第29話:感謝の言葉

「俺、山神さまに頼んだんだ。お前を返してくれって。もしかして、会ったのか? 帰れって言われたのか?」

「あ、え……」


 互いの距離が近付くほど。当たり前に、進ノ助の声が大きく聞こえる。まるでそれが、菫の足を繋ぐ鎖のように。じっと、動くことが出来ない。


「お前の代わりにさ、弓を捧げたんだ。あれを失くすとは何ごとだ、って親父に大目玉だった。でも菫が俺のところへ帰って来るんなら、安いもんだ。なあ?」


 言いつつ。弓を引き藪を分けるごつごつとした手が、菫の腕を掴んだ。すぐにでも連れようというのか、引っ張られた手首と肩が軋む。


「いっ、痛い!」

「あ、ああ。悪い」


 思わず叫んだ。

 するとさすがに、慌てて離される。しかし所在を失ったその手は、すぐに今度は肩へ置かれた。


「ええと。待っててくれたのか? 俺も菫が居るような気がして、何度も来ようと思ったんだ。でも昨日まで、雪が降り続いてただろ。親父の目を盗むのも難しいんだよ」


 十二枚の衣を隔ててなお、進ノ助の熱が伝わるように思う。なにやらそれが毒にでも冒されているようで、気が気でない。


「菫、東谷は助かった」


 笑んでいた顔が突然、真面目くさって頭を垂れる。なんのことやら分からないが、たっぷり三十を数えるほども続けられた。


「これって確証はないんだ。でもあれから、もうふた月以上も経つ。お終いだって喚いてた親父も、すっかり元に戻っちまった。それはお前が贄になってくれたからだ。礼を言う、ありがとう」

「わ、わたし――」


 望んだわけでない。村が終わるという理由も知らない。

 問おうとしたが、声がかすれてしまう。三日も炙られ続けたほどに、喉がからからだ。


「でもな。お前には悪いけど、そんな風に思ってるのはたぶん俺だけだ。他の人たちはまだ、お前を許さないって言ってる」


 一応は思い遣りなのだろう。無理をするなと、進ノ助は首を横に振る。続けて告げられた事実は、心臓へ負担をかけるのに十分過ぎたが。


「だからって心配すんな。俺が一緒に居てやる、都へ行こう。あそこならきっと、俺も猟師以外の仕事がある。お前を食わすくらい、なんてことない」

「ひが、東谷を?」


 何度か咳を払って、ようやくまともな声が出た。進ノ助は、にかっと歯を見せて頷く。

 この幼馴染なりに、菫を救うにはどうすれば良いか考えた結論のようだ。願いを言いに来たとき、もう考えていたに違いない。


 ――だから弓を?

 東谷に生まれた以上、猟師として生きる以外の道はない。言うように都へ行けばなにかあるのかもしれないが、誰もそんな保証はしてくれない。

 進ノ助に出来る一世一代の決心として、途轍もなく大きなものだ。


「そうだ。俺はお前を連れて、東谷を捨てる。とりあえず、南里みなみさとへ行く。あそこの乙名おとなは、親父より俺のほうが顔が利くからな」


 御覚山の南にある町。乙名とは帝にも報告の上がる、集落の代表者のことだ。東谷のように住人が勝手に決めて良い立場とは違う。


「さあ行こう、と言いたいけど。お前その格好はどうした? お公家さまの女みたいだぞ」

「これは……」


 女房装束に、化粧もしている。頭だけは元の束ね髪だが、よくもすぐに菫と分かったものだ。

 いかにも似合わないと言いたげに、進ノ助の眉が顰められる。


「暖かそうだけど、それじゃ山を下りられねえな。持ってやるから、何枚か脱げ」

「えっ、あの」


 否も応もなく、進ノ助の手が衿にかかる。

 そよ風を巻くように脱ぎ着させてくれる雲とは全く違う。力任せと言って良い勢いで、唐衣と表衣が一度に剥かれた。

 放られた衣は、雪の上へばさと落ちる。舞い上がった粉雪がほんの一瞬、辺りを真っ白に塗り替えた。


「進ノ助、いや」

「遠慮するな、早く下りなきゃ凍えちまう。あ、はだしじゃねえか。手拭いを巻いときゃいいか」


 こちらの言い分に聞く耳を持たないのは、昔からだ。それでも菫を取り戻したい気持ちは本物と、雲も言っていた。悪気はないのだ。

 あっと言う間に、単衣と袴。その上の袿一枚にされた。温もりが残らず逃げてしまい、ぶるっと身体じゅうが震えてしまう。


「よし、これでいい。これはお前が背負え。そしたら俺が、お前を背負うから」


 脱がされた衣は、細縄で手早く括られた。菫が肩へ負えるように、進ノ助は背中へ回る。


「待って、進ノ助。わたし、いや」

「なにがいやなんだ? すぐ終わるから、我がまま言うなよ」

「違う、違うの」


 一緒に行きたくなどない。触れられたくもない。肝心な部分が声に出せなかった。

 衣を縛る手付きが、菫自身の縛られた記憶を刺激する。逆らえばなにをされるのやら。そう思うと、顎が固まってうまく動かせない。


「やれやれ。黙って見てりゃ、好き勝手だねえ」

「雲!」


 今の菫に頼れる、ただ二人。その一人の声に、歓喜した。首のもげそうな勢いで振り返り、驚いた進ノ助が尻もちをつく。


「え、ええと。あんたは?」


 雲の顔色を見て、驚きを最小限に留めたのは褒めるところだろう。菫の親しげな視線で、ある程度の判断をしたようだ。


「アタシのことなんてどうでもいいさ。菫を掻っ攫おうって輩に、釘を刺しに来ただけなんでね」


 真っ白な雪の襲を、本物の雪に引き摺り。雲は祠から、ゆっくりと歩み寄る。

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