四人目 天狗

 高校に入って最初の記録会。

 忘れられているかもしれないが、俺は陸上部だ。

 コレでスポーツ特待を取り、高校に入れた。

 客席から黄色い声が聞こえる。

 …親父のだ。

 いつもは家に籠もっている桃美の姿も在って、感動して涙が出そうになった。やっぱり他のどの女の子より輝いている。こんなに観客が居ても一発で見付けられるってこの輝きはダイヤに匹敵するだろう。ヤバイくらい眩しい。

 自分の中での新記録を出す事は勿論、先輩の記録がどんなモノかも気になるが他校がどれだけの逸材を揃えているかも気になる。

 陸上で名を挙げている大英高校が控えに入ってくる。無論、俺の憧れの学校でもある。

 選手全員の空気が違う。張り詰めている。コーチの話を真っ直ぐ立って「ハイ、ハイ。」と真剣に聞く姿勢からも本気度が伺える。

 そのメンバーに違和感を覚えたのは野生の勘ならぬ半妖だがあやかしの勘か…。

 やがて観客席から親父の絶叫がキチンとした言葉として聞こえてきた。

 「ワスレモノ!」

 身の周りを確認して首を捻る。忘れ物なんて特にしていない。

 これがガンバレのキスとかハグとかなら間違いなくグーパンモノだが流石に頭悪い親父とは言えそれは無い…と思いたい。

 片手を振って「忘れ物は無い」とサインを出すも今度は母親まで手招きを始めた。

 「先生、すみません。ちょっと、忘れ物したらしく親が持ってきてくれてるので行ってきても良いですか?」

 先生は少し難しそうに眉間に皺を寄せたが「直ぐ戻れ!」と抜ける許可を得た。

 控えから出る時、大英の一人の選手と眼が合った。

 この人だ!と危険信号が鳴る。

 ぱっちりとした眼に高い鼻、外国人みたいだ、と思いながら控え出口に走る。

 観客席まで上がるのは面倒だと思っていた所へ親父と桃果を抱っこした母が降りてきてくれていた。

 「アイシングスプレー、これ、要るでしょう?」

 俺は盛大に肩を落とした。

 「あるから!ちゃんと部で用意されてるから!」

 こんなくだらない事に…と怒りが湧いて来そうになったが、笑顔で「にぃに〜、らっこして〜。」と手を伸ばしてくる桃果に免じて許してやる。

 「一応、持っておきなさい。桃美が、『必要になる。』って。」

 真剣な母の手からアイシングスプレーを受け取った。

 親父はニットキャップで角を隠したスタイルで「良いか?全力で走れよ!鬼のチカラを見せてやれ!」なんて何処まで本気か判らない話を切り出してくる。無視して、桃果に頬擦りする。この柔らかで独特の匂いくすぐったくなる笑い声。癒やされる。穴を掘って地球の裏側の人間達に桃果の可愛さを知らせたくなる。

 そんな夢心地な俺の頭を親父がいきなり掴んで耳元で

 「選手の中に天狗がいる。」

 囁いた。

 「え?」

 現実に引き戻される。俺を親父がギッと睨んでくる。

 「俺も天狗に会ったのは初めてだけど山の深い翠の臭いがする。

 神様と呼ばれるお高く止まった嫌味な臭いも。」

 大英高校の彼の顔が浮かんだ。なんとなく感じた違和感。

 親父にその話をしようと顔を上げた所に、

 「ツノツノ一本赤鬼ドン。」

 ふざけた歌い声が耳に届いた。

 俺も、母もそちらへ振り返った。

 両親だろうと思われる年齢の男女二人組がこちらを見てほくそ笑んでいた。

 親父はその場から書いて字の如く消えると次の瞬間には男性の脇腹に蹴りを入れようとしていた。

 「鬼はやっぱり野蛮だなぁ。」

 男性は穏やかに言うと親父の蹴りを止めていた右手を親父の脚ごと捻った。

 「ちょ…止めろよ!」

 こんな所で親が殴り合いなんて出場停止にでもなったらどうしてくれるのか。

 親父は捻られて勢いのついた身体でもう片足で顔面を狙ったがそれも掌で受け止められた。

 男性も女性も高慢な雰囲気を晒したまま笑みを絶やさない。

 それに応えるように親父がニヤリと歯を剥いて笑った。

 「いたっ!」

 男性が顔面を押さえて俯いた。

 親父は瞳孔が開いたまま気持ちの悪い笑みを湛え、得意気に手の中に隠し持っていたえんじゅの実を見せた。

 「ご挨拶です。どうぞヨロシク。」

 親父がまたどんな喧嘩を売るか気が気じゃなかったがメンバーの元に戻らなくてはならない。

 オロオロする俺に、母が優しく笑い掛けてきた。

 「行ってらっしゃい、桃次、見てるから。いつもの調子で走るのよ。」

 大きく頷く。

 駆け出した俺の背中に「天狗の嫁さんも天狗かなぁ?俺の嫁さんチョー可愛くて羨ましいだろ?あん?」喧嘩を売り続ける親父の馬鹿な声が耳に届いた。

 

 俺が走るのは中距離と長距離。俺の性格的には長距離の方が向いていると思うけど脚質的に向いているのは中距離だろう。1500mでは俺は一区を走る。

 スタートラインに向かうと例の外国人顔も向かっていた。

 選手の名前が読み上げられる少しの時間だったが彼は俺に「うちの父親がなんかちょっかいかけたんじゃない?」声を掛けてきた。

 眉頭を上げて首を横に振る。

 「俺の親父はすぐ誰にでも喧嘩を売るからこっちが迷惑掛けてないかの方が心配だよ。」

 やはりこの人は俺があやかしだと知っていて声を掛けたのだ。

 「父親は日本三大悪妖怪を潰してトップにたつのを夢見てるから。

 だからおには俺が潰すよ、キトーくん。」

 スタートラインに手を付きながら、彼が微笑み掛けてきた。

 潰されてたまるか。

 あの頃みたいに置いてけぼりにならない方法…皆の前を走り続ける事。

 スタートの合図と共に一斉に走り出す。

 天狗の彼の背中を追う。

 ユニフォームには「庵門」とあるが何と読むのかが判らない。

 彼の走りは一歩一歩が兎に角大きい。力強く踏込む一歩はまるで馬のようだ。

 俺は暫く彼に付いて走る事にした。

 3周辺りから周回遅れが出てくる。これからが面白いんだ。誰が周回遅れでどうなっているかが判らない。それでも「庵門」の背中すら見失わなければ間違いはない。心拍数の上昇と反比例して心地良さで支配される。

