十人目 白鬼

 梅雨明けももうすぐ其処、とニュースでは言っていたが世界が雨によって沈むんじゃないかと不安に思う程変わらず外の雨は降り続く。

 母は雨にトラウマがあった。

 実母が自分を置いて妹を連れて出ていった日に、こんな大雨が降っていたそうだ。

 俺が幼い頃、母は大雨が降り雷が鳴ると俺にしがみついて震えていた。そう言う時はどんな用事があっても親父はすっ飛んで帰ってきた。

 子供が一人増え、二人増えする度に母は強くなった。

 もう俺に抱き付く事も親父にすがる事も無い。

 でも、こんな雨の日はいつも思い出す。

 俺が母ちゃんを護らねぇと!って新聞で造った刀を手に、誓ったあの日々の事を。

 だから俺も雨の日は嫌いだ。


 中庭の蒸した苔の香りがする。

 雨戸を開けて、座敷のテーブルに宿題を拡げる。今日は部活が休みで親父が相談者の家に行っている為、子守を頼まれた。

 とは言え、桃果はヨーコ先生に貰ったプラスチックの石を桃恵と並べるのに夢中だ。

 俺は名ばかりの子守として座敷にテーブルを出し、居間の桃恵と桃果を時々見上げるだけに留めた。苔とイグサの良い香りがする。

 相変わらず座敷には米袋と酒が山積みになっている。

 現金を受け取るようになった今でも、律儀に米も持って来てくれる人も居る。

 下手なマッサージに頼むより鬼倒さんにちょちょっと祓って貰う方が楽になるんだ、と老父に笑みを浮かべられたら親父じゃなくても嬉しくなる。

 「坊っちゃんは継ぎなさるんで?」

 親父の前でそう尋ねられた。

 親父は俺に跡を継がせたいようで、それでいて、色々視える桃美に期待を掛けていたりもするので俺としては複雑だ。

 「俺に…出来るでしょうかねぇ。」

 とお茶を濁したのだが黙って座敷の奥に引っ込んだ親父の背中を見て、もう少し気の利いた事を言えば良かったな、と後悔もした。

 嘘でも「継ぎたい」と言うべきだったかな…なんて思ってみる。なりたい訳でもないし、かと言ってなりたいものも無い。

 大守さんみたく、自分の使命みたいに思えたら張合いも出るだろうが。

 ジャリジャリと中庭の砂利石を踏む音が雨音の隙間から聴こえてきた。

 相談者かと瞳を上げる。

 大きな蛇の目の傘が目に入った。

 傘の下から真っ白のワンピースが覗く。

 女性は縁側の縁で立ち止まった。

 何も言わない。

 不意に、母が作っている昼飯の臭いがした。

 味噌汁と、茹でたほうれん草と、炊きたてのご飯の臭いが一度に漂ってきて一家団欒の中に異物が混じっている様な不快な感覚に襲われた。

 「あ、の…。」

 声を掛けようとした瞬間、けたたましい音を立てながら桃美が此方に向かってくる。何か叫んでいる。

 「ニイ!そのヒト駄目!!」

 女性に眼を向けた俺の鼻先を何かが横切った。

 触れてないのにソレは冷たく、とにかく重い物だと判った。

 女性が傘を風任せに捨てた。

 薄い紫色の肩まである髪と穏やかそうな目元の女性。

 だけど、さっきは大きな傘のせいで見えなかったが右手に金棒を持っている。

 「桃太、み〜っけ。」

 確実に俺を見て、彼女は俺を捉えて、「モモタ」と言った。

 

 桃美が奥に走る。桃恵に「桃士を呼んできて!」と叫びながら桃果を抱き上げた。

 只事じゃなさそうな空気に、立ち上がって女性に向き直った。

 女性は泥だらけの靴のまま、座敷に足を上げてきた。

 「桃太、もう離れない。私の桃太…。」

 彼女が俺に抱き着いて来る。

 「親父の…事…?」

 ゆっくり落ち着いた声を努める。

 奥で桃果が泣いている。

 「オマエ…桃太じゃない!?」

 彼女の紫の瞳にきんが交じる。目を剥いて俺を見据える。

 暫し、俺を観察して

 「嗚呼、桃太のまがい者か。」

 そう言って金棒を振ってきた。

 金棒が重いのだろう。振りが大きいのでなんとか交わせた。

 座敷に置いてあった親父の肘掛けが木屑と化し、米袋が幾つか裂けてザラーッという米の流れ落ちる音が俺とこの鬼の間で響く。

 俺もなんとか身体を回転させて漸く免れた、と言う程度だ。当たらなかっただけマシと言うもの。

 親父は居ない。

 桃士に助っ人が頼める訳ない。桃李だって、桃恵だって…。唯一桃美の眼が使えるが…だからこそ家族の傍にいて欲しい。俺に緊張が走る。

 母は今、七人目を妊娠中だと言う事が先日判ったばかりだ。出来れば巻き込みたくない。母の事だ。共に戦う、と桃太郎の刀を手に今にも走ってきそうで怖い。親父が居ない時だからこそそんな事はさせられない。

 家族は俺が護らなければ…しかし世界中で独りぼっちになった気分だ。

 彼女がまた、金棒を振り上げる。

 ふと眼に留まった酒瓶で金棒を受けた。

 無論、軽く、脆く、儚く割れて周りにアルコール臭を撒いただけだった。

 だが、彼女は短い悲鳴を上げて眼を覆った。

 酒を包んであった紙には「御神酒」とある。

 イワシの頭も信心から…と言う。

 酒瓶の中から「御神酒」を目で追う。

 こんなに酒瓶が並んで居てはたった一種を探すのも一苦労だ。焦る想いが先立ち一巡しただけでは御神酒が見当たらない。

 落ち着いてもう一度、もう一度、見直す。

 見付けた!手を伸ばした時には彼女も体勢を整えていて右腕目掛けて金棒で突かれた。

 「ぎゃあっっ!」

 突かれたのは腕なのに痛みが頭にまで響いた。もう何処が痛いのか判らない。眼の前が眩む。

 崩れ落ちる俺の耳には教室の喧騒が何故か聴こえていた。

 鼓動と共に痛みが耳に入ってくる。

 桃果の泣き声は…?

