旅客機での出来事

「落としましたよ」

 ここは遥か上空を滑空する旅客機の中。ある若い女が、隣の席の男に声をかけた。手には男のハンカチ。

「全く気付かなかった。どうもありがとう」

 男は良い生地で作られたスーツ姿をしっかりと着こなしていた。おそらくオーダーメイドで作ったものだろう。活力に満ちた目は、いくつもの困難を乗り越えてきたことが伺える。女は彼に興味を持ち、続けて話しかける。

「とてもいいスーツですね」

「ありがとうございます。オーダーメイドで作ったお気に入りなんです」

 そこから二人の会話ははずむ。しばらく話した後、女は男にこんな質問をした。

「お仕事は何をされているんです」

 男はいたずらっぽく笑い、手元に持っていた小さなバックから聴診器を取り出した。

「お医者さんなんですね」

「ええ」

「きっと立派なお医者さんなんでしょうね」

「まだまだ未熟ですが、常に最善を尽くして仕事に打ち込んでいます。この前、生きるか死ぬかの大手術がありました。努力の結果、ぎりぎり、患者の命をつなぎとめることが出来ました。手術が終わった後の家族の笑顔、感謝の言葉は、生涯私の心に残り続けるでしょう。私は自分の仕事に誇りを持っています。これほど素晴らしい仕事は他にありません」

 女は男の話に聞き入った。世の中にはすごい人もいるものだ。

 その時、キャビンアテンダントが客席に駆け込んできた。

「お客様のひとりが急に苦しそうに倒れました。どなたか、お客様の中にお医者様はおられませんか」

 女はフィクションの世界で見たことのある光景に、胸をざわつかせた。また、隣に座る男が医者であることを知っている女は、彼の堂々と手を挙げ、颯爽と診断する姿を想像し、胸をどきどきさせた。

 しかし、いつまでたっても彼は自らを医者だと名乗り出なかった。女はしびれを切らし、男に声をかけた。

「どなたか倒れたそうですよ」

「そうらしいですね。心配です」

「あなたは医者でしょう。倒れた方を見てあげてください」

 男は申し訳なさそうに言った。

「私は獣医なんです」

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