 ラスト一周、ずっと「庵門」に風除けになってもらっていた俺の方が体力は温存されている。グッと脹脛の裏に力を込めてラストスパートを掛けて彼と並ぶ。

 親父の訳の判らない絶叫が耳に届く。

 桃美が身を乗り出して見ている。

 桃李があんなに声を張り上げてるなんて珍しい。いつもはクールビューティーなのにそう言う積極的な桃李もニイニは好きだ!

 桃恵が顔を隠している。大丈夫!ちゃんと見ていて!ニイニは勝つよ!

 桃果が俺の抱っこを待っている。あのぷっくりふかふかつやつやぬくぬくに癒やされるというご褒美の為に俺は走るっっっっっ!!

 俺のゴールは愛する妹達とゴールテープしか見えてなかった。

 結局「庵門」を抜く事は出来たのか…隣を伺うと庵門が汗を拭いなら笑い掛けてきた。

 「やっぱ速いね。」  

 「君だって。」

 足は控えに向かってもリザルトが発表されるモニターを気にする。

 「男子1500m結果が出ました。」

 アナウンスに思い切り反応してモニターを振り返った。

 一位 鬼倒桃次郎の文字に一番沸いたのはやはり親父だった。誰かと大声でやり取りしている。思い当たるのは「庵門」のお父さんしか居ない。

 「庵門」が俺に手を伸ばしてくる。

 「次は絶対敗けないから。俺、庵門 和心あんも なごみ絶対覚えといて。」

 俺はその手を取り

 「ああ、手強いライバルだと認識しておくよ。」

 力強く握った。

 二区、三区と流れ良く走り出したアナウンスと声援を耳にしながら部内のアイシングスプレーを脚に噴霧する。

 折角の桃美の気配りを無にしてしまったが出来る限り私物は使いたくない。自主練の時に使わなければならないからだ。自分のアイシングスプレーを鞄に隠しながらそう思った。

 総合順位が映し出されると皆が一斉に身を乗り出した。俺は総合5位。三年生も居る中で取れた記録と言うのは嬉しいやら申し訳無いやら…。それでも妹達に良い所を見せる事ができて良かったと思いたい。

 次の自分の出番迄は応援して時間を潰すが庵門くんのあの力強い走りが何度も何度も頭に蘇る。庵門和心くん、総合7位。間の6位より俺には脅威だ。庵門くんをなんとか抜く事が出来たが(妹愛が強過ぎて盲目になったとは誰にも言えない。)今更、あの走りが俺に迫って来る。ドドドドと土煙を上げながらどんどん近付いてくるのだ。

 気晴らしに裏から外に出て、軽いストレッチを始めた。

 屈伸やアキレス腱を何度も伸ばしてなるべく庵門くんの走りを忘れる様努めた。

 「一位、おめでとう〜!パチパチパチ〜!」

 家族の声じゃない女性の声。

 その声に嫌悪と恐怖を感じた。

 振り返ると、私服の花園先輩がそこに立っていた。

 「そんな顔しないで〜。この間はごめんねっ?。鬼倒くんが不能だなんて私誰にも言ってないから。」

 無意識に大守さんのお護りを探した。

 此処にある訳ない。家だ。

 「私…きっと鬼倒くんの助けになると思うの…。」

 花園先輩が一歩、近付いてきたので俺は三歩分後ろへ下がった。

 「だって私…「淫魔なんですよね?」

 キラキラ輝いていた先輩の眼が丸くなった。

 「あら、なんで知ってるの?流石、鬼の鬼倒くん…。」

 先輩の瞳を覗き込む。

 どうしてソレを!?

 「強い妖怪ってニオウのよ?知ってた?貴男からは活気溢れる血のニオイがする…。不思議に甘い桃の香りもするけど…それも魅力的。

 私、強くなりたいの。もっと強い『チカラ』のある子供を産みたい。」

 この人は知らないんだ。

 急におかしくなってきた。

 「あはははははは。」

 「何が可笑しいの?」

 少しムッとする今までの立場が逆転した先輩が可愛らしく哀れに感じた。

 「俺は半妖なんですよ。

 しかも、鬼を征伐した桃太郎の子孫に当たります。桃太郎は桃から産まれた。

 だから桃太郎の子孫は皆、桃の甘い香りがするそうですよ?」

 驚いた様な、ショックを受けた様な、花園先輩の顔が堪らなく可笑しかった。

 「強い妖怪に憧れてるなら他を当たって下さい。大栄の天狗とか。」

 立ちすくむ先輩を置いて俺は控えに戻った。

 キャプテンから「どうした?」と尋ねられたので「何も無いですよ?」と答えたが、先輩は俺の顔を見直して

 「ギラッギラした眼してるぞ?」

 肩を竦めた。

 獣が小動物を追い詰めた時、こんな眼をしているのかもしれない。

 自分の中の人間では無い顔がひょっこり覗いたのを感じた。


 「次、5000、準備しとけよ。」

 先生の武骨な声に緊張感が走る。

 5000では俺は三区だから少し緊張を解すゆとりが持てる。

 アップの最中、親父の何を言っているか判らない「桃次キェーーーー!!」と言う奇声が今は心強い。

 5000は大体遅くても18分が平均。一区約20分だと考えても40分はアップに当てられる。

 先に走る先輩達のタイムやテンポを見ながら、慣れた、計算されている走りに安定を感じる。「最初から飛ばしていくな!流されるな!自分に良いペースメーカーを見付けろ!」何度も言われて来た先生の言葉が蘇るが頭には入らない。

