第35話:服わぬ男

「誰がなんと言おうと、か……」


 他から咎めを受けたとしても、味方と決めた者を守る。乙名の覚悟はとても強いものと感じた。

 周りの大勢や、お上に楯突くのも辞さないような言い方を、なぜだか菫にはすんなりと受け入れられる。


 ――なんだろう、この気持ち。

 胸の奥底へ、ふんわりと温かいものがある。忘れようとしても思い出せない、そんな歯がゆい感覚のするなにか。

 とても近しい場所にあるそれが、どんな代物か。はっきりとさせたかったが、進ノ助を前にしては無理だ。


 この幼馴染の息を落ち着けて眠る姿に、心がざわめく。どうして自分が、介抱するような位置に座っているのか。そう思うとなにやら惨めな感情が、ふつふつと沸きそうになる。


「んんっ」


 無意識のうち、じいっと進ノ助を見つめていた。すると静かに眠っていたのが、不意にぐずるような声を上げる。

 どうしよう、と今さらに慌てた。目を合わす前に、立ち去るべきだったのでないか。いや、たった今からでも遅くない。すぐに逃げるべきでは。

 けれども怪我人を見捨てていくようで、結局はただ座っていた。


「うっ、痛え!」


 向きを変えようとした進ノ助は、痛みに縮こまる。随分と使い込まれているが一応は絹製らしい衾を抱え、食いしばった隙間から息を啜った。


「……ん、菫か」

「うん」


 しばらく。固く瞑っていた目がやがて開くと、すぐに名を呼ばれた。肥の蓋を取るときのように、息を止めて返事をした。それでも腕や太ももに粟立つのを感じる。


「ここは――南里だな」

「うん」


 仰向けに戻った進ノ助は、首だけを慎重に回して部屋を眺めた。縁から覗く外の様子を見たのだろう、現状を把握したらしい。お天道さまはまだまだ高く、表の明るさが遠い別世界のようだ。


「兄貴は?」

「深手だけど、命がどうこうは無いって。練ったよもぎを巻いてるから、手拭いを勝手に取るなって」


 旅籠の勤め人に、薬を扱う者が居た。その男が、乙名に言っていたままだ。

 これを伝えるだけでも、菫は残った意味を果たしたと言える。すぐにでも会話を打ちきり、じゃあねと立ち去りたい。


「そうじゃない。俺のこと、なにか言ってなかったか」

「阿呆って」


 痛みは治まったようだ。まだ噛むように呼吸をするものの、脂汗は止まったと見える。

 ただ表情の乏しいせいか、普段より偉そうに感じた。


「はっ、兄貴ならそうだろうな。ちゃんと言いわけしとかなきゃ」

「言いわけなんか……」


 言いわけもなにも、悪いのは進ノ助だ。雲もやりすぎとは思うが、怒らせるようなことばかり言ったのを覚えていないのか。

 そのようなことを言いかけて、やめた。きっと理解してはくれないし、理解してもらう意味もない。


「言いわけは要らないのか? 菫がきちんと話してくれたんだな」


 ――ほらね。

 同意を求める何者が居なくとも、ひとごとのように流さねばやっていられない。そうしてなお、目を閉じて大きく息を吐く必要がある。


「菫、ありがとうな」

「なっ――」


 礼を言われて、頬が引き攣った。いやさ言葉にでなく、同時に動いた手が菫の膝へ触れたからだ。


「あの女、人間じゃないよな。まさか菫も、あんなのの仲間になったのかって思っちまった。でも良かった、やっぱりお前は俺の菫だ。俺はあんな物の怪からも、お前を守ったんだ」


 なにやら都合の良いように、筋書きが変わっている。曰く自分の物と示すがごとく、進ノ助の手が少しずつ上へ伸びた。

 衣の織り目を一つずつ、手繰るように。じわじわと這うのが気色悪い。これならまだ、地虫の千匹に襲われたほうがましだ。強烈な怖気が喉を締め付けて、声が出ない。


「お、お、おお――」

「ん、なんだ?」


 俺の菫とは、いつ決まったのか。守られた覚えもない。

 そう言えぬ代わりに、手を払った。震える我が手でしたものだから、撥ねつけるようになったのは否めないけれど。


「なんだよ」


 怒気が篭もる。年ごろの男として、進ノ助の声は少し高い。以前はそれが男くささを薄め、良い意味での気安さを感じさせた。

 だが今は威圧感と言おうか、癇癪の気が目立つ。この幼馴染の聞き分けのなさを象徴すると思えてならない。


「お前は俺の女だ。ガキのころからずっとそうだった。お前も俺に、色目を使ってたじゃねえか!」

「ひっ!」


 衾が撥ね退けられ、進ノ助は上体を起こす。脚の痛みに顔を顰めたが、堪えてすり寄って来る。

 咄嗟に菫が目を閉じ、また開けたとき。鼻と鼻が触れそうになっていた。


「し、しし、しんの、進ノ助」

「そうだ。それは俺の名前だ。お前の亭主になる男の名前だ」


 脂汗に汚れた顔が、ぎとぎとと照る。接吻でもするつもりか、その距離は際限なく縮められていく。

 座ったまま、仰け反って避けるには限界があった。遂に菫は、床に背中を付けてしまう。


「菫!」


 がばと、覆いかぶさられる。進ノ助の手は両肩を押さえ、膝が衣の裾を踏みつけた。

 動けない。落ちてくる唇を躱そうにも、首を振るだけが限界だ。


「わた、わたし。色目なんか」

「ちょっと俺が冷たくしたら、すぐに言い寄ってきたじゃねえか。旨くもない汁なんか持ってよ」


 あれは幼馴染だから、冷たくしすぎてはかわいそうと思っただけだ。妻を亡くした進ノ助の父親に、差し入れの意味も併せてのことだ。


「ち、違うの。いや、進ノ助やめて」


 腕の力だけで、押し退けようとした。しかし全くの徒労に終わる。力の入らぬ手が、進ノ助の胸にただ触れただけでしかない。


「なにが違う!」


 菫の手首を二つ重ね、進ノ助の左手が床へ押し付ける。両腕を頭上にした無防備な格好で、残る右手が衣の衿にかかった。


「いやあ誰か!」

「誰が来たって構うもんか、お前は俺のだ!」


 袿と単衣の肩が、一度にはだける。菫の素肌に、床板の感触が硬く冷たい。

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