第3話

 道場は表通りに面して門があり、一歩入った裏の小道に面して修之輔の住んでいる家屋の勝手口がある。二つの建物は出入り口が違っても同じ敷地に建っていて、その小さな家屋は少し前までは師範が妻の喜代と住んでいた。


 三年前に喜代が体調を崩して実家である城下町の料理屋で療養することになり、愛妻家の師範はしばらく道場と行き来していたが、そのうち喜代の実家が料理屋の離れを師範と喜代の部屋に改築したので師範はそのままそこに住むようになった。

 なにかと物騒なこの時勢、剣道場の師範に詰めてもらうのは商いをする上で心強いという喜代の実家の思惑もあってのようだった。空いた道場内の家屋には修之輔が一人、管理も兼ねて住むことになった。

 引き戸の入口を入ってすぐに竈のある土間、三和土を上がると囲炉裏のある板敷きの座敷があり、襖を隔てて三畳ほどの寝室がある。長屋より多少広いとはいえ、師範夫婦には手狭であったろう。ただ修之輔一人で住む分には十分だった。 

 修之輔が自分一人分の夕食を作ろうとしていると、勝手口の戸を叩く音が聞こえた。通い商いの者が来る時間でもなく、いったい誰がといぶかしみながら勝手口の戸を開けると、弘紀がいた。何だかひどく萎んでいる。

 釣竿と魚籠びくを持っているのでどこかで釣りをしていたのだろうが、着物の袖と腰から下、袴の大部分がぐっしょり濡れていて、どころか脛のあたりに少し血もにじんでいるようだ。

「川にでも落ちたのか」

 返事の代わりにくしゃみが返ってきた。


 とりあえず弘紀を座敷に上げ、濡れた衣服を脱がせて囲炉裏の火を起こし、体を乾かすよう促した。

 風邪をひいていなければいいがと様子を見たが、その心配はなさそうで、弘紀は単衣の肌着の上、修之輔が貸したあわせに包まって満足しきった顔で火に当たっている。修之輔が寝巻に使っているその袷は、綿入りではないが、それなりに寒さは凌げるだろう。

 体が温まったようなので事情を聞いてみると、弘紀はこのところ良く町の子らと遊ぶのだという。屋内にいることを好む礼次郎は論外の事、行儀のよい武家の子息たちでは物足りないらしく、野を駆けまわったり木に登ったり、そして今日の釣りも前々から計画していたことだったらしい。

「良く釣れる淵があると以前から聞いていたのです。だけどそこにはいつも気難しい親爺がいて、子供が来ると怒鳴って追い返すのだと。それだけならまだしも石まで投げてくることがあって、当たってこぶを作った奴もいるんです」

 城下を流れる川を遡った上流の話のようだ。

「ただこの数日、その親爺が風邪をひいて寝込んでいるという話をきいて、様子を見に行かせるとほんとに風邪をひいて寝ていて。それで」

 ここぞとばかりに弘紀たちは張り切って淵に出向き、釣り糸を垂らしたところ面白いように釣れたという。しばらく淵の主である親爺がいなかったせいでもあるのだろう。丸々と大きな川魚が何匹も釣れて、さあそろそろ帰ろうという時になり、子供たちは困ったことに気づいた。

「おっかあにどこで釣ってきた、って聞かれたらどうしよう」

「俺も、おっ父にここは危ないから近づいたらダメだと言われてんだ」

「ここで釣ったって、あの親爺に知れたら」

 石じゃなくて鉄砲でも撃ってくるかもしれない。

 夕暮れの空にも不安が募り、子供たちは弘紀に釣った魚をすべて寄越し、三々五々家に帰ってしまった。弘紀も気持ちを削がれて淵を去ろうとしたとき、影の濃くなった岩の角に足を取られ、川に落ちてしまった。不幸中の幸い、落ちたのは水が淀んだところで流されはしなかったが、腰辺りまで水に浸かり袂も飛沫で濡れてしまったということだった。 

 魚籠をのぞけば話の通り、立派な川魚が何匹も入っていたので、何匹かここで焼いて食べていくかと聞くととてもうれしそうに頷いた。釣ったのはいいが食べ方までは知らないのだと言う。