 鬼のチカラを使わず人間の走りのみで走ってきた。今までの走りで良い。今まで練習を重ねてきた事に自信を持って自分らしく走るだけだ…必死に自分に言い聞かせる。自分に言い聞かせる事程無責任で説得力の無い言葉は無い。

 自信を取り戻す事が出来ない、迷った頭のままスタートラインに手を添える。

 地面の感触が気持ち良い。

 スタートの合図は聞き逃さない。

 鼓動が煩くて邪魔だ。

 庵門くんと一歩を出したタイミングは一緒だった。

 庵門くんの脚質はスラリと長く筋肉は薄く付いている程度。長距離向きだ。

 俺のドッシリとした筋肉質な短距離タイプとは全く違う。

 こんな細い足で良くあの馬の走りが出せるものだ。ひたすら庵門くんのスラリとした長い脚を追う。最初から余り飛ばすと後が辛い…判ってはいるが相手は馬並の走りを見せるのだ。ここで自分ペースに持って行って彼を逃がすともう二度と捕まえられない気がして必死に追った。

 後ろは我がペースを保つ事にした様で俺達化物二匹が放置されている。

 「自分のペースを守れ!鬼倒!!」

 先生の声が前から聴こえて後ろへ流れた。

 判ってます。でもしません。

 「桃次!!天狗なんかに前走らせるな!!」

 親父の叫び。

 そんな事は判ってる。いちいち煩い!

 5000mはトラック12周と200m。

 8周目から実力の差が出てくる。集団がバラける。

 周回遅れの尻を捕まえる。上体を左右に振って身体の軸すらブレるその走りからも周回遅れなのは見て取れたがトップとの違いは気迫だろう。

 庵門くんの背中から感じる、誰をも近付けさせないようなビリビリした迫力に此方の闘争心にも火が付く。

 もうトラック何周して、後何周残っているか頭で考える事が出来ない。

 脚だけが同じ動きを繰り返している。

 太腿を持ち上げて走る力任せな走りは体力を奪うが、余り脚を上げない走りは逆に躓き転倒しやすい。

 どちらも善し悪し。俺の走りは余り脚を上げないタイプだ。

 先生が指を出して残り何周の合図をくれた。

 リズムを取る為かノリの良いBGMが盛り上げてくる。しかし、そんなモノ、要か不要か、周回遅れになる奴も居れば音楽無視で脚を動かす奴もいる。

 俺も俺のテンポで走りたい。放っておいてくれ。

 先生が指を二本出した。「残り二周」のサイン。庵門くんの背中に何かが広がった。太陽の光に反射して綺麗だ。

 目を見張った。

 羽根…。

 庵門くんは天狗としての「力」を使った。

 「ズッリィぞ!おい!天狗ゥ!!桃次!鬼の力見せてやれ!」

 親父の言葉に眼に力が籠もった。

 脚から力を抜こうとして、毎日毎日、景色の変わらない町内を呼吸を上げながら走っている事を思い出した。

 あの苦しい日々を俺は裏切れない。人間として走りたい。

 鬼だから速いなんて言われたくない。

 鬼だから独りぼっちなんてもう味わいたくない。

 人間にコソコソされたくない。

 恐怖を感じたくない。

 奥歯を噛み締め、また、脚に力を込める。

 脹脛に嫌な痛みが走った。

 庵門くんはスイスイと前を走る。

 「『力』を使ってその程度か!天狗!!」

 親父みたいな毒を心の中で呟いてみる。

 肩と肩が並んだ。

 脚の痛みはどんどん酷くなる。

 桃恵が飛び跳ねて応援している。何を見逃したって俺はお前の華麗なる舞いを見逃したりはしない。今日もとびきり可愛いぞ!

 今度は桃美が両手で顔を隠している。顔なんか隠さなくて良い!さぁ、いつもの可愛い笑顔を惜しげも無く見せてくれ!!

 桃李がスマホから顔を上げてくれている。珍しい!レアアングル!!有難う!記録会!

 桃果は母の腕の中だ。にいにがゴールを決めて今すぐ抱っこしてやる!

 お前達の前ではにいには絶対格好悪い姿は見せない!!

 BGMも親父の馬鹿な応援も頭には入れない。俺のリズムはコレに限る。

 「にいに、にいに、にいに、にいに…。」

 念仏の様に繰り返しながらひたすらに脚を動かす。

 天狗が羽根を出してくるなら俺は妹への愛を余すところ無く出し尽す!!

 

 ゴール直後、俺はその場に倒れ込んだ。

 太腿の痛みで立ち上がる事も出来ない。

 順位なんて気にもならなかった。

 救護室から担架が持ってこられ、俺は妹達に一番見られたくない無様な姿を晒した。

 救護室に家族が雪崩の様に入ってきた。

 「桃次〜!阿呆!天狗なんかに負けやがって!天狗のあの高い鼻を益々高くさせちまったじゃね〜か!」

 「にいに、えやかったね〜!」

 桃果が頭を撫でてくれるのでそのまま抱き付いて擦り寄った。俺には何よりコレが効く。

 「ホラ、これ必要になったでしょ?」

 桃美がアイシングスプレーを振りながら渡してきた。

 「あれ?でもこれ…」

 「先輩が届けてくれたよ。部のはもう『使い切ったから』って。」

 得意気に桃美が笑う。

 (でもな、桃美、アイシングスプレーは救護室にもあるんだ!!言わないけど!)

 「有難う、桃美。

 桃美には全部お見通しだったんだなぁ。

 にいにが無様に敗けるの…知られてたんだ…。」

 太腿にスプレーしながら呟く。

 「オニィが無様なんて誰が言ったの?