 自分の唸り声と呼吸音とズキンズキンと言う音と教室の喧騒…。

 目の前の彼女は瞳孔を見開いた爛々とした表情で唇を動かした。

 雑音で聴こえない。

 雨の臭い。

 風の臭い。

 桃果は泣いて無いか?俺が護らなきゃ…!

 妹達の為ならば骨の一本や二本どうなったって構わない。

 必死に立ち上がる。

 傷めたのは腕なのになかなか地面に足が付かずに苦労した。

 俺は左手で御神酒を持ったまま外へ飛び出した。

 鬼は俺を目で追いながら家の奥の匂いを嗅いだ。絶対に家族の匂いを検知した筈だ。

 滝壺の中に居る気分だ。

 頭に、背中に、全身に落ちてくる石礫いしつぶてみたいな痛い雨を受けながら、鬼が此方に来てくれる事だけを祈る。

 「俺に勝てば親父の居場所を教えてやる!親父が何処に居るのかは俺しか知らない!」

 こんなハッタリが通用するのかは掛けだった。

 冷たい水が跳ねて顔に飛び散ってきた。 

 一瞬にして鬼が目の前迄迫っていた。

 焦りが身体中を駆け抜けた。

 歯を喰い縛り上体を反らせ御神酒を桃の樹の根本に捨てまた走る。

 水溜りがもう河の様だ。脚に水が絡み付いてくる。部活で馴らした自慢の脚なのに鬼は直ぐ追い付く。

 手を伸ばされては逃げる。そしてまた追い付かれる。その繰り返し。

 狭い庭で何処までやれるか判らないが…ドロが跳ねて裾が茶色くグラデーションに染まった白いワンピースの腹を思い切り蹴り、鬼の力を解放した。一蹴りで一瞬にして庭の隅迄跳べる。離の壁から屋根に向かって駆け上がり空に向かって跳び上がる。雨が脚の下に落ちていく不思議な感覚。

 庭を、鬼を見下ろすと、此方に向かって塀を駆け上がり跳び上がろうとしている所だった。

 身体を反転させ鬼に向き合う。

 無論、喧嘩なんてした事無い。桃士とですらせいぜい口論だ。アクション映画や喧嘩っ早い親父が庵門くんのお父さんに喧嘩を吹っ掛けた様に、町でも小競り合いはよく起こしていた。俺の喧嘩の知識はこの二つ。

 それでも今は縮こまっている場合じゃない。

 親父がよくやるみたいに接近してくる対象目掛けて脚を上げる。鬼の肩目掛けて踵を振り下ろした。

 的が外れたが俺の踵は鬼の胸に当たった。

 鬼は怯みながらも俺の膝に肘鉄をお見舞いしてきた。

 「!!!」

 声にならない激痛が走った。

 瞬時思ったのは「走れなくなる!」だった。落ちていく身体は唯重いだけの荷物だった。

 精神はまだ上体を起こし、鬼にさっきの膝のお礼を顔面目掛けて繰り出せる元気があった。だが身体が痛みで動かない。

 地面に落ちた身体はドスンではなく、バシャッという周りに水飛沫を上げた音だった。それもほぼ雨に消された。

 片足を付いて立ち上がったが膝が笑う。

 まともに走れる訳は無いが此処で走るのを止めたらスポーツ特待の名折れだ。

 俺にはコレるしか無いんだ!

 怪我を負って居ない脚を軸に走る。

 追い付いて来て目の前でニヤリと笑って見せる鬼の顔面目掛けて頭突きを喰らわした。

 昔、クラスメイトの頬を斬った忌々しい角が頼もしく鬼の額に傷を作った。

 「ぎゃああっ!」

 今度叫び声を上げたのは鬼の方だった。

 どんなに血を流しても、骨を折ろうと、肉さえ喰えば快復する。

 しかしあいては直ぐ様血肉を摂取する事が出来ない。最も俺が喰われなければ…の話だがそんな旨い物、与えてやる訳がない。親父が帰る迄、此処の柱は俺だ!!鬼の方を先に動けない状態にすれば良い。肉を欠き、血を流させる。今の俺に出来るのはソレだ。

