第8話 鯨と躑躅姫のゲーム

 駅前に近づくにつれて、いやおいどんどんの唄が大きくなってきた。いやおいどんどんは、地区や企業の団体ごとに作った連が、山車を引いて踊るお祭りである。地域復興を掲げて平成の初めに作られたお祭りで、今年で二十数回目を数える。

 お祭り開始を待つ踊りの連や、屋台目当ての客でごった返す駅前に着いたのは、午後六時ごろだった。

 車道にひしめく踊りの連で目立つのは、小学生以下の子供たちである。揃いのTシャツには地区名や、城下小学校五年三組などと書かれている。踊りの連から目を移すと、家族連れや数人で固まっている中高生、若いカップルなどがそぞろ歩いている。

 駅前は車の通行が封鎖されて、特設の舞台が作られていた。舞台の上では、いやおいどんどんの唄を生演奏するバンドが、楽器の調律をしている。中高年が多いメンバーの中で、マイクの調整をしているボーカルらしき長髪の若い男が目についた。

 商店街のいたるところに設置されているスピーカーからは、ローカルラジオ局の看板アナウンサーが、生放送で祭りの様子を伝えている。

 駅前からまっすぐ北に伸びる商店街と、東西に交差する道の両側は露店で埋め尽くされていた。商店街の店やコンビニが、特設の屋台を作ってビールや焼き鳥を売っている。

 緩い坂道になっている駅前のメインストリートを上っていると、前方から降ってくる中学生の一団が目についた。運動部らしい髪の短い女子中学生たちで、一様に甚兵衛を着て、アイラインを強調した化粧をしている。その中のなんだか見覚えのある一人が、「あっ」と大声を出して私を指差した。

「先生! 彼女と歩いてる!」

 午前中に、英語を教えていた中三の女子生徒である。

 私は、反射的に顔を赤くしてしまってから、それをごまかすようにしかめっ面になった。

 彼女たちは笑いさんざめき、私と太夫を振り返って指差しながら、人の波に押されるようにして駅へと降っていった。

 私は、はあっと肩を落とす。

「なんかごめんね、太夫」

「別に気にしないよ」

 太夫は、機嫌よさそうに笑う。酒呑みの彼女は、早速屋台で買ったビールを片手に持ち、頰を染めていた。

 近くのスピーカーから、アナウンサーのお姉さんの明るい声が響いた。

「六時半まであと一分を切りました! いやおい駅前では、演奏の開始を今や遅しと待つ踊りの参加者の皆さんによって、カウントダウンが始まっています。今年も市役所前では、踊りと山車の審査が行われます。審査員席には、いやおい市長、駅前商店街の自治会長、いやおい市商工会長が座っています。さあ、お祭りの開始まで十秒を切りました!」

 誰もが、団扇やかき氷を手に手に、興奮で顔を赤く染めている。周りの熱量が一気に高まる。

「五、四、三、いやおいどんどんスペシャルバンドの皆さん、演奏をお願いします!」

 アナウンサーの語尾にかぶせて、高らかにトロンボーンが鳴った。心を躍らせずにはいられない男性ボーカルのパワフルな声が、いやおいどんどんの唄を歌う。踊りの連から興奮の歓声が湧き上がり、一斉に踊りが始まった。これから祭りが終わる九時まで、人々はノンストップで踊り続ける。

 太夫と私は、人の波に流されながら商店街を上り、メインストリートと垂直に交差する大きな道を右に折れた。道の両脇に連なる屋台と人の群れは、地の果てまで続いているように見える。

 屋台の列に埋もれるようにして、寺社のお堂の形をした祠がひっそりと立っている。その扉の中にあるのは、石の上に顔を描かれたお地蔵さまである。浅科川の北側である城下では、家や店ごとにお地蔵さまを祀り、毎日大切に世話しているのだ。祠の木の格子の前には、梔子の枝が供えられ、白い花びらから甘い香りが流れてくる。

