第32話 しゃぼんだまプカプカ

猫として生きていた時代と違って、ネコジンの1日はとてつもなく早くて、忙しなく過ぎ去っていきました。

夜空を見上げたり、季節の虫さん達と追いかけっこをしたり、お気に入りの場所で日向ぼっこをする余裕さえなくなってしまいました。

朝ご飯の後は食器洗いやお洗濯。

昼ご飯を済ませると、大豪邸の大掃除。

夜ご飯を過ぎれば、人間社会についてみっちりとお勉強。

先生役のマルグリーデは、この世界の成り立ちと歴史を紙芝居にして教えてくれました。

兎にも角にも、与えられたルーティーンをこなすだけで、みたらしと雪之丞は精いっぱいでした。

自由に外出することは出来ても、課題をクリアしないと柳ねこ町から出ることは許されませんでした。

それだけ、この世界は危険なのです。

ところが「どこへだって出かけられる許可証」を、早い段階でもらった雪之丞は、3丁目はおろか、綾野姫実篤邸からも出ようとはしませんでした。

りりと出かけた夜、酔っぱらって醜態をさらけ出した自分が許せなかったからです。

外に出たら、またたびに似た誘惑がいっぱい。

それに打ち勝つ自信もありませんでした。

猫なで声で甘える姿は、りりのスマホに録画されていました。

未だに猫扱いをされるのも、あの日のことがあったからだと思っていました。

ネコジンとなった今は、翔也の部屋で眠るわけにもいかなくて、人としての制約は面倒臭いモノになってしまいました。


翔也に近付きたい。

人間になったら、対等になれると思っていたのに。

そんな毎日に不安は募る一方で、雪之丞は次第にしょんぼりしょんぼり。

元気がなくなってしまいました。


雪之丞はりりが嫌いではありません。

時折ナデナデされる感触や、恋心をからかわれるのも実は新鮮でした。

素直になれない自分がキライなのです。

それだけのことです。

踏み出せない自分もキライ。

心の中に芽生え始めた「勇気」というモノに振り回された日は、リリと居ると安心して眠れました。


みたらしはというと、マルグリーデに質問するばかりで、世界の仕組みを覚えるまでには相当の時間を要しておりました。

それでも、暗記能力が乏しい反面、経験値による記憶力は優秀でした。

道路は端っこを歩かなくてはならない。

信号を守る。

相手を不愉快にさせない。

みだりに威嚇をしない。

ゴミは持ち帰る。

ちゃんとトイレを使うこと。

高くなった目線に自惚れてはいけない。

これらは全て、お散歩という経験から培われた約束事で、みたらしはよく理解しておりました。

それなのに、勉強中は唸るばかりです。

人間社会の仕組み。

お金のために働いているということ。

生きることに、何かしらの理由をつけようとすること。

見栄やプライドを大切にして、周りの人よりも優位に立とうとすること。

人間以外の生命は、消耗品だということ。

暮らしが豊かになる一方で、心は貧しくなるということ。

それでも生きているという不自由さ。

考えれば考えるほど、みたらしの頭はしゃぼんだまみたいにパンパンに膨れ上がってしまいました。


「むつかしいことは全部、しゃぼんだまみたいにプカプカと飛んで行ってしまえばいいのに・・・」


授業中、みたらしはいつも顔を歪めていました。


ねず市、ねず華、ねず坊は、神ねこ主様の計らいで、綾野姫実篤邸のひと区画を与えられると、一日のほとんどをマリーゴールドが咲き乱れる花壇の中で過ごしました。

それぞれが好みの大きさのトンネルを掘って、地中でごっつんこする遊びはとても愉快で、ふらりとやって来る神様トンボはそれを眺めながら笑ってくれました。

赤レンガの蔵も、ねず市たちの立派な屋敷に生まれ変わって、食べるモノにも困らなくなりました。

秘密の地下トンネルを通って、マルグリーデがちゃんとご馳走を運んでくれるからです。

心配性のねず華の顔は、日増しに明るくなっていきました。

ねず坊は、そんな妻にクローバーの月桂冠をプレゼントすると、へへへと笑って頬にチュウをして喜びました。

幸せ過ぎる毎日に、ねず市だけは罪悪感に苛まれていました。

素敵な生活は実は幻想で、未来は生きる苦行にまみれている。

長年の穴倉生活のお陰で、ねず市の心にはちいさな傷が出来ていたのです。


「おう、あまり気を抜くんじゃねえぞ! ネコなんてのはいつ裏切るかわかりゃしねえんだ! 用心にこしたこたねえが、ま、警戒ばかりしていても身が持たねえ。いいか、ほどほどが良いんだ。何事もな、ほどほどがいいんだぜ!」


ねず市は、一日の終わりに必ずその言葉を投げかけました。

スニーカーの中でお団子みたいになって眠れる喜びも、素直に味わえない淋しさはとても窮屈でした。

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