 身体中の血が沸騰している様に熱くたぎる。右腕と右膝は疼くがそれだけ。痛いだけ。血が出ている訳でも肉が削がれた訳でも無い。

 また走る。軸足じゃない左脚に力を込めて跳び上がる。

 屋根を走り、蔵を目指す。

 蔵には鬼と闘ってきた先祖代々の武器がある。

 鬼を振り返ると、額を押さえながらも追い掛けてきていた。

 「鬼さんコチラ!手の鳴る方へ!」

 軋む腕を動かしながら手を打った。

 鬼の眼の色がまた強くなる。

 居住空間と蔵を仕切るように生えている桃の樹を飛び越える。 

 跳ぶ俺の腰を鬼が掴んだ。

 「つぅかま〜えたっ!」

 その鬼の手を伸ばした爪で引っ掻く。

 「ギャウッッ!」

 「親父の居場所が知りたい?スナック白雪しらゆきで雪女と乳繰り合ってるぜ?」

 眼を細めて微笑うと

 「ウガァァァァァァァッ!」

 鬼が叫んだ。

 「ガァァァァァァァァッ!」

 仕返しのつもりで喉の奥から声を絞り出して叫んだ。まるで獣の唸り声の様なそれに自身が一番驚いた。

 しかし、眼の奥の熱からしても自分が今、鬼の様相をしている事位簡単に気付けた。

 俺の眼も、金色が混じっているのだろうか。

 知りたいけど知ってしまうのは怖い現実。

 鬼にもっと血を流してもらわなければ…そればかりを想う。

 腰を掴んでいる鬼の腕が離れない様にしっかりと爪を食い込ませる。

 鬼も叫びながら腰に爪を立ててきた。

 鬼の腕の肉を引き裂いていく。真赤な肉が露わになり、ドス黒い血液が流れ出す。

 鬼は喚きながらも俺の腰に噛み付いてきた。

 インディゴブルーのデニムが黒く染まっていく。

 「ぎゃああああっ!」

 負け犬の様な声だと自分でも思った。

 自分で思ったのだから鬼は更に思っただろう。獲物の最期の一声の様に聴こえたかもしれない。

 負ける…負けた方が楽になる…負けで良い、と弱気が胸を支配していく。

 ダメだ!妹達やお母さんに危険が及ぶ。

 また、眼の奥に力を込める。この腕の骨さえ折れば後は筋繊維の束。

 「ヤレル!!」

 ひたすら腕を掻きむしった。

 俺達二人の身体が地面に落ちた。

 「ぎゃいぃぃんっ!」

 「クソッ!!!」

 鬼が俺の下敷きになってくれたお陰でたいした怪我もない、寧ろ、鬼に喰われている腰の方が重症だ。

 足の先まで痺れてきた。神経を破られた…と感じる。

 口を大きく開け、酸素を求める。

 「なんだソレ…ホラーだったらさぞかし退屈なシーンだろうな…」頭の中で声がする。

 「鬼ってさぁ、もっと残虐な生き物だと思ってた。視せてみろよ。お前の『鬼』を…。」

 俺の眼にもっと力が籠もる。どんな非道い事をしてやろう。どんな眼に遭わせてやろう。きっと雌鬼の肉は柔らかいだろう。

 射精出来なくともその快感に俺もきっと溺れられる筈だ。俺の動物…あやかし的勘がそう告げる。

 楽しみだ。愉しみだ。

 (さぁ、俺をイカせてくれよ!!!)

 俺は大きく口を開け、鬼の身体目掛けて歯を立てた。

 しかし、俺が実際噛じったのは想像していたより冷たく、硬質な音を立てて俺の口を遮った。

 「やぁ、桃次郎。楽しそうだけどこんな土砂降りの日に何をしてるんだい?」

 目玉が飛び出る程驚いた。

 俺が噛み付いたのは陽溜の腕だったからだ。

 いつもの穏やかな笑みが濡れた前髪の向こうから、流れ落ちる雨粒の向こうから、覗く。

 慌てて口を開ける。

 俺の歯は数本陽溜のバングルに当たり、数本、陽溜の腕に穴を空けた。

 穴から黒い血が湧き出てそのまま雨と共に地面に溶けた。

 「どうして此処に居るのかな?えんじゅ。人間界に来るのは許可制になったのまさか知らないの?人間界に無許可で飛び出して行った雌鬼が居るって鬼ノ国では大騒ぎになってるよ?」

 頭の中の雑音を消してくれた暖かくて穏やかな高音の安心する声。陽溜は自分の腕に穴なんて空いて無いかのように平然と言葉を紡ぎ続けた。

 「能無し陽溜…なんで人間界に居るの?」

 さっきまでの怒りに満ちた瞳を冷たく光らせ彼女…槐という鬼が嘲笑った。

 「桃太郎の祖父だからだよ。」

 「陽溜が桃太の身内って言う噂は本当だったんだ…。こんな役立たずがお爺ちゃんで桃太、可哀相。」

 隣に居た世嗣が槐の腿を蹴った。

 彼女は一瞬で数メートル向こうの桃の樹に打ち付けられた。

 「止めなさい!世嗣!相手は桃太郎の友達だよ?」

 陽溜は急いで彼女の元へ駆け寄り、彼女を抱き起こした。  

 「槐、桃太郎はここ、人間界で家族を持ったんだ。槐も鬼ノ国に千代光ちよひこっていう旦那様が居るだろう?  

 桃太郎への気持ちは嬉しいけど一刻も早く鬼ノ国に帰って欲しい。君を捉えに菊美が此方に向かってる。」

 「嫌よ!」

 槐はそう叫ぶと陽溜の胸を突き飛ばした。

 「私はずーっと桃太が好きだった。陽溜だって知ってるでしょ?桃太だって私の事好きだった。私、知ってるもの!」

 「槐の気持ちは知ってるし、微笑ましかったよ?でも、実際、君に勝って、君を得たのは千代光だ。」

 「黙れ!」

 槐の爪が陽溜の頬を裂いた。

 世嗣が立ち上がりかけたが陽溜に片手を向けられ呼吸を震わせながらもなんとか其処に留まった。 

 「千代光はつまらない男なの。

 私が『アレが欲しい』って言うとどうやってでも手に入れてくる。『コレして』って言うと何でも馬鹿みたいにやってみせた。

 本当につまらない。

 桃太は絶対そんな事しない。『ゼッテェ無理だ!自分でどーにかしろ!』って男らしく言ってくれた。  

 私は桃太が良いの。」

 どうしてそこまで親父が良いのか正直判らなかった。

 「だからね、私、千代光を殺してやった。

 だから、私はもう自由なの。桃太の槐になれるの。」

 愛しそうに眼を細める彼女の笑顔に、鬼を視た。

 「桃太郎には今、誰よりも愛しい奥さんが居るから、桃太郎は槐のモノにはなれないんだよ。」

 陽溜の哀しそうな瞳を受け、槐は絶叫して陽溜の頬を拳で殴った。

 陽溜の身体は簡単に数メートル転がったが最後は両手を付いて空中で回転して足の裏を地面に付けた。

 「そっか!奥さん殺せば桃太は私のモノになる!」

 槐の瞳の色がまた変化する。

 俺は樹の根本に置いていた御神酒の瓶をこっそり取りに這いずった。ゆっくり世嗣が付いてくる。

 御神酒の瓶を左手に取り、上体を起こす。

 瓶にすがり付きながらなんとか座れた。

 でも呼吸する度に声が洩れる。

 「邪魔するな!陽溜!!この腰抜けが!」

 槐が陽溜の腹を蹴り上げる。

 「桃太の嫁を連れて来い!じゃないと殺す!」

 離の建物に押し付けられた陽溜が首を左右に振る。

 「ギエェェェェェェッッ!!」

 槐の奇声が恐怖心を煽った。

 鬼だから怖いんじゃない。家族の危機に恐怖している訳でも無い。

 「嫉妬」その感情そのものが恐怖の対象だった。

 「無能!!役立たず!!馬鹿!!クソッたれ!落ちこぼれが何いきがって用も無いのにしゃしゃり出てるんだ!

