第2話

 修之輔に大膳があてがった部屋は屋敷の奥にあって、濡れ縁に面した坪庭の上に夜空が狭く覗く。月は満月の前後にその四角い空を移動して、真夜中に部屋の中を青白い光で満たしていく。膝の上に紫藍の振袖を広げると、その金糸銀糸の刺繍が月明かりに煌めきを零した。

 振袖の襟をそっと指でなぞればあの夜の弘紀の体温が伝わってくるように思える。体温だけでなく、肌の手触り、囁く声、交わした息、唇の柔らかさ、滑らかな体の内。


 そして、あの華やかな笑顔。


 今、弘紀はどうしているのだろう。

 

 六月に入ると曇りがちな夜空に月も覗かなくなった。降り続く雨は道にぬかるみをつくり、良家の姫君たちの訪れも途絶えて静かな日々の中、利三が他藩から無断で銃を持ち込んだ罪で処罰されたことが大膳から知らされた。

 修之輔の知る事実と公で裁かれた罪状の間の差異は、なにか上の方で思惑が動いたためだろうが、そこにあったのは羽代藩への忖度か警告か、いずれ修之輔の知りうる範疇ではなかった。


 ある日、もう体は大丈夫か、と師範が様子を見に来た。

「ご心配おかけしました」

 修之輔が頭を下げると、師範は、これを持ってきた、と何か包みを示した。最近、妻の料理屋で扱うようになった鯵の干物だという。

「ここにくる直前にお喜代が焼いたからまだ温かい、儂もまだ食べたことがないから食べてみよう」

 柴田の家の者に食器を借りて初めて食べた海の魚の味は、川の魚より濃く感じられた。

「これは酒の肴に良いな」

 と、師範が笑みを浮かべながら言う。そうしていったん箸を止め、おもむろに切り出した。


「実は弘紀の身の上は田崎殿から聞いていた」

 御前試合に弘紀を推挙して藩籍について問題になった時、弘紀の代わりに田崎が師範の元を訪れ説明していったという。

 田崎の話によれば、弘紀が黒河藩に預けられたきっかけとなった環姫の殺害事件は、表で語られているよりも凄惨な状況だった。

 

 環姫は先代羽代藩主の後妻として嫁いでいた。妾の生んだ子と、環姫の産んだ弘紀との歳の差は半年程度しかなく、数えで同じ年齢だった。 

 妾は先代当主の気まぐれでお手付きになっただけで、懐妊が知らされても先代当主はこれといった気配りを示さず、むしろ新たに輿入れした環姫の気品と美しさに夢中になり、あれやこれやと面倒を見て気遣った。環姫の懐妊は先代藩主を大いに喜ばせ、家中に慶事として広く知らされたが、妾は無視に近い有様だった。この二人の子の扱いの差は誕生時やそれから折々の節句の祝い事でも明らかだった。

 先代藩主が亡くなり、先妻の子である弘紀の兄が家督を継いだが、いつ倒れるか分からないほどの病弱で、子を作る能力がないことも内々に囁かれるようになった。藩主の求心力は弱まり、藩政が滞りがちになった結果、財政が安定を欠くようになった。豪商の娘だった妾が、金に困った家中の者に金を貸して次第にその権力を高めていったが、最後の最後まで環姫に勝てなかったのは、環姫の家柄とその類まれなる容貌のせいだった。少なくとも妾はそう思っていた。

 ぎりぎりで保たれた均衡が崩れ始めたのは、弘紀の元服について話が進み始めた頃だった。自分の子を差し置いて弘紀の元服が先に執り行われることを知った妾は、環姫を襲った。

 先代藩主の寵愛を奪われ、子の未来も自分の未来も環姫に奪われたと、そう思ったのだろう。弘紀とともに部屋にいた環姫を突然、懐剣で刺した。ほとんど最初の一撃で絶命した環姫を執拗に刺して、挙句、その顔を原型が無くなるまで破壊した。異変を知らされた田崎が現場に駆け付け、既に正気を失っていた妾を一刀の下、切り捨てた。