 オニィ、格好良かったよ。最後まで本気で走ったじゃん!」

 桃李、今日はどうした!?スマホの充電が切れたのか?そんな一言くれるなんて…。

 鬼の力より俺の力で走り抜いた事を「凄い」と言ってくれる言葉が本当に嬉しかった。

 「桃恵も走りたい〜!!」

 「俺も!!」

 「もはも!もははにいにとはしぅの〜。」

 桃恵の一言に弟妹達がはしゃぎ出した。

 「じゃあ今夜から父ちゃんと走るか!!」

 何故か参加してくる親父。

 「いや〜!ととは駄目〜!」

 桃果に胸を押されて親父が眼を丸くした。

 「そ〜だよ。鬼の力使えとかいう父ちゃんは俺等の仲間には入れてやらねぇよ。」

 桃士の一言に思わず笑った。

 「桃姫さんっ!子供達が冷たい〜!!」

 冷たくされる原因は全て自分のクセに母にすがり付く親父。

 「ヨシヨシ、桃太郎くんは今夜は特別なお約束があったでしょ?」

 母の一言に親父は眼を反らして固まった。

 「桃次、今日は本当に頑張ったわね。凄く誇らしかったわよ。

 今夜はおご馳走しましょうね!」

 「やったぁ〜!」

 「だから、桃太郎くんはお約束があるでしょう?」

 母のいつもと変わらぬ優しい眼に心底安堵した。はしゃぐ親父を珍しく駿足で叩き落とす以外は母は通常通りだった。

 「親父、何したの?」

 簡易ベッドからゆっくり立ち上がりながら桃士にコッソリ尋ねた。

 桃士は嬉しそうに親父が天狗の苦手な物を検索して、「青魚」が苦手な事を知るや否や、「うちの桃次が敗ける様な事があったら寿司を奢る」と庵門くんのお父さんに約束したらしい。

 話を聞きながら馬鹿…と思いつつ、それでもそれだけの期待を掛けてくれていた事に少しの感謝も抱く。

 地面に脚が付くとまだ痛んだがこんなの肉を喰えばあっという間に治る。医者要らずだ。

 救護室を出ると俺の鞄を持った先生が立っていた。

 「惜しかったけど鬼倒の中では新記録だったぞ?一年でこのタイムなら全然上等。そういう点では凄く意義のある大会だったと思いなさい。」

 慰めではない、励ましに近い言葉を送られ、肩を叩かれた。

 「有難うございます。」

 頭を下げた母の肩から緩くウエーブされた艶のある漆黒の髪がサラリと落ちた。

 「お!ホントに救護室。」

 嫌味を含んだ高慢な声がした。

 一番に反応したのは親父だ。

 「お前の息子!反則じゃねーか!

 競技委員会に訴えてあの一位は取り上げてやるからな!学校にも通報してPTC的な所にも言ってやる!!」

 (ヒトには鬼の力を使えとか言っておいて…。そしてPTCってなんだよ。ペットボトルキャップか…。PTAだろ…。)

 「天狗のクセに人間に敗ける訳にはいきませんからねぇ。おっと…そちらは鬼なのに天狗に敗けたんでしたっけね?」

 「うおぉぉぉぉ!!!こいつの鼻っ頭を根っこから折ってやりてぇぇ!!」

 親父は後ろの通行人の妨げになってもなんのその、床に這いつくばって悔しがり始めた。

 「良いんです。うちの桃次は人間として敗けたんだから。私達は気にしません。

 それより貴男が本気で走ってくれたから桃次は新記録を出せたの。そのお礼をちゃんと言わなければね。」

 母が庵門くんに、「有難う。」と頭を下げた。

 親父は頭悪くて何考えてるか判んないけど、母は余りに風変わり過ぎて何を考えてるか判らない。

 けど、俺も素直に

 「有難う。」

 が言えた。

 敗けた悔しさが無い訳じゃない。でも、また、次がある。次が駄目でもその次が…。

 そうやって前を向いていこうとなんとなく思った。

 「今夜、良かったらうちにご飯食べにいらっしゃいよ。」

 母が気さくに庵門くんを誘う。

 庵門くんは驚いた様に眼を丸くして自身の両親の顔を見比べている。

 庵門くんのお母さんも然りだ。

 お父さんはうちの親父と似たタイプなのか

「良かったじゃないか、和心。鬼の住まいがどんなモノか見定めてきなさい。」

 と悪びれず嘲笑う。

 「良かったら奥さんもどうぞ。

 どうせ主人達は良い物を食べて来るんですから。」

 「桃姫さぁん!!」

 「和心がお邪魔するのに私までお邪魔は出来ませんわ。それに私、布団を干して来てしまったから帰らなくては…。

 また機会があれば是非お邪魔したいですわ。」 

 品良く話しているのに何故か庵門くんのお母さんの話し方は鼻につく。

 親父は庵門くんのお父さんに引きずられて行き、庵門くんのお母さんは違う方向へ歩いて行った。

 「庵門くんはどうやって此処まで来たの?」

 俺は公共交通手段だ。  

 「跳んで来たよ。」

 当たり前とばかりに庵門くんが応える。

 「俺は『走って』とか到底言えないなぁ。」

 荷物は桃士が持ってくれ、俺は母から桃果を受け取った。

 「鬼倒くんは鬼の力を使わないんだね。」

 庵門くんが引きずる俺の脚を見下ろしながら呟く。

 「うん。俺、半妖だからね。鬼の能力を制御して自力で走ったり跳んだりする事が出来るんだ。

 親父はやっぱり本物だから力の加減は下手くそだよ。

 庵門くんは完全に混ざり物なし?」

 「ないない、うちは両親共に天狗だよ。

 だから能力使って当たり前だったけど、今日の鬼倒くん見てて、自分の限界知るって良いなって思ったよ。いつも手加減して走らなきゃならないからどれ位が普通なのか判らなくて…正直つまらないんだよね。」 

 「天狗も人間に紛れて生活してるの?