 オマエを皆が嘲笑ってる!お前の角は飾りだろ!お前なんか要らない!消えろ!」

 槐の爪が陽溜の首を、胸を、腹を、腕を、抉っていく。

 陽溜は呻き声一つ立てず、その手を止めず、歯を食いしばっていた。

 「言わないよ…。槐。

 俺は…桃太郎の家族を奪わせない…。あの子の幸せを奪わせない。

 好きなだけ蔑めば良いよ。俺は全然痛くないから。」

 陽溜がまた微笑う。

 恐怖の余り声を上げる。何と叫んだか判らない。声にならない声をひたすらに上げた。

 (親父!助けて!陽溜が死んじゃう!!)その想いを込めて。

 家の中で身を潜めて家族が呼吸をしているのかと思うと恐ろしくもあり、また、何も出来ない不甲斐ない自分を呪った。角を、俺のプライドだと、俺を畏怖する視線に向かって叫んでいれば、俺は鬼だと自分に言い聞かせていたら家族を護れたのに…!

 陽溜は槐の手に押し付けられながら激しく呼吸を繰り返している。

 「桃太は私のだ!」

 槐が剥き出した爪を陽溜の胸に刺し込んだ。

 「ゲェホッ!」  

 陽溜の口から鮮血が飛び散る。

 たまらなくなった世嗣が槐に向かって走り寄る。

 「ダメ…世嗣…唯でさえ傷付いてる槐を…これ以上傷付けちゃ駄目…だよ。」

 「そうやって甘い事だけ繰り返して言ってたら良い。能無しはそんな事しか出来ないんだから。」

 嬉しそうに槐が微笑う。

 「槐…槐は白鬼。嫉妬の白鬼。

 嫉妬に狂って…自分を見失ってるだけ…。

 槐にだってちゃんと幸せになって欲しい…。」

 「寝言は寝て言え。」

 槐は陽溜の胸に立てていた手に力を込めた。ゴリゴリと割れる音がした。おそらく胸骨が何本か折れたのだろう。槐は満足そうにニヤリと笑った。

 「非力な陽溜。甘ったれの優男。鬼の劣等生。私の幸せはたった一つ。桃太の嫁に死んで貰って桃太を私の物にする。」

 陽溜の瞳が哀しそうに伏せる。

 「今の槐を…桃太郎に…見せたくない…。

 桃姫ちゃんを…傷付けようとする…槐を桃太郎は…絶対に許さない…。」

 槐の手が陽溜の中に埋っていく。

 槐の腕を黒に近い赤い血が滴る。情け容赦無く雨が陽溜の血の色を薄めどんどん流れる。

 驚愕。動揺。顫動。 煽動。 撹拌。 攪拌。 動乱。 興奮。 昂奮。狼狽。 不安。恐怖。憎悪。激憤。義憤。憤激。憤慨。悲憤。混乱。混乱。混乱……………。俺の頭を様々な想いが駆け巡った。

 「鬼ィィ!!貴様俺の桃次郎に何した!?」

 我武者羅に叫んだ声がどうやら親父に届いたらしい。御神酒にもたれたまま、泥だらけで半分尻を喰われた俺が親父に笑って見せる。

 「おせぇよ…。」

 強がりに愚痴っておく。

 槐は陽溜を掴んでいたその手を伸ばし、親父の首に腕を回した。

 「桃太。逢いたかった…。桃太と一緒になる為に私…強くなったの。事情は聞いた。人間にかどわかされたのね?大丈夫、そんな小娘、殺してあげる。だから桃太、私と一緒になろう?」

 槐は今までの事が嘘の様に甘く微笑む。

 槐の手から陽溜の血が洗い落とされて行く。

 親父は項垂れる陽溜や立ち上がれない俺に視線を向け、槐を睨みつけた。

 今の内に…御神酒を支えに陽溜の元迄這う。

 血液を多量に失った身体が雨でどんどん冷えて行く。寒くて堪らない。

 「お前…俺を怒らせて得しねぇ事くらい判ってんだろ?何でこんな事する?

 もしかしてお前が鬼倒を絶滅しに来た刺客なのか?」

 親父は静かに怒りを滲ませた。

 「シカク?

 ソレがあれば桃太を独り占め出来るなら私、その資格貰う。」

 ウットリと槐が応える。

 さっきまで俺と死闘を繰り広げたなんて信じられない程愛しそうに幸せそうに微笑って見せる。

 陽溜の頬に触れた。陽溜の顔色はすっかり真っ青だ。

 「陽溜…。生きてる?」

 「桃次郎…寒くない?」

 陽溜もガチガチと歯を鳴らしている。

 「手を…。」

 陽溜が俺の手を取ってくれた。

 少しずつ陽溜の掌が温かくなってきた。

 大抵の鬼は体温を自分で調節出来る。自ら発火する事も出来る。俺は体温調節も発火も無理だけど。

 真っ青な顔で俺に体温を与えてくれる陽溜の手を擦る。俺に出来る事なんてこんな事位しかない。

 親父は冷たい眼のまま槐を見下ろしたまま

 「判った。お前をめとってやるよ。」

 とんでもない馬鹿を口走った。

 「親父!!」

 「桃太!!」

 抱きつこうとする槐を片手で制して

 「その代わり、俺はお前を抱かねぇ。

 お前を愛する事もねぇ。

 その条件を飲めるなら一緒になってやる。」

 親父は揺るぎなく宣誓した。

 「そんなの!一緒になる意味がない!!」

 「元々一緒になる意味なんかねぇ。

 俺が愛してるのは桃姫さんだけだ。陽溜は俺の一番好きな奴、桃次郎は俺の一番の宝物、桃士は俺の一番仲良しで、桃李は俺の一番の理想、桃美は俺の一番可愛いで、桃恵は俺の一番のたのしみで、桃果は俺の一番大事だ。