 母親が惨殺され妾が切り殺されたその凄惨な血溜まりの中、弘紀は一人残された。


「辛いことがあったら甘いものを一口」、母の言葉だと言った弘紀の微かに震える睫毛を修之輔は思い出した。


 初めて会ったとき、太刀の刃に怯えていた弘紀は、鞘を抜かずに戦う修之輔の姿に何を見たのだろう。過去の悲惨な記憶に向き合う修之輔の姿に。あの夜、修之輔の傍を離れなかった弘紀の優しさは、いったいどこから。


「痛ましく残酷な話だが、そのような弘紀の過去を知り、修之輔が弘紀に沙鳴きを教えることに何がしかの因縁を感じずにはいられなかった」

 どうしてこの世にはこのような痛ましいことがおこるのだろうな、と修之輔の過去も知る師範は呟いた。己の無力を嘆くのか、その肩が震えていた。


 かなり話が重くなってしまったな、と師範が言ったのは沈黙がしばらく続いた後だった。

「重い話が続いてしまってすまないが、実は道場をたたもうと思っている」

 これも修之輔には突然の話題だった。

「今、求められるのは実戦を見据えた剣術。道を説くのは時代遅れらしい。藩主からもそう言われ、もし儂が実戦を教えられないのなら外から誰か剣術に通じた者を雇い、正式に黒河藩公認の道場を作るつもりだとはっきり言われた。要は馘首ということだろう」

 人殺しの術を教えるつもりは全くない、と師範は強く言い切った。

「ただ、城内の今の役目を辞し、道場をたたんだ後は、城下町内に新たに町道場を開くつもりだ。喜代に聞けば、今は町人にも剣術を習いたいというものが多いらしくてな。特にこれまで禁じられているわけではないのだが、町中に道場を開くのを黒河藩は敬遠していたきらいがある」

 ようやく師範の顔の暗さが薄くなった。

「人の道を究める教えなら、そこに武士や町人の区別はない。剣術ともに道の精神も教えたいと思っている」

 寺子屋みたいになるかもしれん、と師範の表情に笑みが滲んだ。

「修之輔にもこれまでのように手伝ってもらえればありがたいのだが。もっとも、修之輔に何か別の希望があればそちらを優先すれば良い。城内のお役目から離れるまでまだ多少時間がある。その間に紹介状も書ける。考えておきなさい」


 師範を見送ったその日の夕方、羽代藩の寅丸から手紙が届いた。

 手紙の中で寅丸はまず、今更ながらの御前試合の礼状であることを詫び、あの後、また急に船で大阪や四国、長崎まで派遣されたことを伝えてきた。だから、この手紙が遅くなった、と言い訳をしている。

 なんでも羽代藩の特産品を流通させる道筋を見つけてこい、との藩からの命令だったらしい。とはいってもこの間、長崎で一緒に遊んだ連中に話を付ければ良いだけで、とまるで物見遊山の気楽さで、その手紙でも剽軽な語り口は修之輔の沈みがちな気持ちを紛らわしてくれた。

 その後の文中を読み進めて思わず心が跳ねたのは、思いもかけず弘紀の名が出てきたからだ。寅丸の派遣は弘紀の指示だった、という。

 寅丸によれば、御前試合のあの後、弘紀様が帰国してすぐに兄君と協力して藩政の立て直しに着手し始めた、まだ直接会ってはいないが指示の明確さや、その指示を与えられる者の多くが若者だということもあり、面白がったり期待する者が多い、という。羽代藩と黒河藩の間の物流に課せられていた関税もだいぶ下がったから羽代の物が黒河に流れているはずだ、と書いてある。

 今日、師範が持ってきた鯵の干物はそれかと思い、あれが羽代藩のもので弘紀が食べていたと言っていた、それと同じものかと思うと胸の内が温かくなった。寅丸は手紙の最後を、人の行き来も前よりしやすくなったから是非、羽代の道場に来られたし、と結んでいて、読み終わってしばらく、修之輔は今日師範から聞かされた話も思い出して考えに沈んだ。

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