「ねえアッキー、何食べようか? 焼きそばも美味おいだれ焼き鳥もあるよ。でもまずは、もう一杯ビールが欲しいなあ」

「あっちで生ビール売ってるよ。でも対岸だから、行けないね」

 視界には、カラフルでポップな幕によって客の目を引く様々な露店が展開する。タピオカジュースやフルーツ飴、金魚すくい、広島焼きのようなメジャーなものから、干し柿や竹まな板を売るマイナーな屋台まである。

 日本の各地で一律に見られる縁日の風景と、有名な台湾の夜市が融合したような景観である。一見普通の大判焼き屋台の宣伝文句にはなぜか、「腰痛、リウマチ、肩こり、慢性胃痛」と病気の名前がずらずらと並んでおり、漢方薬でも売っているのかと通行人を二度見させる。「メラ博士の百発百中手相占い」と書かれた怪しげな屋台には、意外なほど長い列ができて、先頭の客が謎の箱型機械に片手を押し当てていた。

 ありふれた金魚すくいの文字と、赤と黒の小さな魚たちがおもちゃのように回遊する水槽が目に触れた。底の浅い水槽の周りでは、子供や娘たちが、ポイを水に浸して引き上げるたびに一喜一憂している。透明な寒天の中に閉じ込められたような赤と黒の美しい斑点に、懐かしい目を向けている自分を自覚して、私は慌てて目をそらした。

 視線をほかにやってから、自分の心の動きに羞恥心を覚えた。これではまるで、金魚すくいの屋台に視線をとめたことすら、誰かにはばかったみたいだ。

 昔からわが家は、家族がお祭りの屋台で取る金魚取る金魚、ことごとく死なせてきた。屋台ですくってきた金魚ばかりでなく、観賞魚のショップで購入してきた金魚も犠牲になった。ポリビニールの巾着袋から玄関脇の水槽に移されたかわいそうな魚たちは、数日後から一ヶ月以内には、白い腹を水上の空気にさらすことになったのだ。

 幼い竜胆と私の手によって、庭の紫陽花の根元に埋葬される金魚が十匹を数えると、兄はお祭りで金魚すくいに挑戦することを禁じた。それから家族でお祭りに行くと、私は金魚すくいが目に入った途端、慌ててあらぬ方向を向くようになった。物欲しそうに天幕の下の水槽を見ているところを、椿姉ちゃんから「やらないよ」などと素っ気なく念押しされたくなかったのだ。大好きな義姉からは、金魚の命よりも自分のわがままを優先させる人間だと思われたくなかった。

 心の奥の物置、場所をよく心得ているその場所に感傷をしまい込む。何か食べる物でも買おうかと辺りを見回して、私はぎょっとして立ち止まった。歩道を歩く人々の中を、さっき須賀神社で出会った不気味な子供がすり抜けていったような気がしたのだ。

 いや、気のせいではない。襟足の長い、茶色の髪の痩せた少年が、十メートルほど先を夕方と同じ服装で走っていく。ときどき後ろを振り返るのは、また誰かに追われているのだろうか。

 私は、少年の背中から目を離さないまま、太夫に話しかけた。

「太夫、さっきの子供がいる」

「え? どこ?」

「追いかけよう」

「ちょっと待って、アッキー!」

 人波をかき分けて走り出した私の頭にあったのは、スリの少年、という言葉だった。そんなものには、小説や映画の中でしかお目にかかったことがないけれど、人混み、追われる少年、子供らしくないあの性悪な笑みが重なって、連立方程式みたいに少年犯罪、という解が導き出されていた。

 汗のにじんだ人々の背中にぶつかりながら、私は少年に肉薄した。何度かの空振りの末に、やっと少年の細い腕を捕まえる。少年は、電気が走ったようにビクッとして、怯えた目で振り返った。

