3 手繋ぎ、とくのうみるく

 朝、目が覚めてハッとしました。

 時計を見ると八時半。今日は水曜日だから、ゆーかお姉ちゃんは朝から出かけて夕方まで帰ってこない日です。


 八時半ということは……もうお姉ちゃんが家を出る時間だ!


 急いでベランダに出て、隣のおうちのお姉ちゃんの部屋から音がしないか耳を澄ませます。

 今度は手すりに手をかけ、マンションの下を見ます。すると、丁度お姉ちゃんがマンションから出てきたところでした。


「ふおー、間に合った」

 

 十階から見下ろすお姉ちゃんはすごく遠くて小さいけど、うしろ姿を見られるだけでハッピーです。

 向こうの駅に向かって歩いていくお姉ちゃんの長い髪の毛は、朝日を浴びてキラキラ輝いています。


「いってらっしゃい、ゆーかお姉ちゃん」


 むふふ、今日も無事にお見送りができてよかった。

 『ななちゃん偉いじゃーん』。昨日、お姉ちゃんに言われたことを思い出して、また胸がドキドキします。

 

「よーし、今日も勉強頑張ろっと」


 そしたらまた、褒めてくれるかな。また勉強教えてくれるかな。



※※※※※※



 大学構内の並木通りを歩いていると、前から莉々が歩いてくるのが目に入った。

 すぐそこまで近づくとお互いに足を止め、先に口を開いたのは莉々の方だった。


「優花、昨日のホラー画像は一体何だい?」


 第一声がそれか。

 そういえば昨晩、ななちゃんの手が衝立から生えた写真を説明なしに送りつけたんだった。返信がなかったからすっかり忘れていた。


「いや、手が生えてきたからさ」

「いいよ、生えたのはいいんだよ。なぜそれを私に送ってきたのかと問いたい。びっくりしてスマホ落としたんだぞ」


 生えたのはいいのか。


「あんな写真がとれたら、とりあえず誰かに見せたいじゃん。しかし考えても見てほしい。私が気軽にそういうことをできるのは莉々しかいないのだよ、悲しいことにね」

「まあ……そうか。なら仕方ない。許してあげよう」


 仕方ないのか。

 大学に入学した時からの付き合いだが、いまだにこの人の思考はいまいちよく分からない。


「っていうかアレ、例のお隣の小学生でしょ?」

「そうそう。昨日はいっぱいお話ししたよ。勉強も教えた」

「へえ、優花、なんか楽しそうだね」


 莉々が私の顔をじっと見つめ、頬を緩める。思わず、自分の顔に両手を当てる。

 あれ、顔に出てたかなあ。


「ま、楽しいのはいいことさ。それじゃ私はお先に帰るよ」

「今からバイト?」

「そ。またね」


 簡素に言って、莉々がスタスタと足早に去っていった。

 莉々の背中をちらと振り返り、考える。

 私は他者と関わり合う中で、それ自体を「楽しい」などと明確に感ずることはほとんどない。しかしどうだろう、莉々の言っていたように、私はななちゃんとの関わりを楽しいと思っているのだろうか。

 分からない。分からないが、またあの子と話したい、声を聞きたいと思っているのは確かかもしれない。


「……もしかして私の精神年齢が小学生並だということか」


 まさかの疑惑に独り言ちる。

 いや、そんなことはない……はず。

 


 午後五時。大学からの帰り、マンションの足元を通る道路を歩いている時、私はふと顎をあげ視線を右斜め上に向けた。

 その視線の先、十階のベランダでピョンピョン跳ねて、私にブンブンと両手を振るななちゃんの姿が目に入った。

 わあー、めっちゃ嬉しそう。かわいい。めちゃかわいい。


 私も控えめに小さく手を振り返してから、目線を戻した。

 それから自宅に向かう私の足取りは、気のはやりに合わせて心なしか速まったように感じた。

 

 自室に入り、ほうっとため息をつく。

 もし仮に、間違いなくそこのベランダで今か今かと私を待っているであろうななちゃんのことを、知らんぷりして放置し続けたら、どうなるのだろう。

 想像して、心が痛む。

 そんなこと到底できっこない。悲しんでいる姿が目に浮かぶもの。


 などと考えながら、私はゆっくりと窓を開けた。

 無言で仕切り板を見つめる。

 

 すぐに、「おかえりなさい」、ななちゃんの声が聞こえた。

 「ただいま」と返すと、ななちゃんはどことなく弾んだ声で、


「下から私のこと見てくれたね」


 と言った。

 

「えへへ、嬉しい嬉しい嬉しいー」


 声の端々に、弾む音符が浮いて見えるようだ。

 そんなななちゃんに、思わずクスリと笑ってしまう。


「そんなに喜ぶこと?」

「だって、今までずっと私が眺めるだけだったんだもん。それなのに、ゆーかお姉ちゃんが私を見てくれたんだよ? 嬉しいよー」


 なんだこの子は。ホントかわいいな。


「じゃあもう一回見てあげよう」


 ベランダに出て、ななちゃんがするように壁と衝立の隙間に顔を寄せる。

 すぐそこにいたななちゃんは、昨日と同様、両腕をクロスさせて顔を隠してしまった。


「今は見なくていいの!」

「どうしてよ」

「ここだと近すぎるもん」

「ななちゃんは私のこと見るのに?」

「私がお姉ちゃんを見るのはいいの」

「ななちゃんの言うことが難しくてお姉ちゃんには分からないよ」

「分からなくていいの」

 

