第4話

 結局、父親はさらに借金を重ねて返せず、破落戸に用無しとみなされたのか、町から外れた空き地にさんざ試し切りされたぼろぼろの遺体となって見つかった。

 しかし落ちぶれたとはいえ身分は武士、城からの下手人を追及する手は厳しく、間もなく藩境の宿場町であの鼠のような破落戸を含めた数人が捕縛され、首を刎ねられた。調べれば商家の子女を襲って金銭を強請るなどの非道を数件行っていたことが明らかになり、酌量の余地はなかったようだ。

 その取り調べの過程で、修之輔の最後の“客”となった広川才蔵は、武士でありながら破落戸と金銭のやり取りをして犯罪に手を染めた罪で処罰された。城中の役目を解かれ山奥の郡代の元に送られた後、藩の許可なく出奔し行方知れずになったという。広川才蔵は利三の長兄であった。

 修之輔のその間の記憶は曖昧だ。熱が引いた後、しばらく抜け殻のように部屋の隅にじっとしていた気もするし、ただ無心に竹刀を振っていた気もする。

 そんな修之輔の様子をしばらく見守っていた師範が、ある日、この技を鍛えて見ないかと一つの術を修之輔に託した。そなたにふさわしい技を考案したのだと、その込められた意味とともに伝えられた。それが沙鳴きであった。

 師範が考案したのは基本となる刃の運びだけであった。切り合う流れの中でその術を発揮できるよう、磨いたのは修之輔自身である。通常の稽古に加えて己だけの技を磨くことは、抜け殻であった修之輔にとりあえず今日を、今日が過ぎれば明日を生きる目的を与えた。修之輔の心身の回復には時間が必要だった。

 気が付くと季節は三回ほど春を過ぎて、師範は修之輔に年少者の指導を任せるようになった。まだ竹刀の振り方も覚束ない幼い者達に教えるのは根気のいることだったが、感情を抑制する術を図らず身に着けた修之輔にとって、それはさほど苦痛な事ではなかった。むしろ彼らの無邪気さに修之輔の心が和らぐことも多く、これも含めて師範の心配りであったのだろう。


「利三がああして俺に突っかかってくるのは、兄の失踪が俺のせいだと思い込んでいるからだ」

 生じたこと全てを話すのは今でも苦痛を伴う。幾分かいつまんだ、取り留めのない話し方になったが、弘紀はじっと聞いていた。

「今までその話を誰かにされたことは」

「自分から話したことはない。聞かれた事だけ答えていたと思う」

 そうだ、自分の言葉で、何が起きたのか、自分が何を感じたのか、他人に話すのはこれが初めてだったと修之輔は今さらのように気付いた。周囲が腫れ物に触るように修之輔を扱っていたからかもしれないし、頑なに他人に触れられるのを修之輔自身が拒んでいたからかもしれない。

 ならば年月がたつほど噂話は修之輔の知る事実と乖離して行って当然だろう。

 だがいったい自分はどうするべきであったのか、水面に垂らした一滴の墨のように自責の思いが心のうちに広がる。全ては傍観するしかなかった自分のせいなのだろうか。自分が抵抗しなかったから。自分が助けを求めなかったから。

 これまで何度も繰り返された自問自答の暗い沼に飲み込まれそうになるその手前、ことん、と弘紀が修之輔の胸に寄りかかってきた。

「ずっと一人で、抱えておられたのですね」

 肩に預けられた頬と胸に当てられた手から弘紀の体温が伝わってくる。痛みが吸われるような温かさだった。修之輔はそっと弘紀の肩に腕を回し滑らかな黒髪に自分の頬を摺り寄せた。

 これまで過去の記憶がよみがえるたびに自問自答の泥沼にはまり込んでいた。足掻いても足掻いても泥は纏わりつき思考も感情も縛られていく。明けない夜の中、己が泥沼の中にあることを他人には知られたくなかった。抜け出せないのは自分の弱さだと思っていた。

 なのになぜ今弘紀に話したのだろう。

 自分一人が抱える暗い沼を暴いて押し付け、慰めを強要したのだとしたら、それはあまりにも自分勝手な振る舞いだと途端に修之輔は弘紀に謝りたくなった。弘紀の体を抱き締めていた腕を緩めると、弘紀がこちらを見上げ軽く首を傾げた。見慣れたいつもの仕草だった。