「本多の家に持って帰っていいものか、迷っていました。それにあの姿で帰ったら無用の心配までさせてしまいます」

 殊勝なことを言っているが、これを理由に町に遊びに行くことを禁じられるのを嫌がっているだけだろう。塩で揉み、串を刺した魚を囲炉裏で焼く。その様子を弘紀があまりに物珍し気に見ているので聞いてみた。

「釣りはこれまでにも行ったことがあるのだろう。それとも今日が初めてだったのか」

 返ってきたのは、釣りはしたことはあるが釣れたことはない、というおかしな答えだった。

「海で釣りをしたことはあるのです。とはいってもほんとうに小さい頃でしたので、大人が釣っているのを見ていただけですが」

「海か」

「修之輔様は海を見たことがおありですか」

「いや、生まれてからこの地を出たことがない。弘紀の国元には海があるのか」

 弘紀は軽く首をかしげてから、はい、と答えた。

「よく海の近くで遊んでいました。波の穏やかな広い砂浜があって」

「広い砂浜というのも見たことがない。川の瀬のようなものなのか」

「そういう所もありますけど、川の砂よりもっと細かくさらさらとした砂が辺り一面に広がっていて、波打ち際に立つと足指の間を砂が通って行ってとてもくすぐったいのです」

 川しか見たことのない修之輔にその感覚の想像は難しかった。

「嵐のときの海は音も大きくそれはとても怖いものですが、穏やかに凪いでいるときの波音はとても心地の良いものです」 

 弘紀が語る海の話にしばらく耳を傾けているうちに魚が焼けた。肉付きの良いものを選んで弘紀に渡すと、最初は持ち方を迷い、次いで背から齧ろうとして背鰭せびれに戸惑い、ようやく食べ始めたもののどこか食べづらそうで、食べきる前に串から身が落ちてしまった。

 変な食べ方をしているのは、はらわたの苦さを嫌っているらしい。そういえば自分も子どもの時分、魚のはらわたは苦手だったと思い出し、いつから食べれるようになったのか、ふと不思議に思った。

 もう一匹、焼けた川魚を取り、はらわたの部分を修之輔が齧り取ってから弘紀に渡すと、今度はきれいに食べ終えた。今日は昼を過ぎてすぐに渓流に上り、冷たい川水に落ち、濡れたままの衣服で歩いてきたのでかなり腹が空いているということだった。

「苦いところがないと、とても美味しいですね」

「俺にはらわたばかり食わせる気か」

 あと一匹、とねだる弘紀に、もう一度、はらわたを齧り取った魚を渡しながら、修之輔は苦笑した。

 残った魚に紐を通して囲炉裏の上に吊るすと、これもまた弘紀が珍しそうに見るので、こうしておくと十日ほど持つのだと教えた。聞けば、海の魚は開いて日の光に当てて干すようで、あじという海で獲れる魚の干物をよく食べていたと弘紀は言った。あまり日持ちはしないので他藩にまで運ばれることはないそうだ。

 作業を終え、沸いた湯を湯呑に注いで弘紀に渡す。一口二口飲んだ弘紀があくびをした。

「眠いです」

 まあそうだろうというか、予想されるそのままの反応を示す弘紀の素直さは単純に可愛らしい。

「衣服が乾くまで少し休め。そのあと本多の屋敷まで送ろう」

 修之輔の言葉にありがとうございます、と返事した弘紀はそのまま、すとん、と頭を修之輔の膝に載せて横になり、すぐに寝息を立て始めた。

 まさか己が枕になるとは思っていなかった修之輔は、代わりになる物を周囲に探したが見当たらなかった。師範の書物数冊を枕代わりにするのは流石に無礼で諦めざるを得なかったし、ここまで気持ち良く寝入ってしまわれては無暗に動かして起こしてしまうのも可哀そうに思えた。

 

