第53話 卒業パーティー⑤

「ぼくからでていって……!」


 ジル様の拒絶の言葉と共に、私の視界が反転した。何か見えない力に押し出されて見える景色が変わる。

 目の前に、ジル様がいた――今まで鏡越しやガラス越しでしか見れなかったジル様が。

 その瞬間、私はジル様の中から追い出されたのだと理解した。


『ジル様! ジル様! しっかりしてください!』


 ふわりとジル様の傍らに膝をついて、肩を揺すろうと手を伸ばす。けれど、伸ばした手はジル様の肩を掴むことなく、その体をすり抜けて空を切った。


『え……?』


 驚いて自分の手に視線を落とすと、向こう側が透けて見えた。

 なんですの、これ。

 どうなっているのかと手を空にかざすと、手のひらの向こうに月が透けて見えた。

 私は震える手をもう一度ジル様に手を伸ばした。

 何度やっても結果は同じ。

 私の手はジル様をすり抜けてしまって、肩を揺することはおろか触れることさえできなかった。

 一体どうしたら、とジル様の顔に目を向ける。

 青白い顔に玉のような汗を浮かべて浅い息をするジル様の瞳は今は固く閉じられている。時折息苦しそうに顔を顰める姿が痛ましい。


『そうだわ、解毒剤……!』


 解毒剤の存在を思い出して、ジル様に殴られて地面に倒れたままになっていたライアン様のそばにふわりと下り立つ。意識のないライアン様の懐を探ろうとして、伸ばした指先が彼の体をすり抜けた。


 私じゃどうすることもできないの……?


 無力な自分が悔しくて涙が溢れた。

 やるせなさに手を握りしめて、誰かいないかと辺りを見回してみる。

 けれど、講堂から音楽が聞こえるだけで近くに誰かがいるような気配はない。

 どうしよう。どうしたらいいんですの?

 不安にかき乱されながら必死に考える。

 そうだ、ブライト様。

 何かあったらすぐ僕のところに来て、そう言われたのを思い出した。

 正直なところ、ジル様のそばを離れたくはない。

 けれど、このままここにいてもどうすることもできないのは確かだった。

 今動けるのは私だけだ。

 しっかりするのよ、アリーシャ。

 私は自分に活を入れるように両頬をパンと叩くと、涙を拭って駆け出した。



 ***



 実体のない私の体は地に足をつくことなく宙をふわふわと浮いて一直線に講堂を目指した。実際に走るよりも早く移動できたのは僥倖だったというべきか。

 ホールへ続く扉は閉ざされていたけれど、ものをすりぬける私の体はするりと木製のドアもすり抜けて中へ入ることができた。

 どこ? どこにいますの?

 優雅なワルツの流れるホールを見回して、小柄で黒い髪の人物を探す。

 どこ? どこ?