 力に差があると凄く生きにくい感じする。」

 「天狗は無論山に住んでるよ。そこから人間の里に降りてくるんだ。そこかしこに天狗を神様として崇めてる神社があるからね、そこが山への出入り口。」

 鬼ノ国みたいなモノだろうか、と思ったり、でも鬼よりは自由に人間界に出入り出来るんだなぁと感心したり…庵門くんの話はいつも親父から聞かされてるような奇天烈な話なのにでも凄く興味をそそられる内容で、電車の中だと言うのに俺は構わずこの珍奇な異世界の話を一種海外の冒険譚の様に聴いていた。

 「天狗の山に人間が入るとどうなるの?」

 「ああ、よくあるんだよ。子供とか年寄りとかさ、紛れ込んできて。基本里に連れて行くよ。じゃないと『神隠し』とか『天狗攫《さら》い』とか言われちゃうもん。それでも、時々死のうとして山に入ってくる人間が居てね。そう言う時はそのまま他所の山へ連れて行くよ。天狗の山には置いておけないからね。」

 天狗のルールの冷たさに少しゾッとした。

 腕の中の桃果の頭を撫でる。頭頂部にある小さな角に触れ、こんな幼いのに鬼として産まれた運命を背負わされているのを可哀相に思った。

 「鬼倒くんは鬼なのに何で鬼倒なのか聞いても良い?」

 「鬼倒」と言う変わった苗字に疑問を抱く同級生は今までも沢山いた。

 近所の年寄りなら知って然りなのだが。

 「鬼を倒した桃太郎の話、知ってる?」

 庵門くんが眼を丸くする。

 「勿論、人間の里で小さな子供に教えてもらったよ。」

 「あの桃太郎は俺の母親の先祖なんだ。」

 庵門くんはもっと眼を丸くして、それから豪快に笑った。

 「桃太郎の子孫が鬼と一緒になったって?」

 「そうだよ。その上、鬼のクセに親父、名前が『桃太郎』だから嫌味だろ?」

 庵門くんが手を叩いて笑う。

 「そりゃ運命だわ。鬼は鬼倒家に完全敗北した訳だ!」

 「でも、母親の兄は鬼になって、俺の親父の幼馴染と結婚したんだ。出会いによって人生ってどう変わるか判らないもんだよね。」

 他人事の様に言葉にしながら、今日、天狗である庵門くんと出会った事によって自分の人生が大きく動かされるのかもしれない、と思うと心が開けた気がした。

 思えば、大守さんとの出会いもそうだ。

 人と距離を置いていたけど決して人が嫌いな訳じゃなかった俺に又、人と関わるきっかけをくれたのは間違いなく大守さんだ。そして、花園先輩…。それと慈。

 けれどこれら全てが慈による幸福への導きだとしたら…慈の力はやはり凄い。

 「俺も、鬼倒くんとの出会いは凄い衝撃だった!雪女とか、狸とか、河童とかあの辺の低級妖怪なんかは田舎行けばゴロゴロ居るけど流石に鬼は…後は九尾狐ね。正直、俺、伝説だと思ってたもん。」

 「鬼は普段地獄や鬼ノ国にしか居ないからね。昔は人間界に自由に来られたみたいだけど、桃太郎事件以降は閻魔様の許可制なんだって。

 九尾狐は…。」

 少し苦笑を漏らす。

 俺には思い当たる存在が居るからだ。

 うちの高校の保険医、横浜ヨーコ…。始めて声を掛けられたのは右脚に異常がないか?だった。もしかしたら今回のコレもその頃から傷めていたのかもしれない。

 妖狐とヨーコを掛けてみた!と俺に名前の由来を語ってくれた明るい茶色の緩やかウェーブの若い女性。俺にしてみれば凄いとか、怖いとか悪とかより…頼りにならない駄目な大人…俺の親父の馬鹿とは少し違って、一生懸命、斜めに走るタイプ。人間界で少し修行をしてこい!とやしろを追い出された劣等生。

 俺が思い出し笑いをしていると、庵門くんが「なになになに?」と興味有りげに聞いてくるので横浜ヨーコ先生について教えてやった。

 「え〜…良いなぁ!!九尾狐!俺も会ってみたい!文化祭とか行っていい?」

 「良いけどショック、ハンパ無いよ?期待持たない方が良いよ?」

 二人でクスクスと笑いながら電車を降りた。

 脚はさっきよりだいぶマシになっていた。

 

 母は冷蔵庫のタッパーを出してくれた。

 蓋を開けると、いつものレバー。

 庵門くんを居間に置いて、俺は台所で立ったまま凍ったままのそれを腹の中にかきこんだ。冷たい塊が腹の中でじわじわと溶けて行くのを感じる。

 牛なのか豚なのか鳥なのかそれすら知らない。母がパックから出してくれてるから。やはり親父の言う通り、生き物の形を留めていないと感謝の気持ちが足りなくなるのかもしれない。鬼は自分達で猪や熊を獲る。皮を剥いで、割いて内臓も肉も食べる。だから感謝を忘れた事はない、と。

