹きかける。

 驚くべきことに、灰の風が触れたところから、幸四郎君の体が淡く薄れていくように見えた。同時に、幸四郎君の姿が周りの景色からわずかにずれていく。まるで、水族館の分厚いガラス壁と大質量の水によって隔てられているようだ。

「これで母さんに会いにいける」

 幸四郎君は、嬉しそうに笑った。すでにジャージに書かれたハンドボール部という字はかすれて読めなくなり、顔は漂白したように色を失っている。異次元に引き込まれていく幸四郎君を、暁天はにらみつけたが、もはやなすすべがない。

 私も太夫も、唇をかみしめて消えていく幸四郎君を眺めるしかなかった。

 近くのスピーカーが、ジジ、と音を立てた。ついで、男性ボーカルが意気揚々と、いやおいどんどんの最初の歌詞を歌い出すのを、その場の我々は身を固まらせて聞いた。

 幸四郎君が、愕然と目を見開く。

「どういうことだ!」

 スタンドプレーだったのか、ボーカリストは少しの間独唱していたが、すぐにドラムやトランペット、ギターが重なった。男性ボーカルの声には演奏に加わらずにはいられない、不思議な魅力があったのだ。魔法の歌声とは、こういう声を言うのだろうか。

 暁天はにやりと笑い、指揮者のようにさっと腕を一振りした。たったそれだけの仕草で、幸四郎君と現実の風景を隔絶させていたゆがみがかき消える。幸四郎君は、深い水から浮き上がってきた人のように、ごほごほと咳き込んで胸を押さえた。

 スピーカーからは、いやおいどんどんのパワフルな歌が流れている。歌が再開したことにざわめいていた人々も、再び笑顔で踊り始める。

 暁天が、ネズミを見つけた猫のように駆け出した。目指すはもちろん、クジラの山車だ。

「待て!」

 幸四郎君が、暁天の背中に手を伸ばした。そのつり上がった目が、一瞬赤く光ったような気がした。

 私は咄嗟に、幸四郎君に向かって、手元の電球ソーダを投げつけていた。七色にぴかぴか光る物体が目の前に飛んできた幸四郎君は、さすがに驚いてぱっと手ではねつける。彼の注意が逸れた隙に、暁天はリアカーに手をかけていた。

 片手で弾みをつけて、暁天がリアカーの上に飛び乗る。山車に貼った障子の一つをガタリとはずして、中に飛び込んだ。そして、周りの誰も気づかぬうちに、障子を戻してぱたん、と閉めた。

 幸四郎君が、駆け寄って山車につかみかかろうとしたが、威力の大きな静電気が走ったかのように、即座に手を離した。幸四郎君が、なんとか山車に触れようとしては弾かれる間に、男性ボーカルはいやおいどんどんの唄を歌いやめた。

「いやおいどんどん、グランドフィナーレです!」

と、ローカルラジオのアナウンサーが、声を張り上げる。沸き起こる拍手と歓声の中で、幸四郎君が、どん、と膝を叩いた。


第十一話 取り返せないもの につづく

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