第15話 先輩の矜持と・・・

 もっともその後も、事務所へは基本的に「出入禁止」にしたものの、永野さんとの人的なつながりは確保されていたし、他の選挙での人手出し的なことを永野さんが手伝ったりもされていて、関係は永野さんが亡くなられるまで続いた。

 というのも、常木は私に対して常々、


「人とのつながりというものは、簡単に切ったりするものではない」


と言っているからね。

 ここで「人間関係」などという言葉を使おうものなら、「小賢しい言葉を使うな!」とばかりに反感を持つこと間違いなしの私に対して、そのような反応を封じ込めるためもあって、そのような表現をされている。

こういう「和語」をうまく使ってくる常木三蔵という人物のすごさを、永野さん相手においても垣間見せられた。

 永野さんのような人物への対応にしても、そこは決して、「ブレ」はなかった。


 とはいえ、この「名簿流出事件」、常木事務所関係者にとっては、すこぶる印象の悪い事件であった。無理もないだろう。

 それまで確信犯的に「名簿を横流し」するような人物はこの事務所に現れたことなどなかったし、大体、常木陣営に出入される人は、皆さん、いい人ばかり。「強面」な人や、癖のあるような人はほとんどいない。強いて言えば私にそのような要素が幾分あるらしいが、私なんて、かわいいものです。はい。

 それはともかくとしても、人のいい人ばかりの事務所に世にも怪しげなおじさんが入り込んで・・・というのは、やっぱり、長続きはしなかったってことかな。

 それに加えて、ちょっとうちに帰るのに金がないから5000円とか1万円を貸してくれと誰かに言って借りては、その金で早速缶ビールを買って飲んでみたり、居酒屋に行って飲んでみたりといった調子で、時には、クルマで来られているような方には「ちょっと送ってくれ」と言って送ってもらったりといった調子。永野さんご自身は、かつて運転免許をもっていて普通にクルマを運転していたが、持病が悪化したこともあり、60代半ばにして運転免許を返納されていたから、それはまあ、仕方ないと言えば言えなくもない。


 だけど、その後こちらの事務所筋の人は、永野さんに対しておおむね距離を置いてのお付合いになった。本人も、別にそれで寂しいとか何とか、そんな情緒的な言葉を述べるような人ではないから、まあ、こんなものだ、ってところだったのでしょう。

 他の人たちはともかくとして、常木と私だけは、独自に、その後もなにがしかの交流があった。時々、ああいう人物と付合っていたら君も出入禁止だぞと言われたことがないわけではなかったが、この事務所に関係しないことである限りは君と永野君の間でどういう付合いがあろうと、基本的には関知しないから、そこはうまくやってくれ、とのことだった。これは、常木とのチャンネルを常木個人だけではなく、私の方面も残しておいて、彼の動きに関わる情報が入るように、とのことだったのではないかと思っている。

 先程も少し述べたが、私以外の常木事務所関係者は、その後永野さんとはほとんど接触していなかったようだ。


 毎回偶数月の15日、土日祝日を挟めばその前日の平日にということになるが、年金が振込まれる。その前後には、電話でお呼びがかかる。こちらの仕事がひと段落する17時か18時をめどに、永野さんは宇野市から特急バスで岡山駅前まで現れ、杖を片手に、いつもの居酒屋へと足を向ける。


「たまには、わしの知っとる店に行きたいけど、ええか?」


などとおっしゃるのはいいのだが(この時の飲み代は基本的に永野さん持ちだったのです)、最晩年の1年間は、足も相当悪くなっており、その店まで歩いて、いや、タクシーを使ってであっても、行くだけの金もさることながら、気力も体力もなくなっていた。結局はいつも通り、私がよく言っている岡山駅前、歩いて3分の「くしやわ」に行くのが定番コースとなっていた。

 それに合せて、私は小説やエッセイのベタ打ちの原稿を印刷したものをお渡しして、帰って読んでいただくようにしていた。あちこちの筋にあたってくれていたみたいで(と言っても、本当かどうかはわからないけどね、今となっては)、その人の「感想」という名目で、いろいろありがたいアドバイスをいただいた。


 最晩年、具体的には昨2018年8月と10月の半ばにもなると、ただでさえ弱っていたお体もますます弱まった。アルコール中毒の人の常として、永野さんは酒を飲む手が大きく震えていた。それはまあ、昨日に今日の話ではないから今更驚くなんてことはなかったにしても、足の衰えはそれまで以上に「目に見えて」目立つようになった。

 それでも8月までは歩いて岡山駅前のバス停に戻って、バスに乗って自宅に帰られていたが、「最期」に酒席を共にした10月半ばの金曜日には、もはや「くしやわ」から歩いて3分のバス停まで自力で歩けそうにないし、それどころか、自宅前のバス停から自宅まで歩いて帰ることもままならないということで、結局、その日は北林氏に携帯で連絡を取って、クルマで送ってもらうことになった。

 ちなみにそのクルマ、永野さんのつてで手に入れた中古のBMWで、これで特に仕事があるわけでもない北林氏にあちこちへの送迎をしてもらうことで、普段の「足」を確保していた。北林氏には、年金を原資に、ガソリン代の他にいくばくかの金は払っておられた。さすがに「足」がないと、もはや動けないほどに体が弱っていたから、そのくらいの出費は致し方ない。だが、寸借何とかであちこちから借りているお金や、まして常木や他の政治関係者、あるいは幼いころからお付合いのあった大宮哲郎さん(太郎さんの父上)あたりにお金を返せるあては、すでになくなっていた。


 2015年の一斉地方選挙以降、選挙のお呼びも特にかからなくなり、一時的でもまとまった金を得られるつてがなくなったことも大きかろう。

 現に、書店をしていた頃から付合いのあった民自党の橋田龍一郎元首相の宇野市後援会関係者あたりからも、この10年来、酒を飲んでうろつくのもさることながら、多額の借金や寸借何とか的な小金の借入が多くあったのだろうか、遠ざけられるようになっていたというのは、後に聞いた話ではあるが、やっぱりそうだったか、という話ではある。


 前にも申しあげたとおり、永野さんと最初にお会いしたのは2012年10月の岡山県知事選と同時に実施された岡山県議会銀の補欠選挙の時だった。その時我々が携わった丹生県議候補の陣営は、いろいろと、出入している人に不愉快な事件が少なからず起こっていたのだが、常木と永野さんのおかげで、応援に来ていた唐橋君という早稲田大の後輩にあたる青年と私の2人だけには、もめごとの火の手が飛ばないように、尽力してくださった。

 唐橋氏もさることながら、私に対しても、自分たちの世代の興す問題やもめごとを「飛び火」させず、政治関係の仕事をこれからもしていけるようにご指導いただいたこと、いまだ持って忘れられない。確かに私と唐橋氏にとっては、少なくとも本人に関する限りは、永野さんに対して決して悪い印象はない。


 そう考えてみれば、永野修身氏は、少なくとも私たちには「立派な先輩」としての役割をしっかり果たしてくださったわけである。

 そのことには、今もって感謝している。

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