 取って喰う時点で「鬼の所業」だと思わなくもないが、感謝の気持ちに繋がらないと言う親父の説にも頷ける。もはやどちらが「薄情」なのか判らなくなる。

 母は2キロはあるだろう鶏肉を冷蔵庫から出して薄力粉をまぶし始める。

 「庵門くんにお茶を煎れてあげて。

 茶箪笥に今朝焼いたチーズパウンドケーキがあるから出してあげてね。」

 母の言葉に顔を上げてしまった。

 「あら、桃次、チーズパウンドケーキ…嫌いだった?」

 母と目が合う。

 「いや…なんか…懐かしいと思って…。」

 大守さんが先日焼いてくれたケーキを思い出していた。

 ケーキにナイフを入れながらあの時の、少し塩っぱい凄く甘いあの味を思い出していた。

 「庵門くん、おまたせ〜。」

 庵門くんは居間と隣接している広い座敷を覗き込んでいた。

 「何?なんか凄いね!鬼倒くんのお父さん、宗教家?」

 庵門くんの言葉に流石に笑えた。

 「違うよ。親父は祈祷師なんだ。

 祈祷師なんて格好良い言い方してるけど本当は人間の邪念が具現化した子鬼を捕まえてるダケ。そのお礼にお米やお酒を貰ってたんだ。」

 今は「金をくれ!」とせびって現金を貰っているなんて死んでも言えない。

 「そう言うの良いよねぇ。俺達は勝手に何でも手に入るから欲しい物を汗水流して手に入れる努力みたいのが無いからさぁ、なんか色々考えさせられた。」

 努力しなくても色々手に入る庵門くんの方が何万倍も羨ましいと思うけど無いもの強請りなんだろう。庵門くんの深く何かを考えるその眼差しに、軽々しく「良いな」とは言えないモノを感じた。

 やがてテーブルに大皿の唐揚げと、野菜サラダが並ぶと、呼ぶでも無しに妹、弟が集まってくる。

 俺が手伝いに台所に行くと、母はまるで定食屋のおばちゃんよろしく手際よく料理を並べていた。

 「コレ、持って行こうか?」

 今や皿の一時置き場と化している二人掛けテーブルに乗っているカボチャの煮付と、黒豆の煮物を指差す。

 母はブロッコリーにピザ用チーズを掛けながら

 「助かるわぁ〜。」

 と微笑った。

 暖簾を潜ると、桃美が珍しく興味有気に庵門くんに話し込んでいた。

 「あ!来たよ!キューピット!」

 歯を見せて悪戯っ子みたいに笑う桃美とは反対に庵門くんは困惑した様に躊躇いがちに笑っている。

 「何の話だ?」

 桃士に炊飯器を持ってくる様に言って、小皿におかずをよそっていく。

 「だからね、このイケメン兄さんにニィが女の子を紹介するの!」

 桃美は俺がよそった唐揚げと野菜サラダの乗った皿を桃李と桃恵の前に置きながら身を乗り出した。

 「え?俺が?何の為に?」

 桃美と桃士の分を渡したタイミングで炊飯器と茶碗を持った桃士が現れた。

 「ニィは身に覚えがある筈だよ?鬱陶しく付きまとう歳上のグイグイ来るお·ね·え·さ·ん。」

 花園先輩が浮かぶ。

 庵門くんには大きな皿を渡して「好きなだけ取って!遠慮しちゃ駄目だよ!?うちは遠慮すると食べられなくなるシステムだからね!」とだけ伝えた。

 「その先輩は『強いヒトを求めてる』って言ったんでしょ?」

 桃美の眼に金色が差した。本当に視えてるんだ。そして、ソレが正しいんだ。と自分の肩を叩いた。

 「庵門くん、彼女いる?」

 余りにも唐突過ぎて余りにも失礼な一言だったかと思うが「居ない」のを信じて眼に力を込める。

 「居ない、居ない。ずっと陸上一筋だったし、家と学校を正に飛び渡るだけでな〜んにも楽しい事ないし。」

 「「じゃあ、良かった!」」

 俺と桃美が同時に叫ぶ。

 やがて注がれたご飯が桃士から廻ってきた。

 「見た目は清楚で綺麗な人なんだよ!」

 取り敢えず持ち上げる。

 「でも淫魔なの。」

 桃美が横から落としてきた。

 「大胆なのは大胆だけど肉食系女子と思えば許せるかな…と。」

 頑張って持ち上げる。

 「ニィは怖くなって逃げた自分の要らない物を横流ししようとしてるんだけどね。」

 「桃美!」

 それは言わなくて良いやつ!

 丁度ご飯が廻ってきたので庵門くんの前に置く。

 「絶対付き合うよ。私には視えるモン。

 二人が仲良く手を繋いで河原を歩いてる所が。

 お兄さんはジャージ姿で先輩さんは制服。手にはストップウォッチ。タイムを測ってもらってる。お兄さん、チョー良い笑顔だもん。」

 桃美の揺るがない一言に庵門くんが俺に視線を向ける。

 「桃美は『視える』んだ。未来や死んだ人なんかも。」

 「ホントだよ。コイツ馬鹿だけどウソは吐かないからさ。」

 スマホを眺めていた桃李も顔を上げた。

 じっと夢中で考え事をしている様な庵門くんのお皿にどんどん唐揚げを盛る。

 「応えは直ぐじゃなくて良いから!花園先輩は『強い力のある妖怪』なら誰でも良い口振りだったけど庵門くん見たら絶対一途になると思う!!」

 俺の必死さは自分が逃げたいから3に対し庵門くんに幸せになって欲しい7から来るモノだった。

 いつもの様に俺の膝には桃果。

 桃果はカボチャの煮物が大好きで、生野菜が苦手。

 桃士はいつもの如く下ネタをバンバン飛ばし、庵門くんを苦笑させた。

 母は「パパ、いつ帰るのかしらね。」を5分置きに口にして、結局時計の針が11時を指した。

 「庵門くん、良かったら風呂使いなよ。

 下着は俺のか親父の新しいの出すから。

 親父に貰う?アレ、身に着ける物には拘るから結構お洒落なの持ってるんだよ。

 俺は基本スポーツメーカーだから。」

 やっと家族の大半が眠りに付いた頃、庵門くんにそう言えた。もっと早く言ってあげれば良かったけど歳の近い女子がウロウロしている中、「お風呂どうぞ」は流石に言い難かった。

 庵門くんは眠気からか真赤になった眼を擦りながら

 「至れり尽くせりで申し訳ないなぁ。

 ホント父さん達遅いね。」

 スマホで時間を確認していた。

 俺は、母が買ってくれていたスポーツメーカーのボクサーパンツと、親父のアニメのキャラクターの付いたトランクスを差し出した。

 庵門くんは俺のボクサーパンツを手に、片手を「ごめん」の様に挙げた。

 「まさか庵門くんのお父さん、庵門くんの事忘れて帰ってないよね?」

 不安になって台所で明日の朝食の味噌汁の出汁を取っている母にコッソリ耳打ちした。

 「まさか!それならパパは帰ってきてる筈でしょ?