 ふいに弘紀が修之輔の肩に両手をかけ、修之輔に口づけした。驚いて身を引くと弘紀は修之輔の名を呼び、もう一度、今度は強く唇を重ねてきた。

「一人で、その痛みも、悲しみも、憎しみも抱えて。外に決して出すことなく、他の誰かを傷つけることなく。強い方ですね」

 弘紀の吐息が直接耳にあたる。

「弘紀」

「私は修之輔様をお慕いしています。助けていただいたあの日から、ずっと。修之輔様のむかしの話を聞いた今もその気持ちに変わりはありません」

 話を聞かせていただき、このように触れさせてくれたことがとても嬉しい、そう言って弘紀は修之輔の首に頬を付けた。

「私がこのように修之輔様に触れるのは大丈夫でしょうか」

 一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。記憶に残る皮膚の感覚は、今、弘紀から与えられている温かさとは全く別のものだった。

「大丈夫だ。あれと同じものとは感じられない」

 そう答えると、良かった、といって弘紀は笑った。今日初めて見た弘紀の笑顔だった。

「今夜はここに、修之輔様の側にいさせてもらっても良いですか。送ってもらうにしてももう子の刻を過ぎています」

 弘紀を本多の家まで帰さなければならないとは分かっていても、その言葉に修之輔はうなずいた。寝床を用意するからと修之輔が立ち上がると、夜の風に乗って、またどこかの家から風鈴の音が聞こえてきた。

 三畳ほどの広さしかない寝室にようやく二人分の床を並べると、休む前に少しやることが、と弘紀が自分の太刀を手に取った。弘紀の体に合わせてやや短めにあつらえられたその太刀は黒漆の塗りも艶やかに、よく見ると精緻な装飾が施されている。失礼します、と修之輔に一礼し鯉口を切ってまた直ぐに戻した。キィン、と涼やかな鋼の音が響く。弘紀はしばらく何かを確かめるように耳を澄ませていたが、やがて、失礼しました、とまた修之輔に一礼し太刀と脇差を枕元に並べた。 

 灯りを消して目を閉じると、案外早く眠気がやってきた。これまで過去を思い出す夜は寝付けずにいたが、隣に弘紀がいるだけでこれほど安らかな気持ちになれるのかと、そう思いながら久しく無かった穏やかで深い眠りについた。


 夜明け前に覚えぬ冷気で目が覚めた。

 弘紀がいつのまにか修之輔に身を寄せて同じ夜着の中で寝ており、体が触れあっている部分は温かいのだが修之輔の夜着を半分以上弘紀が持っていってしまっている。

 弘紀の体を自分の方に抱き寄せ、胸に抱えるようにしてから腕を伸ばすと、弘紀に貸した夜着に指が届いた。引き寄せて弘紀の肩に掛け、自分のものを弘紀の手から取り戻す。そうしてから弘紀の体をあいている布団の上に戻そうとして、自分の腰に絡まる弘紀の腕に邪魔された。温かいからこのままで、と寝言のようにつぶやく声に苦笑して、弘紀を腕に抱きながら朝までの許された時間を微睡んだ。


 総稽古の二日目は、普段忙しい師範が午前から来るということもあり、より年長の者が多く道場へやってきた。門下生同士、久しぶりに顔を合わせる者もあっていつもより場は賑やかだった。年少者たちは隅っこで所在無げにしているかと思えば、知己の年長者に引っ張られて他の者に紹介されたりとそこそこ気忙しい。

 礼次郎は今日、勘定方に勤める礼次郎の父親の知り合いだという公事方の加藤文吾に引っ張りまわされていた。勘定方と公事方は仕事を共有することが多いらしく、あれの息子か、と面白がられて困っているかと思いきや、年長者に構ってもらって喜んでいる。

 こういった交流が頻繁にあれば道場の風通しもだいぶ良くなるのだが、と昨日の出来事を思い出し、利三たちの姿を探したが今日は来ていないようだった。

 午後になると、今朝早くに本多の屋敷に戻った弘紀が道場に戻ってきた。修之輔の姿を見つけて一礼した後、こちらに寄ってくるその前に、師範が弘紀を呼んだ。既に年少者の中では一番の腕前と師範に報告しているので、その腕を見ようというところだろう。他の者に呼ばれた修之輔はその経過を見ていることはできなかった。

 人の出入りが多かったその日、修之輔は弘紀と言葉を交わすことはできなかったが、何回も目が合って、その度に昨夜の弘紀のなめらかな鳩羽鼠の小袖越しに感じた体の温かさが思い出された。

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