 それ以外に入る隙なんてねぇ。」

 親父の馬鹿がこんな時に俺の胸を締め付けてくる。親父の品の無い声に、今日の俺は言葉が詰まった。

 「桃姫、その女殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!!!!!」

 声と雨音が交互に聴こえて気味が悪い。

 「殺す」と手を伸ばす彼女の身体を親父が捕まえる。

 「させるか!」

 壁に頭を押し付けた陽溜が震える唇を必死に開ける。

 「桃太郎…槐に…謝りな…さい。」

 譫言うわごとの様に陽溜が呟く。

 しかし、親父の耳には届いていない様だ。

 「桃次郎!!」

 急に親父に呼ばれて飛び上がりそうになった。

 親父が自分の首に下がっている金の楕円を俺に投げ渡してくる。

 親父は槐を捕まえているのに必死だ。

 これは陽溜から譲り受けた「最凶最高の味方」を呼ぶ笛だ。

 天高く、遠くに向かって笛を吹いた。

 鉄の棒を耳から突っ込んで脳髄を掻き回された様な気分が悪くなる高音だ。

 親父も槐も耳を塞いでいた。

 

 降りしきる雨の向こうで雷鳴が轟く。

 母は大丈夫だろうか。

 頭の上でブゥンと大きな低い音がした。

 屋根の上に手には鬼らしい星付きの金棒片手に黒革のパンツ、夏の夜の様な明るい紺色の長い髪を一つにまとめた、立派な二本の角の勝気そうな女性が仁王立ちで此方を睨んでいた。

 「なんだい!?こんな雨の中!!」

 「母ちゃ…ん。」

 親父が呟く。

 …と言う事は俺の祖母に当たると言う事だ。

 そう言えば釣り上がった目元が親父に似てる。

 「今日はツイてないんだよ。

 今日のステージ、私の席の前のオッサンが私より2mもデカイんだ。折角のボス様のお姿が拝めない上、こんな雨の中呼び出されてクソ陽溜ぶっ飛ばしてやろうと思ったのに既に瀕死。どう言う事なんだい!?桃太郎!痴情のもつれかい?」

 始めて見る俺の婆ちゃんはとんでもなく喧嘩っぱやく、めちゃくちゃに存在感のある、そして底抜けに力強い女性だった。

 「俺と結婚したくてしゃーないって言うんだ。俺は既に結婚してんのに。陽溜は八つ当たりされたんだ!」

 それを聞くと、婆ちゃんは瞬く間に降りてきて槐を金棒の先で殴った。

 「え?何?聴こえなかった。」

 婆ちゃんはグイグイと金棒を槐の顔面に擦りつける。  

 親父と向き合いながらもう一度、婆ちゃんが

 「この女が何したって?」

 と尋ねた。

 明らかに怒気を孕んでいる。さっきの言葉は聞こえた筈だ。

 俺はうっすらと温かい陽溜の手をギュッと握った。陽溜が小さく笑った。「はは…やっぱおっかない…。」

 「俺と結婚してぇってしつこいんだ。

 俺にはもう愛する嫁さんと六人の子供が居る。今嫁さんは七人目を妊娠中だ。」

 婆ちゃんは「面白くないねぇ!」と叫ぶと槐の横っ面を金棒で殴った。

 槐はさっき迄同様、歯を剥きだして戦闘態勢にはあるものの跳びかかろうとはしない。

 強さのケタが違う。

 俺にだって読める程まとった空気が違う。

 「息子に嫁が居て、ワタシに孫が居るってぇのにワタシは会った事すら無いよ!

 こんな気の毒な話、聞いた事あるかい?」

 婆ちゃんは座り込んでいた槐の胸倉を掴むと容赦なく拳で殴った。

 「アンタ、桃太郎に御祝儀持ってきたのかい?」

 槐の、俺が抉った槐の腕を掴むと婆ちゃんはあらぬ方向に腕を曲げた。

 槐が叫び声を上げた。

 「ああ、そうかい。難有く頂くよ。」

 婆ちゃんはその腕をそのまま捻り肘から下を千切り捨てた。

 槐の悲鳴が耳にも心にも痛い。

 「陽溜を殴って良いのはこのワタシだけなんだよ。あんなにボロボロにしちまって悪い腕だ。鬼ノ国に帰って親から躾直してやるよ。」

 婆ちゃんが舌なめずりして見せたら、槐は首を左右に振って

 「ごめんなさい…。私…心が嫉妬の鬼に支配されていたみたい…。

 手ぶらで家に帰ったら両親に殺される!!お願い…助けて…!」

 やっと懇願した。

 許し難い謝罪だった。

 陽溜は顔をゆっくり上げて

 「皆…笑おうよう…。」

 弱々しく呟いた。

 だけど口元はいつもの様に笑みが浮かんでいた。

 世嗣が堪えきれぬ様に此方に向かって歩いてくる。

 「そうだ!そのお酒!御神酒…私…飲む!私の中の鬼をやっつけなくちゃ!陽溜を助けなきゃ!そうでしょ?桃太!」

 槐は此方に、親父に、婆ちゃんに忙しなく視線を向けて口先だけの笑いを見せた。

 片腕、肘から下が無い泥だらけのワンピースの女が這って寄ってくる姿はトラウマになりそうな物があった。が、俺に見せてきた許しを求める笑顔に、差し出された片手に、俺は素直にお神酒を渡した。