 二人で盛り上がって何処かで飲んでるのかもね。もう!家で飲めば良いのに…。」

 母が呆れたように溜息を零す。

 庵門くんと入れ替わりに俺も風呂場へ向かった。

 桃美が予知した様に庵門くんが花園先輩と付き合ってくれたら本当に助かるのに…。

 熱いシャワーを浴びながら都合の良い事を考える。

 

 何やら騒がしいのでザッと洗って脱衣所で耳を澄ますと、どうやら酔っているらしい親父と庵門くんのお父さんの賑やかな声が響いた。

 「雪女!めんこい!めんこいっぺ!

 あはははははは。」

 愉しそうに親父が笑う。

 俺はスポーツメーカーのルームウェアを急いで身に着け、庵門くんの傍へ行った。

 「やっぱ外で飲んで来たの?」

 「みたい…。」

 親父は俺を見付けると、飛び付いてきて、

 「『まぁ、鬼?珍しい!本当だわぁ〜、角があるぅ〜。あ〜ん、角って硬いんだぁ。こわぁい〜!こっちの角はどうかしら?固いかしら?』だって!!めんこいっ!」

 親父の気持ち悪い手を振り解いて汚いモノを視る同様の眼で見る。

 「桃次、庵門くんを泊めて差し上げたら?今日はきっと帰る事にはならないでしょうから。」

 母は笑顔を保ちながら実は怒りの沸点に達している事など顔を見ずとも判った。

 庵門くんの手を取り

 「庵門くん、俺の部屋、離だから行こう!!」

 走って逃げた。

 「鬼倒くんのお母さんってめちゃくちゃ強え!」

 庵門くんが破顔して笑う。

 「庵門くんのお母さんは怒らない?」

 離の玄関のガタつく扉を閉めると自分だけのプライベート空間で気が抜ける。

 庵門くんもそれには同意の様で大きく背伸びをすると肩を回し始めた。

 「うちは父親絶対主義みたいなところがあるから父親がこう!と決めたら母親は反論しないし、いつも三歩下がって歩く感じだよ。

 むかしの日本〜みたいな。」

 冷蔵庫から炭酸飲料と大袋のスナック菓子を取り出しテーブルに広げる。

 「うちもそれあるよ〜。やっぱり昔ながらのあやかしは古臭いのかな…。鬼は鬼ノ国に引きこもってるから古臭いんだと思ってたけど…。」

 パリパリと軽い音を立ててカロリーの塊が口の中で粉々になる。

 判っているのに止められない…。

 炭酸飲料の蓋を開けたのは同時だった。

 「人間界に長く住んでる妖怪の方が確かに現代に馴染んでるよね。考えが…。」

 「例えば?」

 「雪女さんの旦那さんなんか雪女さんが外で働くの許してるしさ。

 この間なんか疫病神が芸人としてデビューしてたよ?何しても悪い結果にしかならないのがウケるって…人間界、何がウケるのかホント判らないよ。」

 疫病神が芸人に…?観た事無かったが確かにウケそうだ。

 オカルトコメディ番組で事故物件住みまくってる、死神に愛されてる男みたいだ。

 庵門くんの口内からも軽やかな音がする。

 二人で炭酸飲料を流し込む暫しの沈黙の後、庵門くんが言い難そうに「ねぇ…」と呟いてきた。

 「鬼倒くんの妹さん達って可愛いよね。皆…。」

 「うん。」

 ペットボトルから口を放す。

 「そこいらの女の子じゃ相手にならないでしょ?てか、ゴメンだけど俺としてはアイドルとか女優なんかも足元にも及ばない。兎に角可愛いんだよ!桃李なんかクールギャルギャルしてるけど友達とかとなんかあって独りで泣いてる時にヨシヨシしてやったら抱き着いて泣くんだよね。も〜そういう所がホント堪んない!顔が大体ギャルっぽくないでしょ?母親似だから。だから余計ギャップ感じるんだよね。桃美は嘘見抜かれちゃうから顔見るの怖いんだけど好奇心丸出しの顔で見詰められるとついキスしたくなる。めっちゃ可愛い!!桃恵はまだ幼さ残ってるのにお姉ちゃんの仲間入りしたくて堪んないんだよね。まぁ、それでも親父と馬鹿言ってる時が一番活き活きしてるけど…でも桃果が産まれて、両親を取られた気分になってるみたいで俺に甘えて甘えてホント最高に可愛い!犯罪者の気持ち判る!って時々ホント思うもん。こんなに愛しくて良いのかな…みたいな。桃果の可愛さは手榴弾だよ。発する言葉、走り寄ってくる所全て俺を爆破しようとしてるとしか思えない。なんだろうな…これ…恋人は実は身内として産まれてきました系?だったら法とかそう言うの届かない国で結婚する。一夫多妻、最高イエイ!って。」


 (ハッしまった!!!つい誘導されてしまった!)

 「うん…そうなんだ…。」

 庵門くんはそう言ったきり又沈黙がやって来た。

 どうしよう…こういう時は「なんてね。」みたいな事を言ってその場をチャラにした方が良いのか?否、嘘でも冗談でも俺は妹への愛を無いものだなんて言えない!!

