第50話:続くえにし

「……菫?」


 景色が夜に呑まれ、なにも見えなくなった。そしてゆっくりと、現実の視界が戻ってくる。そこには心配そうに覗き込む、雲の顔が。


「菫。大丈夫かい? しっかりおしよ、ねえ。戻ってきてるだろ、なんとか言っておくれよ」


 彼女の声は、しっかりと聞こえている。急かされるのも、雲の優しさだと理解出来る。だが、すぐに答える気にはなれない。


 すう。

 はあ。

 すう。

 はあ。

 己の息遣いが、耳障りだ。だがそれもすぐに、どうでもいいと思考から投げ出した。自身の母を死なせ、友を見殺しにし、安穏とこの祠へ居たを許せない。


 ――わたしって、どれほど馬鹿なんだろう。

 無様で、滑稽で、泣けてくる。だから大きく、息を吸い込んだ。祠じゅうの空気を独り占めにするつもりで。

 おかげで腹の底から迫り上がる涙を押さえ込めた。


「雲」

「あ、ああ。居るよ、アタシはここさ」


 彼女も失敗をするのだろうか。幻影を見せる術から帰って来ないのを、雲は心配したらしい。

 急な呼び声に声を詰まらせたが、手を振って答えてくれた。


「狗狼に。わたし、狗狼に聞かなきゃ」


 思えば最初に、雲は言っていた。分からないことは狗狼に聞けと。ここまでのこととは、彼女も知らなかったらしいが。


「うん、そうだね。あいつも部屋で待ってるよ」

「うん」


 余計なことを考えない。余計なことを話さない。今、雲と話せば頼ってしまう。

 ただ縁の奥を見据え、ゆっくりと立ち上がった。縁まで満たした盃から、一滴も溢さぬ心持ちで。


 しかし当てがわれた部屋を過ぎようとして思い出す。文机から、母の形見と知れた櫛を取った。


「狗狼。入るね」


 彼の部屋の前に立ち、障子戸越しに声をかける。三歩遅れて、雲も着いてきた。

 狗狼の返事はない。だが構わず、戸を開ける。狗神はいつもと同じに、真ん中より少し奥へ座った。

 呼びかけへの答えのつもりか、閉じていた目を開く。それに対面の位置へ、いつもは置かれていない敷物が用意されている。


「聞きたいことがあるの」

「うむ」


 許しも得ずに入室してはいけない。雲に教わったことを守り、もう一度問うた。するとこれには、返事がある。

 足を滑らせ、女房装束の裾までを部屋に引き摺る。首だけを振り返ると、雲は縁に留まった。

 頷けば彼女も頷き、そのまま戸が閉められる。


「最初に雲が、狗狼を嘘吐きって言ってたの。そんなことないって思ってたけど、間違ってた」

「うむ」


 菫が敷物へ座っても、彼は自分から話そうとする素振りがない。仕方なく指摘をしても、弁明をしないらしい。


「たくさん聞きたいことがあるんだけど。まず、これはなに?」


 手に持った櫛を、狗狼との中間へ置く。彼の狩衣に染められるのと同じ、九曜紋を表に。

 問わねばならぬことは他にもあった。いや、祠での出来事の全てを問わねばならない。

 だがそれには、菫が持ちそうも無かった。ならば最も重要なことから、順番にだ。


「それは、櫛だ」

「うん。母さんが持ってたのを、狗狼はわたしに持たせたよね。どうして? そこにあるって知ってたみたいに」


 人間の事情をいちいち覗いてはいない、と狗狼は言っていた。人間でも獣でも、個々の都合をいちいち考えないとも聞いた。

 ならば母の持ち物を把握しているのがおかしいし、死なせた途端にその場へ現れたのがおかしい。

 狗狼の嘘は、きっとこの櫛に関わっている。菫はそう考えた。


「我を死なせた男の話。覚えているか」

「うん。偉い神さまが、その娘なんかの様子まで見させたって」

「それは今も続いているのだ」


 関係のないことを唐突に言い出すものだ。と思ったが、神妙な態度に咎めなかった。

 けれども何百年も前のことが、いまだ続いているとはどういうことか。さすがに理解が及ばず、聞き返す。


「ええと、どういうこと? この櫛と関係があるの?」

「ある。主上は男に、この櫛を与えたのだ。それは妻に渡り、娘に渡った。我には櫛のある場所が、いつも見えている」


 予想しなかった事実。しかも狗狼は、言い淀むことなく答える。

 厨から立ち去ってこちら、相当の覚悟をしているのはなんとなく分かるが、菫は理解が追いつかない。


 この櫛は人の手を伝い、長い年月を受け継がれた。それは分かる。

 ただしその場合、人の手とは親子同士になるはずだ。

 ――それってつまり……。


「狗狼を仕留めたのは、わたしのご先祖ってこと?」

「そうだ」

「母さんやわたしのことも、ずっと見てたの?」

「そうだ」


 問いに答えて、狗狼はいちいち頷く。もう嘘は吐かないと、態度で示しているのかもしれない。

 けれどもそうすると、おかしいことがある。


「夜風は、狗狼がわたしに会わせたの?」

「そうだ」

「じゃあどうして、父さんを死なせることに?」


 今の菫に、夜風との記憶は無い。先ほど見た幻影だけだ。

 しかし獰猛な狼の中で、あの一頭だけがあれほど仲良くなれるとは。些か不審だった。


「菫の父は、あの狼を殺そうとした。お前の母と同じく、娘を奪われると考えたのだ」

「だからって」

「いや、そうではない。父はそのとき、お前の居ることに気付かなかった。いざ、という段になって驚き、足を滑らせた」


 それは母のでまかせのはずだが、嘘から出た実ということか。ではどうして、母は父の仇と思い込んだのか。

 問うと狗狼は、また頷いて答える。


「あの狼は、父の死体を人の目に触れるところへ運ぼうとした。それを誰かが、噛み殺したと言ったのだろう」


 櫛の無い場所。夜風の見聞きしていないものは、本当に分からない。狗狼は不明を詫びる。


「うん、じゃあ。そうだとして、もう一つ分からないの」

「なんだ。なんでも答えよう」

「ずっと、何百年も。狗狼はご先祖を見守ってきたのよね?」

「そうだ」


 結局、この疑問に戻るらしい。無意味な先延ばしなどせず、聞いておけば良かったのかもしれない。

 己の馬鹿さ加減に、ため息を一つ。菫は居住まいを正し、問う。


「どうしてわたしにだけ、夜風を会わせたの。どうしてわたしだけ、いつも特別に扱うの」


 蝋燭に照らされた黄金の瞳が、ほんの一瞬逸らされた。

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