 そうかあ、小学生の理屈は難解だなあ。

 私は一旦衝立から一歩引いて、羽織っていた上着のポケットをまさぐった。

 そこに入れていた飴玉をひとつ取り出す。


「ななちゃん、飴をあげよう」


 隙間から手を通し、飴玉を差し出す。

 警戒心を与えないように、あえて顔が隙間から見えないように腕だけを伸ばして。

 飴玉をつまんだ指先に、ななちゃんの手のひらが触れたのがわかった。

 手に飴玉を置いて、私はすぐに飴玉ごとななちゃんの手を握った。


「かかったな、ななちゃんゲット」

「ギャー! おねおねおねちゃっ、にゃなな何!」


 ななちゃんが声をあげ、あからさまに動揺する。

 私は反射的に、握った手を離して腕を引っ込めた。


 おやおや、大学生が小学生の手を握る事案発生かな? 

 ギャーって叫ばれちゃったよ。通報されちゃいますかね。


「ごめんごめん、もうしないから。その飴、食べていいよ」


 罪悪感に襲われながら、努めて落ち着きを装う。

 ほんの戯れのつもりだったけど、まさかここまで嫌がられるとは。

 

 私は衝立に背中を向けて、膝を抱えるようにしてしゃがみ込んだ。


 うう、なんだ、心が痛い。心っていうかもはや、みぞおちが痛い。

 人間って本当に悲しくなると、みぞおちに鈍痛が走るんだね。


「ちがっ、違うからね、イヤとかじゃないからね。お姉ちゃん?」

「でも、ギャーって」

「いきなりでびっくりしただけだもん! 本当だよ!」

「いいんだよ、ななちゃんを捕獲しようとしたお姉ちゃんがいけないの。自首するわ」

「え、なんで」


 さすがにそれは冗談ですけどね。


「もー、だったら証拠、イヤじゃないって証拠、ほら!」


 ななちゃんが焦りの混じった必死な声で言う。

 すると、しゃがんでいる私のちょうど右肩あたり、壁と衝立の隙間からななちゃんの小さな手が出てきた。

 

「今なら心の準備、できてるから。握っていいよ」


 そうか、私に触れられるには心の準備が必要なのか……。それってやっぱり嫌ということなのでは。

 ええい、据え膳食わぬはなんとやら! 女ですけど!

 ぐちぐち考えながら、心の中で覚悟を決める。ななちゃんに背中を向けたまま、右手でななちゃんの手を取った。

 小さくて細いのに、柔らかい。うーん、握り心地が丁度いいなあ。


 手を繋いでいる間、ななちゃんはしばらく無言だった。

 にぎにぎしたり、親指でさすったりすると、ななちゃんはプルプルと腕を震わせた。

 仕切りの向こうのななちゃんは、いったいどんな表情をしているのだろう。


 どのくらいの時間そうしていたのかはわからないが、恐る恐るといった具合にようやくななちゃんが声を発した。


「お、お姉ちゃん、もう大丈夫?」

「え、何が?」

「だってさっき、お姉ちゃんの声がすごく悲しそうだった」


 なんだって。演技派女優の私の演技を見破るなんて。


「うん、大丈夫。ありがとう」

「えへへ……えっと、じゃ、じゃあ、もう手離してもいい?」


 えー、もうちょっと繋いでいたいなあ。

 なんてわがままを言えるはずもなく、私はひとこと「うん」と答えた。

 手を離すと、衝立の向こうで何やらガタガタと音がした。


「お姉ちゃん、今日はもうおうちに入るね。またね」


 私の返事を聞くことなく、ななちゃんは急いだ様子で部屋の中に入っていったのだった。

 と思ったら、数秒後に窓の開く音がする。


「お姉ちゃん、アメ、ありがとう」


 それだけを言い置いて、今度こそ部屋に帰っていった。

 ななちゃんがカーテンをシャッと閉めるのが聞こえる。


「……虚しい」


 ひとりきりってこんなに虚しかったっけ。

 ベランダに独り残された私は、しゃがんだまま遠くの景色を眺め、感情に任せて深いため息をついた。



※※※※※※



 ドキドキしすぎると、全身がグラグラ揺れて、身体のあちこちに心臓があるみたいになるようで、身体が熱くて、頭がぼーっとして……。


「うー、お姉ちゃんの手の感触覚えてないよー」


 せっかく手を繋いだのに、ドキドキしすぎて何も覚えていません。

 うう、もったいない。大きかったんだろうなあ、温かかったんだろうなあ。

 本当は、ずっと繋いでいたかったなあ。


 閉めたカーテンをみつめ、今更、逃げるようなお別れをしたことを後悔します。

 お姉ちゃん、まだいるかな? でもでも、恥ずかしくてお姉ちゃんと普通に話せる自信がないです。


 ベッドにダイブしてジタバタします。


「もー、なんなのこれー」


 お姉ちゃんといると、どうしてこんな変な風になるんだろう。

 何気なく、握り締めた手を開きます。お姉ちゃんからもらったアメがありました。


「とくのう、みるく……」


 袋を開けて、アメを口に含みます。口の中に、甘いミルクの味が広がりました。


「甘いー、とくのうだー。おねーちゃーん」


 ここ数日、頭の中にお姉ちゃんが住み着いてしまったみたいに、お姉ちゃんのことで頭がいっぱいだなあ。

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