 弘紀の規則正しい寝息に、時おり、囲炉裏の炭火がはぜる音が混じる。手持無沙汰に指を伸ばして、弘紀の頬にかかっている艶やかに黒い髪を指で梳いてみた。

 弘紀は綺麗に整った顔立ちをしていると改めて思う。輪郭に、鼻梁に、選ばれた血筋を何代も重ねた末に現れる、簡単には真似ようのない気品があった。

 弘紀はいったいどのような身の上なのだろう。

 昼間の大膳との会話を思い出したが、眠る弘紀の髪を撫でているとそんな疑問はどうでもいいことのように思えてきた。熟睡している弘紀の体温が着物ごしに伝わってくる。修之輔は己の心持ちが穏やかに凪いでいくのを感じた。

 外は時折風が吹き、冬枯れの木の枝を揺らしている。どこかの家屋の軒先で仕舞い忘れた季節外れの風鈴が鳴る音がかすかに聞こえた。 

 ふいに、弘紀が前触れなく起き上がった。修之輔の膝に置いた手で上体を支え、少しの間何か探るように辺りを見回す。襦袢から滑り落ちた袷を肩に掛け直してやろうとするとその手を弘紀に止められた。目はすっかり覚めたようだ。

「このままここにいると朝まで寝入ってしまいそうですから」

 弘紀はそう言って名残惜しそうに立ち上がり、もうほとんど乾いた袴と小袖に着替えた。泥の汚れや血の染みはうまく取れたようだ。

「貸していただき、ありがとうございました」

 羽織っていた修之輔の袷を丁寧にたたみ、弘紀が頭を下げた。 

 脇差と太刀を身に着け、持ってみたいと言う弘紀に下げ提灯を持たせて外に出ると、晩秋の夜の寒さが肌を刺した。月が夜空に浮かぶ。

 弘紀が寒いと言って修之輔の右側にぴったりと身を寄せて歩くので、これでは何かあった時に刀を持つ手が使えない、というと今度は左側につく。そうすると提灯の持ち手が太刀にぶつかる。弘紀が左手に提灯を持ち替えると、今度は修之輔の足元が暗くなる。

 ああだこうだと言い合いながら歩いているうちに、気づくと寒さを忘れた。角を曲がれば本多家の屋敷の門が見えるというところで、弘紀が足を止めた。

「見送りはここまでで大丈夫です」

 では、と提灯を受け取ろうと修之輔が持ち手に掛けた手は、弘紀の手と重なった。弘紀が修之輔の手に提灯を預けながら身を寄せてくる。

「明日の稽古もよろしくお願いします」

 修之輔の胸の辺り、頬を寄せて囁く弘紀の耳に、修之輔は分かった、と唇を寄せて囁いた。いつものことを話しているのに内緒話をしているようで、おかしかった。そして互いの羽織越しでも弘紀の体の温かさを感じたと思ったのは、冬も間近な秋の夜の冷たい空気のせいかも知れなかった。


 家に戻り寝支度をして、修之輔はふと身に着けた袷がまとう自分のものではない匂いに気づいた。川魚を焼いた匂いは仕方ないが、その他に微かな日向の匂い。弘紀の匂いかと思うと胸の内がどこか温かくなった。そして先ほど弘紀から聞いた海とはどんなものなのか、水に匂いはないが海に匂いはあるのだろうか思いながら、眠りについた。


 弘紀の守り役である田崎が修之輔の元を訪れたのは、新年松の内が明けてすぐだった。田崎は、国元に戻る用事ができたのでしばらくここを離れることになった、と切り出した。

「こちらにきてから弘紀様はとても元気になられて喜ばしい限りだ。修之輔殿を兄とも慕っていて、髪型も揃いのままがいいと言ってきかない」

 田崎の生真面目な顔にどう反応したらいいか戸惑ったが、あれは修之輔の真似だったのか。

「剣の腕も上々のようだ。これも修之輔殿の指導の賜物だと感謝しておる。素行も問題なく、儂がいなくても大丈夫だろうという事で、国元に戻ることになった」

 国元は問題が山積みで人手が足りなくなっているらしい。内々のことなので浪人を雇うわけにもいかず、と愚痴になりかけたが、ここで言ってもしょうがないことだな、と切り上げた。大膳の話にもあったが、今はどの藩も内部に問題を抱えているのだろう。

「これからも弘紀様のことをよろしく頼む」

 そう頭を下げて、田崎は黒河藩を発った。

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