 背中で婆ちゃんが

 「それで、アンタ、嫁とワタシの孫は何処だい?」

 「其処に居んじゃん。陽溜の手握ってる、ソイツ長男だよ。」

 親父に言われて痛む尻の事なんか忘れて背筋をピンと伸ばし

 「は、は、は、初めましてっっ!鬼倒桃次郎と言います!!」

 婆ちゃんの夏の夜色の瞳がクルリと光って俺を見詰める。

 腹に風穴を空けられるんじゃないかと思って緊張が胸を支配した。

 「う〜ん…やっぱ雷流らいるに似てるんかねぇ…。」

 婆ちゃんが今度は俺の瞳を覗き込んできた。

 「なんにせよ男前だ!!」

 ガッハッハと豪快に婆ちゃんは笑う。

 「で、嫁さんはあの桃のお嬢ちゃんなんだろう?アンタ、ベタ惚れだったもんね。

 一瞬の発作みたいなモンだろうと思ってたのにホントに人間界に住み着いちまうんだからね。

 いつかはキクマに勝ってキクマを嫁にすると思ってたのにまぁ、あの子は優秀過ぎたからねアンタにはちょっと無理だったか。」

 呑気に笑い合う二人の脇で槐は陽溜の頬を撫でている。

 「陽溜の周りがいつも暖かいのは陽溜がお日様だからなのね…。

 鬼に産まれて可哀想…。」

 槐がお神酒を傾けた。

 飲む気なのか!?と後退った。

 少し掛かっただけであんなに喚いていたんだ。飲んだらどうなる?

 だけど、槐はお神酒を口にする事は無かった。

 瓶の底で殴った。

 殴ったと言うより貫いた、が正解だ。

 槐は、陽溜の胸にお神酒の酒瓶を突き立てて、瓶底が陽溜の体内にのめり込んでいくのを俺はスローモーションで視ていた。

 陽溜の瞳が大きく見開いた。

 穏やかに微笑んでいた口元から真赤な鮮血が飛び出し、やがてガクリと項垂れた。

 「私…お日様大嫌い。

 雨の日の方が断然好き。

 鬼に産まれて来たくせにヒト殺しの快感を愉しめないなんて可哀想。」

 槐は恐ろしい程、震えが出る程、歯が噛み合わない程、穏やかに、柔らかく、美しく、微笑んでいた。

 「陽溜ァァァァァァ!!!」

 親父が走り寄ってきて陽溜の身体を抱き締める。

 「クソ女…死ねない事を後悔させてやる!」

 婆ちゃんの瞳にまた金色が混じる。

 世嗣は自分の左手首をグルリと囲む様に彫られていた太陽の入墨が消えて行くのを見届けるなり、「よしっ!」と頷くと此方を振り返った。

 「いかづち集いてらい孕み、いなづま集わば稲魂いなだまと成せ!我が手より産みせし雷電!!」

 世嗣の右手から地鳴りの様な音、左手から稲光にも似た光の玉が出来たと思えば両手を合わせて槐目掛けて放った。

 炎でも起こせる鬼だが雷の、しかも集りとなるととんでもない熱量になるだろう。その上この雨だ。槐の身体が一瞬にして黒く焦げ、周りに焼けた肉の芳ばしい香りを立てた。

 その腹を婆ちゃんが貫く。

 「やっと陽溜の縛りから開放された!陽溜の力も手に入れた!俺様最強伝説の始まりだ!!」

 嬉しそうに世嗣の眼が爛々と輝く。

 いつもムッスと口を閉じて不機嫌丸出しだった世嗣と同一人物とはとても思えない。

 もう一度、婆ちゃんの手が槐の腹の中に沈む。

 槐の叫びと血飛沫が上がる。中庭には色付きの雨しか降っては居なかった。

 婆ちゃんは泥濘ぬかるんだ地面にお構いなしに槐を投げ捨て、顔の上に足を掛けた。

 「ワタシの玩具を殺したね?死んでも許さないよ!アンタの事はあの世でも一回殺してやる!」

 婆ちゃんが脚に力を加えた。

 ゴギンという厚い音がする。

 「キェェェェェェェッッ!!」

 槐の悲痛な叫びが響いて、俺は視ていられなくなった。

 陽溜の腕にすがる。

 本人はもう二度と頭を上げない。微笑んでもくれない。親父もじっと陽溜を抱き締め、真っ白な仮衣に紅い染みを広がらせた。

 暫しの雨の音。

 世嗣の動きも婆ちゃんの動きもない。

 ぎこちなく顔を上げ、見覚えのある紅い髪に息を飲んだ。

 陽溜の言った通り、菊美さんが来た。

 婆ちゃんの手を掴んで、槐に留めを刺そうとしているのを防いでいた。

 「槐は無許可脱国の罪、閻魔様直属配下殺害の罪で懲罰房に入ってもらう。

 こっからはアタシがしっかり反省させるから…桃太郎の母ちゃん…許してやっで…ウッウッ…。」

 菊美さんが肩を震わせて泣き始めた。

 その後ろに居た大きな大きな鬼が俺達の前に屈みこんだ。

 顔には憤怒した鬼の面。

 しかし、この鬼も肩を震わせていた。

 「初めまして…俺は燈鈴とがと申します。陽溜とは共に小鬼を育てていました。

 コイツは本当に良い奴でした。鬼にしておくのは勿体ないくらい…本当に優しくて明るくて温かい奴だった…。今迄沢山の仲間の死を見送ってきましたが今日程辛い別れはない…。」