 しかし、息を切らした私と、その後ろから駆け寄ってきた太夫の顔を見て、少年の表情が緩んだ。幼い声で言う。

「なんだ、夕方のお兄ちゃんたちか」

「だまされないぞ」

「は?」

 私は、大きく息を吐いた。

「お前、何か悪いことしてあの高校生に追われてたんだろ。今もあの高校生に追いかけられてるのか? それとも、別のことか?」

 少年のきょとんとした表情が、夕方のときのように、次第に変質していった。子供は、にやりと笑った。

「さあね。お兄ちゃんたちには関係ないことだよ。それより離してよ。ぼく、行かなきゃいけないところがあるんだ」

「だめだ、事情がわかるまで離さない」

 人混みの真ん中で、私と子供の押し問答のようになった。急に、子供の表情が強張った。

「離せ! あいつが来る!」

 道の両脇に吊られた真っ赤な提灯がすべて、一瞬にして何倍も明るくなった。スピーカーから聞こえるいやおいどんどんの唄が奇妙に変調する。

 子供が見ている方角に顔を向けると、私たちがいる歩道と道路を隔てて向かい側の歩道に、夕方の高校生が立っていた。先ほど須賀神社の前で会ったときには、普通の高校生に見えたのに、今はなんだか異質な雰囲気を感じた。

 子供が吐き捨てた。

「やつめ、躑躅姫つつじひめの力を借りやがった」

 高校生が、車道を流れる踊りの連を横切って、こちらに近づいてこようとする。

「おれは報酬を払ったぞ。次は、お前が約束を果たす番だ」

 子供は舌打ちして、何か口の中でつぶやいた。すると、ばちん、と爆ぜるような音がして、提灯の一つが燃え上がった。高校生がそちらに気を取られた隙に、子供は素早く体を翻して姿をくらまそうとした。子供の腕をつかんだままの私も、引きずられるように駆け出す。

 子供は、商店街の店と店の間に埋もれるようにして、ぽっかりと存在する小さな神社の境内に入った。木の社の前にベンチを備えた広場があり、つなげられた赤い提灯が枝から枝へと張り渡されている。

 子供は、私の腕を振り払い、腰に手を当てた。

「きさまら、なんでついてきたんだ」

 口調がガラリと変わっていた。私は、ぜえぜえと息をつきながら、子供に尋ねた。

「お前は何者なんだ」

 子供はにたりと笑った。

暁天ぎょうてん

 私と子供の後を追ってきた太夫が、子供を問い詰めた。

「ただの子供じゃないでしょ?」

「おれはシンセンだよ」

 シンセン、という言葉がすぐに変換できなかった。新鮮、新撰、神饌、神仙。

 太夫が、大きく見開いた。

「仙人ってこと?」

「いかにも」

 子供が、偉そうに首を縦に振る。

 暁天は、傲岸不遜な態度で腕を組み、シャープな線を描く顎をくいっと上げた。

「おれさまは、もともと秦の国に住んでいた。だが、仙界を追放されて、今では相棒とともに、気ままに世界を漫遊しているのだ」

「どうして、あの男の子から追われているの?」

 太夫が尋ねると、暁天は、けっ、と吐き捨てた。

「あのガキは、幸四郎っていう。やつは、おれさまにとある願い事をしたんだ。幸四郎が報酬を支払う代わりに、おれさまはやつの願いを叶えてやる。やつは報酬を払ったが、おれさまは願い事を叶えてやらなかった。やつは、それを恨んで追っかけてきている」

「ただの約束破りじゃないか!」

 私は大声を上げた。

「なんで叶えてやらないんだ。そんなに難しいことなのか?」

 暁天は、ゲームに夢中の子供が母親に「早くお風呂に入りな」と促されたときのような顔をする。

「位の高い神仙であるおれにとっては、朝飯前だ。ただ、面倒でやる気がしないだけだ」

「でも、願いを叶えてやらないかぎり、その幸四郎君はお前を追いかけてくるんだろ?」

「いや、この祭りが終わるまで逃げきれば、おれの勝ちだ」

「どういうこと?」

「いいか、これはゲームなんだ。いやおいどんどんの演奏が終わるまでの間、おれがやつから逃げられたらおれの勝ち、やつがおれを捕まえられたらやつの勝ち。そういうルールが決められたのさ」