 机の上で固く拳を握る。

 「その…出来れば…紹介してもらっても良いかな…。」

 庵門くんの一言に少し、否、かなり…だいぶ血が湧いて思わず声を張り上げた。

 「無理無理無理無理無理無理無理無理!!俺の妹はどの子も皆一人残らず俺のだからっっ!紹介とか出来ないから!」

 「いや、ごめん!そうじゃなくて…。妹さん達、皆可愛いんだけど…えと…その…先輩とやらを……………」

 庵門くんの最後の言葉は聞き取れなかった。何故妹の事を出したのか…決して妹さんを無視するつもりじゃないけれど…と言いたかったのか。全然そんな事気にしないのに…気にしないけど、庵門くんにとっては気にするのかもしれない。グイグイ来る肉食系な淫魔とまで正体が判っていてそれでも尚、紹介してくれと話すのは勇気が要る。

 庵門くんを物凄くちかしく感じた。

 「庵門く〜ん。」

 「和心で良いよ〜。」

 和心くんの照れ笑いが可愛い。

 「じゃあ、俺も。桃次で。」

 それからは先輩がどんなに肉食なのか、一途で女の子らしいか、見た目やグラつく色気についてとことん語った。(流石にノーパン、触らせ事件の話は止めた。)

 こんなに笑って、自分の想いの丈をぶちまけたのは何年ぶりだろう。小学生に戻ったみたいに馬鹿みたいに声を上げて笑った。

 つい数時間前までライバルとしてグラウンドを走っていたなんて嘘みたいだ。

 これからもずっと仲良く出来たら良いな、なんて…口に出したらきっと魔法の様に消えて俺をまた失望させるだろうから大切に、口に出さずに心に仕舞った。


 朝まで起きているつもりだったのに眼が覚めて、眠ってしまった事を知った。

 部屋の隅には親父が丸くなって派手なイビキをかいている。

 和心くんはまだ良く眠っているのでお腹にタオルを掛けて、玄関へ向かう。

 睡眠不足か頭が重くて真っ直ぐ歩けない。

 縁側の雨戸を開けていたら、中から母が顔を出した。

 「庵門さんに此方で休んで頂いてるから玄関から入りなさい。」

 親父は俺の部屋に追っ払ってお客様は座敷と言う事か…。

 頭を掻きながら玄関から中へ向かう。

 炊きたてのご飯の甘い香りがする。

 「おはよう、お母さん。

 部屋に大きなネズミがいたよ?」

 長らく使用されていない二人掛けのテーブルから椅子を引く。

 「駆除してもらわなきゃ駄目かしらね。」

 母は無感情にそう言い放つ。

 これは本気っぽい。

 「いつ許してあげるつもり?」

 いつまでも居られると迷惑だ。

 「許してあげるつもりはないわ。

 今夜からは蔵で寝れば良いわよ。」

 思わずギクリとなった。

 「何?桃次。」

 顔に出ていただろうか。母が訝しげに俺を見詰める。

 「いや…ちょっともう使わなくなった物とか結構放り込んでるから片付けないと〜と思って…。」

 母は呆れた様にそれでも怒りを露わにして

 「桃次!あの蔵は先代桃太郎の大切な物が入ってる蔵だから私物化しちゃいけないってあれ程注意してきたわよね?」

 俺にも八つ当たりの球を投げてきた。

 「あ〜、ホントごめん!直ぐ片付けるから!それまで親父には中庭で寝てもらって!」

 急いで靴を履き、桃の樹を掻き分け、蔵へ向かう。

 何度かノックして漸く扉が開いた。

 中からティーシャツにモコモコハーフパンツの慈が顔を隠しながら出てきた。

 「何モモジロー、ワタシまだメイクしてないんだけど〜…。」

 メイクのビフォア、アフターで慈は完全に顔が変わる。

 「気にしない!それより大変なんだ!

 親父が蔵に住むかもしれない!慈を匿えなくなりそうなんだ!」

 言葉に気を遣っている暇も余裕も無かった。

 慈は軽くショックを受けた様にボンヤリしていたが、直ぐ、「うん、そうか、潮時か、そうか、そうだよね。オッケー判った。」

 何度も自分に言い聞かせる様に呟いた。

 「潮時」桃美が言っていた言葉と重なる。

 コレの事か…と視線を足元へ移す。

 「離に来るか?」

 誘ってみたが、慈は少し考えた後、

 「きっと時期なんだと思う。

 前、話したでしょ?運命のヒトの話。

 ワタシ、その人に相談する。」

 小さな眼を何度も瞬きさせながら慈は自分に言い聞かせる様にそう言って微笑って見せた。

 「俺も一緒に行って頼んでやるからな!?」

 慈はアハハ、と笑うと

 「そんなに優しくしてくれなくてもずっとモモジローの事は大好きだから心配すんねぃ!」

 最大級の強がりを見せた。

 こんな、拾った犬猫を途中で捨ててしまう様な中途半端な事は自分が許せない。

 絶対最後まで付き合ってやろう!と心に誓った。

 和心くんはそれから一時間程して起きて来て、二人で揃って朝食を食べた。

 それから一緒に町内を軽くランニングして、中庭で筋トレしている中、昼前、和心くんの親父さんが起きてきた。

 「大変ご迷惑をお掛け致しまして…。

 このお礼は後日、必ずさせて頂きます。」

 母に深々と土下座をする親父さんと昨日、うちの親父を野次っていた親父さんが同一視出来ない。

 親父さんは気の毒がって母の食事に口を付けないまま、畳に頭を擦り付ける様にして、和心くんと共に天狗山に帰って行った。

 何処かにある天狗を祀る神社を入口に、彼等は自分の里にいつでも出入り出来る。

 その気軽さが鬼ノ国の厳重なしきたりとは大きく異なって、鬼というあやかしの犯した罪と、怖ろしさを再認識し、天狗が人間にとって良きあやかしなのだと羨ましくも思えた。

 「お母さ〜ん!もうひとっ走りしてくるね!」

 離の玄関から此方を覗く怖ろしい筈の鬼の寂しそうな視線を無視して、門扉に向かった。

 もうこれ以上は負けられない。

 負けたくない。手放したくない。

 心細い想いをしたくない。

 無様になりたくない。

 強く…なりたい!!!

 大切な物がどんどん増えていく事に今は不安より喜びの方を強く感じていた。

 

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