 そう言うと陽溜の顎を上げ、開きっぱなしになっていた目蓋を片手で伏せた。

 面の向こうから鼻を啜る音がする。

 泣きながら、燈鈴さんが陽溜の身体からアクセサリーを外していく。

 「これらが唯一遺してあげられる陽溜だから大切にしてやってください…。」

 燈鈴さんの掌にある陽溜の左耳にぶら下がっていた「風」と「花」をモチーフにしたピアスを手にする。

 「どういう事だ!?陽溜の骨は婆ちゃんに引き渡されねぇのか!?」

 親父が陽溜の身体を燈鈴さんから引き剥がす。

 「残念ですが陽溜は咎人とがびとなので死んでも御家族の元には戻れません。

 それは奥様も既に承知しています。」

 「馬鹿言うな!俺は聞いてねぇぞ!こんな虫一匹殺せねぇ鬼の劣等生の陽溜がどんな罪を犯したってんだよ!!出来損ない過ぎてるからか?」

 親父は燈鈴さんの手を何度も振り払い陽溜の上に覆い被さった。

 「俺の爺ちゃんなんだ!!婆ちゃんともやっと結ばれたんだ!婆ちゃんはババァになるまでずっとずっと陽溜を待ってて陽溜だってババァになった婆ちゃんをずっとずっと愛してた!やっと一緒になれたのにたった15年やそこらで引き剥がしてやらねぇでくれよ!!世嗣もなんか言え!!!お前の父ちゃんが閻魔様に取られっちまう!!」

 親父は俺の事なんかお構いなしでワンワン声を上げて泣き始めた。

 「陽溜は親殺しの罪を犯したんだ。」

 静かな世嗣の声が響いた。

 先代桃太郎の話を思い出した。

 「鬼ヶ島…。桃太郎。」

 世嗣のその言葉に弾かれた様に親父が顔を上げた。

 「陽溜が言ってた…。『むかし鬼ヶ島で桃太郎に会った』って…。

 俺はてっきり陽溜も金銀財宝に目を奪われた鬼の一人だったんだと思ってた…。」

 燈鈴さんが首を左右に振る。

 「俺達は『援軍』として派遣されたんです。桃太郎討伐の。でも陽溜は…自分の両親を殺していた。本人は『桃太郎の援護と間違えた』って言ってましたが閻魔様の前で罪を認め、足の裏には閻の逆さ文字の焼印を押されている。咎人の印です。

 閻魔様の直属配下である閻の文字の焼印を持ちながら逆さ文字の焼印も持つ鬼は鬼ノ国広しと言えど陽溜しか居ません。」

 横で世嗣が「フフ…」と笑う。

 「陽溜は間違ってねぇ!金銀財宝に眼が眩んで人間に手を出した鬼が悪ィじゃん!陽溜は正しい事をしたんだ!なんでその陽溜が罰されなきゃならねぇんだよ!」

 今度は親父が燈鈴さんに掴み掛かる。

 「すみません…。俺にはなんともお答え出来ません。」

 「後悔してないよ。陽溜は親殺しをちっとも後悔してない。陽溜亡き今、陽溜の記憶が俺の中に入って、事情が読めた。

 陽溜が後悔してるのは『孔雀、傍にいてちゃんと育ててあげなくてごめん。』と『桃太郎、寂しい想いばかりさせて、長い間お爺ちゃんだと名乗れなくてごめん。』それ。」

 心なしか世嗣の眼差しが優しくなった気がする。

 親父が乗っかっていた陽溜の身体から漸く離れた。

 「桃太郎くん…。」

 心細そうな声が弱々しく聞こえた。

 少し離れた縁側から母が此方を見ている。

 手には生肉が入っているのであろうタッパー。

 「おかぁさ…。」

 手を差し出すと、母は靴下のまま此方に駆けてきた。

 不安気な顔から一気に泣き顔へ、苦しそうに顔を歪めて俺を抱き締めてくれた。

 「桃次…なんて姿に…もっと早く来れば良かった。ごめんなさい…。」

 冷たい雨に打たれながら母が震える指でタッパーの蓋を開けた。

 隣で眠る陽溜の姿に母は泣き崩れた。

 「こんな時に妊娠なんて…!私はなんて役立たずなのかしら!」

 小刻みに震える母の肩に親父が手を掛ける。

 「陽溜は最期まで陽溜だった。

 怨み言一つ言わなかった。最高の爺ちゃんだったよ。」

 母は親父を抱き締めて背中を何度か擦った後、俺に手渡してくれていたタッパーの中から肉を取り、槐の方へ足を向けた。

 「桃姫さん!!」

 親父が手を伸ばす。

 母は自分の恋敵、何より自分を殺そうとした鬼におくびもせず凛と背筋を伸ばし、槐の前に正座した。

 「口、開けられるかしら?」

 母の言葉に、俺も親父もキクマさんも言葉が出なかった。

 槐は残った力を振り絞り母を睨んでいた。

 「陽溜さんは貴女を救おうとした。だから私も貴女を救う。これは引き継がれた意思だから。

 もし、私個人の思考が勝っていたら貴女はここには居ない。地獄の地べたを這いずる事になったことを忘れないで?私、本当はとても強いの。だって母親だもの。愛する息子を、愛する旦那様を傷付けられて平気な母親なんて居ない。