「誰によって?」

「鯨と躑躅姫さ」

 私は首を捻った。私と太夫が腑に落ちていないのを見て、暁天は舌打ちする。

「須賀山のガイコツ池の主が鯨、太郎山の主が躑躅姫さ。二人の神は、浅科川を境にして、この町の南半分と北半分をそれぞれ支配している。やつらは遠い昔から、互いの領地をかけて事あるごとに勝負してきたのさ。戦国時代、この地の領主を鯨が支援すれば、躑躅姫は攻め入ってきた徳川軍に味方した。躑躅姫が農民の一揆を応援すれば、鯨は領主側についた。二人の勝負は、その年の不作と豊作、疫病の蔓延と収束までも左右したのだ。今でも、甲子園出場をかけた地方大会の勝敗は、二人がどの高校に味方するかにかかっていると言われている」

「急にスケールが小さくなったな」

「私と幸四郎の鬼ごっこも、祭りの間のやつらの娯楽なのさ。人がハレを楽しむとき、やつらは必ず混ぜてもらいたがるからな。幸四郎に躑躅姫がついたということは、鯨がおれを守護することに決まった。躑躅姫はもともと、男に捨てられた女が鬼と化した魔性のものだから、若い男が好きなのさ」

 公園のベンチに座り、左右の建物の間の鳥居から道路を見れば、通り過ぎていく賑やかな踊りの列は、映画の中のように見えた。

「お前、腐っても神仙なんだし、ただの人間からなら楽勝で逃げ切れるんじゃないか」

「やつらもそう思ったのか、ハンデをつけやがった。幸四郎は、躑躅姫の力を借りている。これで、おれさまとやつの実力は互角になった」

 太夫が、「どうするつもりなの?」と尋ねると、暁天は、「勝算はある」と自信ありげに言った。

「鯨が守護する聖域に逃げ込むのだ」

「聖域? 神社とか?」

「そうだ。だから、昼間須賀神社に逃げ込もうとしたのだが、すでに先回りした幸四郎によって結界が張られていた。きさまらにも邪魔されたしな」

 暁天は、大きく舌打ちした。私は、「別にわざとじゃない」と弁解する。

「しかし、代わりになるものがまだあるのだ。祭りの山車の中には、鯨や躑躅姫の庇護を受けているものがある。鯨が味方する山車に逃げ込めば、躑躅姫の力を持つ幸四郎には手出しできない」

 そこでだ、と暁天は人の悪い笑みを見せた。

「きさまらには、鯨の守護する山車を探し出してもらいたい」

「なんで俺たちがそんなことしなきゃならないんだ」

「おれさまがもし躑躅姫に捕まったら、あの恐ろしい女のことだ、必ずやおれさまを八つ裂きにするだろう。そのとき、逃亡を幇助したきさまらもどんな目に合うかわからんぞ」

「逃亡幇助だなんて、冤罪だ!」

「そんな言い訳は、躑躅姫には通じんぞ。あの非情な女に人間の論理は通用せん」

 私は、太夫に助けを求めた。彼女も困った顔をしていたが、「暁天が八つ裂きにされるのもかわいそうだし、手伝ってあげようか」と言った。

「太夫!」

「いいじゃん。こんなことに巻き込まれるなんて、もうないかもよ。アッキーって、昔からこういう非現実なこと好きだったでしょ」

 確かに、小さい頃から『ナルニア国物語』や『ハリー・ポッター』など、ある日異世界に入り込んでしまうファンタジーに憧れてはきた。しかし、今の私はそれらの異世界を夢想するのが好きなのであって、実際に足を突っ込みたいわけではないのである。

 しかし私は根負けして、結局わざとらしく肩を落とし、降伏の意を示した。

「で、鯨の守ってる山車を見つけるにはどうしたらいいんだ?」

と、つっけんどんに尋ねると、子供の姿をした老獪な神仙は、にたにたと笑った。


第九話 嘘つきな神仙 につづく

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