 通りがかりの人が私をすり抜けていくのもかまわずにブライト様を探し続けた私は、ホール右奥の壁際にようやくその姿を見つけた。

 ブライト様は壁に寄りかかって俯きがちにある一点を見つめていた。

 視線の先にはシャンパンのグラスを両手にうろうろするコーデリア様がいた。ブライト様はずっとコーデリア様の動向を監視してくれていたようだ。


『ブライト様!』


 なりふりかまわずにダンスをする人たちの中を横切って最短距離でブライト様に駆け寄る。


『ブライト様! ジル様が! ジル様が大変なんです!』

「…………」

『ブライト様?』


 視界に入るように目の前に立ったのに、ブライト様は私の呼びかけに全く反応を示さないどころか私に気づいた様子もない。

 おかしいと思ってブライト様の顔の前で手を振ってみる――それでもやっぱり反応はなくて、私のことが見えていないんだと確信する。


『そんな……』


 膝から力が抜けてへたり込んでしまう。


『…………どうしたらいいの……?』


 誰にも見えない、誰にも触れない、誰にも気づいてもらえない。

 完全に詰んだこの状況に止まっていた涙がこみ上げる。

 なんとかしないとジル様が。ジル様が。

 最悪の状況を想像してしまい、追い払うように頭を左右に強く振る。

 何か、何か手があるはず。

 考えて、考えるの。

 今までのことを必死に思い返した私は、ふとある存在を思い出して顔を上げた。


『そうだ、私……私なら……』


 アリーシャなら――もともと戻るはずだった自分の体なら、私のことを受け入れてもらえるかもしれない。

 たった一つの希望を見出して、私はアリーシャを探して視線を巡らせた。

 どこ? どこにいますの?

 焦る気持ちを押さえながら、あちこちに目を配る。

 ! あそこですわ!

 アリーシャはブライト様とは少し離れた壁際で友人たちとスイーツを囲んでいた。

 私は足がもつれて転びそうになりながら、友人たちと笑い合うアリーシャの前に躍り出た。

 近づいてもアリーシャも周りの友人たちも私に気づいた様子はない。

 私は駆け寄った勢いのまま両手を広げてアリーシャに抱きついた。


『お願いっ! 私を貴女の中に戻らせて……!』


 アリーシャの体に触れた瞬間、まるで磁石が引き合うように体の中に吸い込まれた。

 ふわふわしていた体に重さが戻ってくる。

 同時に、自分の記憶がアリーシャの記憶と交じり合うのを感じた。

 今までジル様の中から見ていた記憶に、アリーシャの視点で見た記憶が、その時思ったアリーシャの気持ちが追加されていく。

 不思議な感覚だった。

 ジル様の中にいた時は別々の個体として存在していた意識が、本来戻るはずだった体に戻ったことで私とアリーシャの意識が混ざり合って一つに統合されていくのがわかった。

 瞬きともいえる一瞬のうちにアリーシャと統合された私は、ぱちぱちと目を瞬いて自分の手に視線を落とした。

 その手をぎゅっと握って開く。自分の意思で動かせるのを確かめるように二、三度繰り返す。


「アリーシャ様?」


 隣にいた友人のディアナ様に声をかけられてはっと我に返る。

 そうだ、ぼんやりしてる場合じゃなかった。


「すみません! これで失礼しますわ!」


 一言断ってドレスの裾を少しだけ持ち上げて踵を返す。

 足元に纏わりついてくるドレスに煩わしさを感じながら、人の間を縫うようにホールの出入口へと向かう。


「アリーシャ様?」


 不意に呼び止められた。

 無視することもできずに苛立ちと共に振り返れば、コーデリア様が両手に持っていたシャンパンを近くのテーブルに置いて優雅な足取りでこちらに向かってくるところだった。


「コーデリア様……」

「ライアン様とジルベルト様を探しているのですが、アリーシャ様はご存知ありませんか?」


 こてんと首を傾げながら聞いてくるコーデリア様を前に、私は一歩後ずさる。

 コーデリア様がライアン様に思いを寄せているのはわかったけれど、彼女がこれからどういう行動にでるか、私にはまったく想像ができなかった。

 とはいえ、ライアン様を説得できるのはコーデリア様だけのような気がする。

 彼女を連れていくべきか迷っていると、別の方向から助け船ともいえる声がかけられた。


「アリーシャ嬢、何かあったの?」


 先ほどまでコーデリア様の動向を監視していたブライト様が、私とコーデリア様の間に割って入ってきてくれる。


「あ……」


 気づいてもらえた安心感からぼろりと涙が零れた。

 私の涙にブライト様がぎょっとする。


「なに!? ホントにどうしたの!?」

「ブライト様! ジル様が……ジル様が……!」


 みなまで言いそうになって、周囲の視線を感じて言葉を止める。

 こんなところで話したりなんかしたら騒ぎが大きくなってしまう。

 気づけば私は咄嗟にブライト様とコーデリア様の手首を掴んで、二人を講堂の外へと連れ出していた。

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