 だから貴女はうんとうんと、陽溜さんに感謝しなければならないのよ?」

 母はいつもの穏やかな笑みを湛えながら桃果や親父に食べさせる様に槐の口の中に何かの肉を入れた。

 悔しそうに顔を歪める槐。

 「桃姫ちゃん、アタシは槐を裁いて貰いに地獄に戻らなきゃならない。今日はゆっくり出来そうもないから…また今度出直すわ。」

 キクマさんはゴールデンウィークの時に見せた、いい加減で不真面目な顔を引き締めて、「地獄」の文字の入った羽織にしっかりと帯を締めていた。

 不思議とキクマさんが着るとコスプレ感がしないでもなかったがやはりゴールデンウィークの時より格好良かった。

 今度、桃香に会ったら言ってあげたい。

 「お母さんは格好良いよ」と。

 陽溜の身体からアクセサリーが退いてしまうと、賑やかに鮮やかに在る筈の派手な入墨の身体が何故か急に寂しく視えた。

 「陽溜は閻魔様のお気に入りでした。何か減刑か特別な計らいがある事を願います。」

 そう言い、陽溜が着ていたベストを俺が、陽溜の腕にあった俺の歯型付きのバングルや種から芽の出ている結婚指輪、二本のキリを親父に手渡した。 

 「陽溜のベルトも俺に引き継がせてくれないか?」

 世嗣の言葉に燈鈴さんは頷き、陽溜のズボンからベルトを引き抜いた。

 「それでは俺達は地獄に戻ります。」

 「せめて婆ちゃんに陽溜の最期を見せてあげられないかな。」

 親父はしぶとく燈鈴さんを引き止める。

 「それは心配要らないよ。

 陽溜の最期を予知したのはママだから…。ママから自分の最期を聞いた夜、ちゃんと二人の時間を過ごしてる。

 陽溜の記憶も持つ俺だぜ?全部お見通しだ。」

 重たい口角を上げて世嗣が笑う。

 燈鈴さんが、陽溜を抱き上げ片手をかざすと、真っ暗な空に大きな扉が浮かび上がった。キクマさんと燈鈴さん、二人は足の裏に力を込めて大きく飛び上がった。 

 燈鈴さんとはもう二度と会う事はないかもしれない。それでも、燈鈴さんの腕の中の陽溜とはもう二度と会えないなんて、寂しくて仕方無い。

 ヒト、一人分空いた空間に眼差しを向ける。

 もう此処には陽溜は居ない。

 婆ちゃんは離の壁にもたれながら

 「ワタシ、むかし、反抗期が酷くて、毎日母ちゃんを殴ってた。

 ある日、男友達の家で遊んでる所に陽溜が乗り込んで来て、初めて陽溜に半殺しの目に遭わされた。あの時の憎しみに満ちた陽溜の眼の色が忘れられない。

 蒼い瞳に金が散って、まるで孔雀の羽根の様な色だった。

 あんな優男でも鬼の力に頼る事があるんだ…って驚いた。…と同時に頼もしかったよ。」

 婆ちゃんの笑顔に釣られて俺らも微笑った。

 陽溜の事は弟、妹達には本当の事は言えない。きっといつか話せる時が来たら全て話せるだろうか。それを今は願うしかない。

 それにしても納得が出来ない事があった。

 桃美が陽溜の未来を予知していないんだ。

 世嗣が俺の隣に並び

 「桃美は陽溜の最期を視た。焦った陽溜は桃美の頭に手をかざし記憶を消した。」

 コッソリ教えてくれた。

 俺よりほんの少しだけ身長の高い世嗣を見上げ、もう一つだけ疑問に思っていた事を口にしてみた。  

 「『あえなくなる』には何か意味があったんだろ?」

 世嗣はしっかりと頷いた。

 「『あえ』の漢字は『敢えて』の文字、『なくなる』は『有無の無』。敢え無くなる。つまり、死んでしまう、と言う事だ。

 陽溜は桃次郎に話そうかどうしようかも悩んでいた。それでも言わずに黙って消える事に恨みを持たれる事を怖れた。

 だから桃次郎にヒントを与えた。」

 ずっと、ずっとずっとずっと心に引っ掛かっていた。ちゃんと調べていれば…と唇を噛んだ。

 穏やかな陽溜の笑顔を思い出しながら血が滲む程唇を固く噛んだ。

 もうどんなに悩んでも高音を上げようと寂しがっていようと陽溜が俺達の所に現れる事は無い。

 お尻がすっかり浸かる程水嵩が増した庭に腰掛けながらぼんやりと座る。

 俺の胸には思っていたより大きな大きな穴が空いた。

 雨に打たれながら俯く俺の頭上に差し出される大きな傘。    

 「風邪、引くよ?」

 声の主に思わず眼を見張った。

 傘の隙間から覗く陽だまりの笑み。同じ視線にまで陽溜が屈んでくれる。

 「今日は一日雨だって。」

 肩を竦めて微笑む陽溜。

 「きっと明日は晴れるよ。」

 なんの根拠もなく陽溜が応える。 

 「早く帰らなきゃ皆が心配してるよ?」

 陽射しの様に陽溜が微笑む。

 俺は必死で抱き付いた。

 「嫌だ!!陽溜!死なないで!離れたくないんだっ!ずっとずっと傍にいてよぉ!」

 陽溜のベストをしっかり掴んで俺は声の限りを絞って泣いた。

 陽溜は小首を傾げて「俺は此処に居るよ?」と、相変わらずお日様みたいにポカポカ微笑んだ。

 陽溜の掌をしっかり掴んだ俺に何の文句も言わず陽溜は辛抱強く隣に居てくれた。

 「怖い夢は何日かしたら消えるからね?

 三日泣いても四日目にはお腹が空く。そういう風に出来てるものだよ?」

 陽溜が俺の顔を覗き込んでくる。

 「でも怖いんだ。陽溜を失いたくない…。」

 俺の頭を陽溜が撫でてくれる。

 「俺はね、傍に居なくても、此処に居なくてもずーっとずっと、お前の此処にいるよ?」

 そう言って陽溜が俺の胸を突いた。

 陽溜が俺のオデコを撫でる。

 「いつでも大好きだから…誰に何を言われても…俺はお前を最高だと想ってるか…」    

 その一撃は陽溜に言葉を言い終える優しさすら与えなかった。

 陽溜の胸に突き立てられた「御神酒」と書かれた酒瓶。

 「陽溜ァァァァァァァァ!!」

 俺は声の限り、叫んだ。

 

 この世からお日様が死んだ空は真っ暗で、まるで号泣している様な雨がしとどに落ちてきていた。

 

 

 

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